第6話 怒涛の追い上げ
「いちに、いちに……」
2人の少女の可愛いらしい掛け声からは想像のできないほどの速さで、ものすごい追い上げを見せていく。
昨年の姿とは全く異なり、息はぴったりと合っていた。
僕は、驚いた。
2人がこの日のために何度も練習し、努力していたことはよく知っていたが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。
……いや、練習していた姿も確かに見ていたはずなのだが、こんなに速かった記憶はない。
まるで1人で走っているかのように錯覚させるスピードで、2人は最初のコーナーに差し掛かる。
インは金郷さん、アウトラインを黒垣さんが走る。
長身でスタイル抜群の黒垣さんと小柄な金郷さんでは、走る歩幅が僅かに異なるせいで、昨年は最初の直線で転倒してしまった。
だが、カーブではこのストライドの差が、むしろ有利な方面へとはたらく。
直線ではやや長めの歩幅で走っていた金郷さんが、カーブでは走りやすい歩幅となり……2人の走る速度は、ここにきて更に加速しているように見えた。
あれだけあった赤組との差が、みるみるうちに縮まっていく。
間もなくコーナーを終える赤組の走者が、背後から迫りくる足音に、一瞬あの憎らしい顔を苦い表情へと変化させたのを、僕は見逃さなかった。
「……行け!頑張れ!」
僕は思わず、そう声に出して叫んでいた。
―――あの後、昨年度の僕のクラスでは色々あった。
赤組の走者であるあいつは……
五月蠅い女子グループのリーダー格であったあいつは、同じクラスになりたての頃から陰で何度も金郷さんや黒垣さんの悪口を言っていたのを僕は知っていた。
金郷さんや黒垣さんは、勝ち気な性格が多少裏目に出てはいたが、根は他人想いの優しい性格で……それなのに、鍋花を筆頭にした女子グループは、彼女たちのことを悪く言い、やがてクラスから孤立させていったのだった。
噓の噂をでっち上げて……
自分の容姿や内面の美しさが彼女たちに叶わないからって、他人を貶めるようなことをして恥ずかしくないのかって、僕はずっと思っていた。
彼女たちが昨年度の後半に孤立してしまったのは、鍋花に貶められていたせいだってことに、どれだけ気づいていたのか、僕は知らない。
だが、金郷さんの推しとして、彼女のことを、そして黒垣さんのことを印象操作していたあいつに、この場を用いて一泡吹かせてやって欲しかった。
例えクラスが離れ離れになっても、僕は金郷さんの―――推し、なのだから。
先頭を走る鍋花らがコーナーを曲がり切ったすぐ後に、金郷さんと黒垣さんもまた、最初のコーナーを終える。
間もなく残り半周となる―――まさか、こんなにも早い局面で、あの差を追いつくだなんて思いもしなかった。
あとは赤組の2人をどうかわすか―――というところだが、トラックのイン側の走路は鍋花らにしっかりと塞がれており、やむを得ないことだが抜き去るには金郷さんたちが走路を少しずらして外側に膨らむ必要がある。
次の最終コーナーに差し掛かるところで追い越すために外側を走る羽目になれば、大きなタイムロスは免れない。
できればこの直線で抜いておきたいところだ。
それは2人も理解しているのだろう。
走路を僅かに右へずらす。
「いちに、いちに……」
この際、金郷さんはストライドを多少無理して広げる必要があった。
一瞬ではあったが、少しだけ左目を瞑る金郷さん。
だが、すぐに気を引き締め、凛とした横顔に戻るあたりは、流石としか言いようがない。
この半周で既に、相当に無理なスパートをかけてきたのは間違いないが、それでも崩れないあたりは、流石の努力といったところだ。
―――ひやひやするから、生脚を見せての出場は、してほしくなかったけど。
ぽつりぽつりと―――灰色の雲から零れ落ち始めた雫は、不慮の事故を想起させる。
努力だけでは決して補えない部分もある。
だが素直で真っ直ぐな、育ちの良いお嬢様にとっては、そんな発想は微塵もなかったのだろう。
どうか無事に、走り終えられますように―――
そんなことを祈っているうちに、降り始めた雨は、鍋花らが進む走路を僅かに濡らしていた。その湿り気に足を取られたあいつは若干、バランスを崩しかける。
天は、心の美しい者たちに味方をしてくれるのか―――
しかし、すんでのところで立て直し、鍋花は転倒を免れる。
(ちっ。そのまま転んじまえば良かったのに……)
なんて思いが一瞬過るも、黒い心は胸の内にしまい、僕は2人の応援に徹することにした。
とはいえ、今ので一気に距離は縮まり、白組のお嬢様2人はペースを保ったまま、赤組の2人に並びかける。
このまま行けば……
大逆転勝利。
そして白組の逆転優勝に皆が湧きたち、2人はその立役者として、各々のクラスで人気者となることだろう。
昨年から引き続き、2人の悪い噂は他クラスにいる僕の耳にも時々届く。
でも、今年こそは……
綺麗な2人には、その容姿と内面に相応しい、楽しい学園生活を送ってほしい。
不器用で可愛らしい彼女たちが、裏の顔があると誤解され、孤立したまま学園生活を送り、卒業していくだなんて、悲しすぎる。
できれば鍋花にもざまぁしたいのは山々だが……
先ほどのぬかるみで無様に転ばなかったのは残念だが、まあ、あの大差を追いつかれてひっくり返される時点で十分に屈辱的だろう。
そしてそんな未来は、次第に現実味を帯びてくる。
赤組も相当な速さで走っているが、トップスピードで追い上げてきた白組の少女2人が、勢いをそのままにして一瞬で抜き去る……
周りで見ていた誰もが、おそらくそう確信したことだろう。
僕もそれを、信じていた。
だが、鍋花が……
あいつが、あの醜い顔で、にやりと笑ったんだ。
きっと誰も、僕以外に、その表情に気づいた者はいなかっただろう。
だが僕は、あいつの、あの糞みたいな陰口を言いふらすときのあの顔を見て、嫌な予感がした。
他人を陥れたときの、あの勝ち誇ったような笑み……
鍋花の右足は、トラックの中央で応援する生徒たちから見て、ほぼ死角になっていたといえる。
その右足が―――
隣に並びかけた、懸命に走る金郷さんの小さな左足を……グッと踏み込んだ。
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