第7話 そして―――

 鍋花が、金郷さんの小さな左足を、グッと踏み込んだ。

 予期せぬ痛みに、思わず金郷さんの端正な横顔が歪む。


 次に踏み出す左足の歩幅が僅かに小さくなる。

 細い太股で懸命に踏ん張り、そして右足を踏み出すものの―――


 無情にも、その歩幅は必然としてやや小さなものになる。

 黒垣さんの左足が、金郷さんの右足に合わせてやや後方へと引っ張られる。


 ―――分かっていた。

 これから起こる悲劇を、僕は確信してしまう。


 だけど、僕はこの現実を、受け止められずにいた。

 受け止めたくなかった。


 2人が毎日練習していた姿が、まるで走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。

 頑張る2人の姿は、生まれ持った容姿とかは関係なく、本当に美しかった。


 だからこそ、努力が報われるところを僕は見たかった。


 金郷さんが次に踏み出した左足が、雨のぬかるみのせいでうまく踏ん張れずに若干沈み込む。

 僕の目にはまるでスローモーションのように映っている今という瞬間が、どうか止まってほしかった。


 だが、現実はそう甘くはない。次に踏み出された金郷さんの右足と黒垣さんの左足のタイミングが合わずに、2人の身体の軸は、大きく前側へと傾いていく。

 一度狂いだした歯車は、少女の足を繋いだバンドによって、更なる狂いを産んでいく。


 2人は今、どんな気持ちでいるのだろう。

 悔しさだろうか。それとも、これから2人を襲うであろう痛みへの恐怖―――


 分からない。

 だが、いずれにせよ悲しい現実が待ち受けているのは、紛れもない事実であった。


「……あっ……!」


 悲鳴にすらならない、息を吞むような声が、金郷さんから零れ落ちた瞬間―――


 金郷さんの身体が勢いそのままに、地面を滑っていった。

 僅かに遅れて、黒垣さんもその華奢な身体をグラウンドに叩きつける。


 グラウンドのまだ濡れていない部分からは砂煙が上がり、視界を遮る。

 5メートルほどの長い視界が一瞬にして奪われ、その激しさが見ている側にも伝わってくる。


 やがて、開けた視界に待っていたのは―――


 2人の美少女が、苦悶の表情を浮かべてうつ伏せに倒れている光景だった。


(ああっ、クソっ―――クソったれがあああああ!!!)


 しかしそんな2人に追い打ちをかけるかの如く、雨脚は次第に強くなっていき、2人の背中を濡らしていく。


 赤組の背中はどんどん遠のいていく。

 その光景を、2人は歯を食いしばって悔しそうに見つめていた。


 激しい痛みに襲われて、身体が思うように動かない。

 そしてそれがもどかしくて仕方ないというのが、ひしひしと伝わってくる。


 それでも、彼女たちはまだ諦めていなかった。

 赤組の走るペースは、疲労からかゆっくりと落ちてきており、最初の差を追いついたことから考えれば、もう一度走り出せば間に合わないこともないだろう。

 だけど、仮にそうだったとしても、普通の精神力で再び立ち上がることができるかといえば、否、そんなことは到底できないだろう。

 しかし―――


「……んっ……」


 苦しそうな声を鳴らした金郷さんは、震える脚でもう一度、立ち上がって見せたのだ。

 この肌寒さの中、ハーフパンツで挑んだ覚悟―――この勝負に賭けたただならぬ思いが、痛いほどに伝わってくる。


(……ああ……)


 そして、分かってはいた。

 分かってはいたが、金郷さんの両膝から流れる赤い液体を見て、僕は思わず唇を噛む。


 痣の1つもなかった綺麗な脚には、昨年と同じく……いや、それ以上に酷い傷がざっくりと刻まれていた。

 取り繕うかのように派手な化粧を塗りたくれば、性格ブスな鍋花でも多少はマシな見た目になるだろう。

 だが、いくら誤魔化そうとしたって……


 金郷さんのような綺麗な脚にはなれない。

 あれこそ、日々の努力の賜物だ。

 天から与えられた優れた容姿に奢ることなく、自らを律した生活を送ってこなければ、あのような美脚は得られなかったことだろう。

 だからこそ、僕は心の底から勿体ないと思ってしまう。


 いつだって真面目で、何事にも努力家で―――


 それでいて少し不器用な性格で、だからこそ僕は彼女を推しているわけだが―――その不器用さが仇となり、こんな学校行事で再び、彼女の長年の努力が損なわようとしていることが、僕には悲しくて堪らなかった。


 やがて、黒垣さんも立ち上がる。

 大方の予想通りではあるが、彼女の両膝もまた、ぐちょぐちょに赤く濡れていた。


 こんな現実、見たくなかった。

 悔しかった。

 辛かった。

 だけど、ほんの少しだけ―――彼女たちの辛そうな表情に興奮している自分もいた。

 2人の姿から、目を離せずにいた。


 2人は立ち上がると、呼吸を確かめ合うようにして、ゆっくりと一歩、踏み出した。

 その姿に、場内からはどこからともなく拍手が湧く。

 無理なスピードで走ったことによる事故―――場内の生徒たちや観客の家族らは、そう思っていることだろう。

 だが、それでも諦めずに頑張る姿には、心を揺さぶられるものがあった。


 まだ、戦いは終わっていない。

 後方には青組が、すぐ傍まで迫ってきていた。


 赤組の背中は次第に遠のいていくが……それでも、2人はペースを元の速さへと戻していき、イン側の走路に戻って―――


 だが、現実とは残酷なもので。


 ここにきてペースを上げてきた青組が思いがけず距離を詰めてきて、その勢いを殺せずにいた。


 青組の少女の身体が、金郷さんの小さな背中に触れて、やがてのしかかるように力が加えられていく。


 金郷さんはその重みですぐに……これから起きることへの恐怖を感じ取ったのだろう。


「……きゃあっ……!!!」


 可愛らしい声を震わせた、悲痛な叫びがグラウンドにこだました。


 ちょうど、金郷さんたちも再びスピードに乗ってきたところだった。

 だからこそ今、もし転倒したら―――言葉にならないほどの痛みが全身を襲うことは、すぐに理解できただろう。


 目を覆いたくなるほどに傷んだ傷口を更に抉るようなことをすれば……意識を失いそうになることくらい、想像に難くない。

 ゆえに、これから起こる悲劇が悲鳴を上げたところで変えられないと分かっていても、反射的に叫んでしまうのだろう。


(……うわあ……)


 可愛いな、と思ってしまう。

 金郷さんのことが、どうしようもなく愛おしく映る。

 プライドが高く素直になれない性格でも、声には素直に出てしまうところが、庇護欲を掻き立てられる。


 だが、僕には彼女を守ることはできない。


 青組の女子に押し潰されながら、彼女の華奢な身体は、再び地面を滑っていく。

 雨脚はどんどん強まり、トラックのくぼみ以外もぬかるみ始めたせいで、跳ね返った泥が、彼女の白い頬を汚した。


「……あああああ……!!!」


 それと同時に、黒垣さんも言葉にならない叫び声を上げると、前のめりに倒れ込んでいく。

 赤く染まった膝が再度、地面とキスをした。

 スタイル抜群な黒垣さんの豊満なあれは荷重により形を変え、Tシャツは茶色く染まっていく。

 一束の黒髪は力なくグラウンドに垂れ、バランスを崩してなだれこんできた青組の少女の手のひらで引っ張られるようにして押し潰された。


 美しかった2人の少女は、見るも無残な姿となって下敷きとなり、雨に打たれる。


 神様は残酷だ。

 いったい誰が、こんな悲劇を待ち望んでいたというのだろうか。


「んっ、んんっ……」


「ううっ……はあ、ああっ……」


 もがくようにして、2人は声を漏らす。

 だが、2人に残された体力と、背中にのしかかる重みからして、もうどうすることもできない。


 それでも何とかして現状を打開しようと、金郷さんの右手が僅かに動いた。

 黒垣さんも、スタイル抜群の身体をよじるようにして、何とか起き上がろうとする。


「あっ、あああっ……」

「うぐ、ああっ、んっ……」


 そして僕は、そんな2人を見て、思わず唾を飲み込んだ。


 2人には本当に、悪いと思っている。

 だが、これは……

 あまりに刺激的すぎて、僕は逆に直視してしまう。


 青組の2人が、辛そうに立ち上がる。

 そしてその後、彼女たちは更に苦しそうな表情でグラウンドに起き上がろうとする。


 Tシャツの全面は真っ茶色に染まっており、金郷さんのツーサイドアップもまた、土で汚れてしまっていた。

 彼女の白い太股も前面はかなり汚れてしまっており、そしてガタガタと小刻みに震えている。

 痛みと疲労が同時に襲い掛かり、おそらく立っているのがやっとという状態だろう。


 そして黒垣さんも再度立ち上がる。

 彼女も同様に、細くて長い脚を震わせている。

 バランスを崩した金郷さんに引っ張られるようにして転倒したためだろう、彼女の膝はかなり激しく傷んでおり、泥で塗られた傷口から溢れ出る赤い雫が、本当に痛々しかった。


 だが、それでも……


 しかし、天はこれでもかというほど、彼女たちに微笑まなかった。

 先に走り出した青組だったが、すぐに再びバランスを崩すと……


 走路を変えることができずに、無情にも立ち上がったばかりである白組の2人の背中へと直進し、接触する。

 ようやく立ち上がれたに過ぎず、まだ力を入れることができない2人の太股がそれに耐えられるわけがなく……


「……ん、あああっ」


「いやっ、あぐ……」


 ―――ぺしゃんこに、叩きつけられた。

 青組の少女が縺れるようにして倒れ込み、潰れた彼女たちの背中でもがく。


 そして、もがけばもがくほど、4人の四肢は複雑に絡み合い、解けなくなっていく。

 バンドで縛られた足が言うことを聞かず、青組の少女たちはもう一度立ち上がりかけるものの……


 更に転倒。

 その勢いで重みを増した荷重が、華奢な2つの背中を更に襲う。


「んあああああ!!!」

「ひゃうっ、うぐあああ……」


 金郷さんの茶色に染まった細い人差し指が僅かに動いたのを最後に、2人の身体は動くことさえできなくなり、青組の少女たちは更に絡まってきて、組んず解れつな光景となった。


 僕は涙をこらえて駆け寄った。


「……て、手当ての準備を!」

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