第29話

 まったく、ふざけた人生だった。次から次へと、飛躍に次ぐ飛躍の連鎖反応。女吸血鬼の次は狼男――いや、目の前に出現したそれは、差し詰め狼女と形容すべきだろうか。

 以前襲われた恐怖心がよみがえったのか、黒狼の姿を目の当たりにした坂薙が短く悲鳴を上げたのが聞こえてくる。


「マジ……なのか、これって――――」


 俺は足下に転がっていた消火器を拾い、それを噴射するか、それとも物理的に投げ付けるかの選択に躊躇していた。こんな狭い空間で薬剤を撒き散らせば、目眩ましや相手の嗅覚を削ぐ事で生存可能確率を飛躍的に高められる結果がイメージできるが、あるいは己が煙に巻かれて行動不能に陥る危険性だってある。身動きできない坂薙もろともの、共倒れ。

 正直言って、どっちを選んでも俺は死ぬ。冗談ではなく死ぬ。一寸先は死亡、殺害、死肉、人生の結末。すぐ背後にまで迫った谷底への飛び降り方の選択に、一体何を躊躇せよというのか。

 大体からして、谷底に落ちるのとは理屈が異なり、死に方にどちらも違いなんてない。どっちがより痛くなく死ねるかなんて選択肢ではそもそもないのだから。

 つまり、どのみち食い殺される。あの獰猛を見事体現した巨大な牙で、である。


「先輩……見逃しては、もらえそうにない……よな」


 巨躯に似合わず、鋭敏な一歩を踏み出した黒狼。奴は前振りなくフェイントで脇から飛びかかってきて、俺の手にしていた消火器をいとも簡単に咥え飛ばしてしまった。


「わっ、啓太! おい危なっ――」


 その反動で、消火器を手にしていた俺も吹っ飛ばされてしまう。よろけて背を壁に打ち付ける。


「くそ……う……ど、どうしろってんだよ、はなっからこんなクソゲー状態で……」


 抜けそうな腰を奮い立たせ立ち上がる。きっと艱難絶句に潰されそうな面構えをしているのだろう。

 と、今度は黒狼がこちらにゆっくりと背を見せ、床に這いつくばったままの坂薙を次なる標的に合わせた。


「ちょ、待てこのっ――――」


 見境なく飛びかかっていた。坂薙をあの黒狼から庇うって、何をどう庇えば回避可能なのか、想像力も何一つ足りていなかった。

 生徒会室内に散らばる幾つかの長机の下を潜って、障害物競走か何かのようにみっともなく這い、坂薙に襲いかかろうとする黒狼の尻に頭から突撃した。


「わっ、馬鹿、啓太こっちくんな――」


 単純に、頭からじゃないと勢いが付かなかったからだ。それに相手の正体が九重先輩だという確証が、敵の正体不明な冷徹さを幾分削いでいたのもある。

 ただ、思ったよりも身軽で俊敏な黒狼は瞬時に方向転換すると、俺を牙で咥えて軽々投げ飛ばした。


「ぐあ……っ……」


 ジャングルジムに背中から突っ込んでしまった俺。痛む部分をさすりながら、表情のうかがい知れない黒狼の双眸をそれでも睨み返す。


「おい啓……けいたーっ! 早く逃げろっ!! ここから出るのっ!!」


 坂薙が無茶な要求の声を投げかけてきた。かく言う本人は、未だに長机を亀の甲羅宜しく背負ったままで、床でじたばたしているのに、だ。


「確かに超絶怖ええけど、だからって見捨てろって言うのかこの阿呆! 馬鹿! このいっつも口だけ野郎のヘタレサナギ!! きょうび自己犠牲なんて流行らねえんだよっ!!」

「ちょ――ちょちょちょちょっと待て、何それ! 何それひどい!  なんでお前キカには滅法優しいのに私にばっか言い方キツイのこの朴念仁っ! 私、女の子だぞっ!!」


 ――坂薙を泣かせてしまった。こんなところで喧嘩をしている場合ではなかったけれど、俺達の戯れを見せる事で時間稼ぎになったりは――というか、今の九重先輩はそもそも言葉を認識できているのだろうか。獣並みの知能に落ちていないと助かるのだが。


「それにキッカだってまだそこにいるだろ。二人とも置いて逃げれるかよ」


 ふと見上げると、すぐ目の前のジャングルジム――積み上げられた長机と椅子の構造物の内部で、閉じ込められたキッカが塞ぎ込んでいるのが見えた。


「おいキッカ、大丈夫か? 怪我は?」


 そっと声をかけてやる。こいつが九重先輩の元に単独で向かったあとどんなやり取りがあったのかは知らない。とにかくこいつ程の人知を越えた身体能力をもってしてもあの人には敵わなかった、という結末だったのだろう。

 今まで見た事もないような面構えのキッカに、これ以上かけてやる言葉が見付からない。見ると、それは黒狼から受けた爪痕だろうか、別人のように肉感的に変化した彼女の肌が、擦り傷と土埃とで薄汚れているのがわかる。でも、それに場違いな劣情をもよおす余裕などない。

 闇色に黒く染まった髪の毛は、柔らかいぽわぽわ状態でなくぼさぼさだ。カラーコンタクトだったのか、違和感なかったはずの栗色の瞳は鮮烈な赤を取り戻し、けれどもそこに意志の色が抜け落ちているのは明らかだ。


「キッカ、俺達はどうすればいい? さっき九重先輩が言ってたように、何かお前ができる事は、それとも俺にもできる事はないのか?」


 相手は獰猛な獣だ、勝ち目なんてない。この状況に変化を促すきっかけ、それは……。


「キカ! いつまで傍観者決め込んでるの、答えなさいっ!」


 キッカに対する俺の呼びかけに呼応するように、坂薙も呼ぶ。

 キッカは、そう――目をそむけ続けていた。自分がハイエンダーとかいう謎の存在だったなんて先輩の言葉に感化されたのか、それとも元から真実を知っていたのかどうかは、その表情から読み取る事は難しい。

 キッカがこちらを向く。何かしらの決意を経たような、やや落ち着いた眼差しをして。


「――――だいじょぶ、彼女は誰も殺したりしない」


 キッカが重たく口を開いた。それはかつてのキッカのものと思えぬ程に低く鈍い声色をして、なのに鋭い性質を宿していた。


「さっきミューネが言ったとおり、これはまやかしだよ、ぜんぶ」


 キッカが九重先輩の名を口にする。それに呼応してか、黒狼がキッカの方に向き直ると、途端、ジャングルジムの檻が軋んだ音を上げ、その一部が弾け飛んだ。


「なっ……んだ、うわっ!?」


 九重先輩が自らキッカの束縛を解いたのだろう。融合し合っていた金属の脚が解けた長机の檻は、積み重ね方が本来安定していなかった外側部分だけ順繰りに崩壊をはじめ、俺は巻き込まれないよう慌てて壁際へと離脱した。

 崩壊が終えるのも待たず、黒狼は大きく太い脚と爪とで床面を捉えると、そのままキッカ目がけて駆ける。崩れた長机の下敷きになったまま呻くキッカの首根っこを咥えると、振り回して壁に叩き付けた。


「――――キッカ!!」


 崩れ落ちるキッカ。圧し付けた生徒会室の木製の壁が窪み、たったあれだけの攻撃ですらとてつもない威力である事を如実に現している。それは同時に、今のキッカが異様に頑丈である点も。

 キッカは、壁を背にゆっくりと立ち上がった。凛とした目の赤い輝きは消えずも、いつか見せた闘争心の衝動は抜け落ちており、この状況ですら戦意を見せない。

 黒狼――九重先輩がキッカの目の前まで迫ると、大きなあぎとを開けて、鈍く吼えた。

 キッカの喉首を噛みちぎられる映像の断片が、唐突に俺の脳裏をよぎって、余裕のない思考を塗りたくってゆく。どうしてこんな時に。湧き起こる動揺で、四肢を動かす事も叶わない。やめて、と坂薙の悲痛な叫びがどこかから浴びせられた。


「――――ケータ。わたしの、ケータ。ごめんね。『』」


 わたしの、ケータ。お願い。お願い。お願い。耳元で、すぐ傍で、そんな声がした。

 周囲のありとあらゆる雑音が消え失せ、鼓膜がきんと研ぎ澄まされて。キッカの呼びかけたその言葉が、俺を意味する名が、あいつの願いが、はっきりと鼓膜へと届けられた。

 今更行動を起こしたところで間に合うはずもなかっただろうに、俺はキッカを、日月キカを守ろうと、無心の一歩踏み出していた。

 その、瞬く間に。


 俺の――佐村啓太の見える世界が、変わった。

 ――私の見える世界が、覆った。


 この空間の振る舞いを取り決めている幾つかの単位事象を、ある種の緩慢さで再解釈してやる。緩やかに、鋭敏に研ぎ澄まされるような感覚。身体の実存性を保つための概念を時間軸の支配下から一度切り離して、自ら定義し直してから上書きしてのける。順当だ。

 今、彼――佐村啓太が無為に振る舞った行動は、私に向かい襲いかかるあの黒い巨狼の速度をいなす事。鋭い牙の殺傷力を削ぐ事。戦意の思考をなくしてしまう事。

 啓太は四肢の筋を適切に機能させて跳躍すると、壁面を蹴って軌道を反転させた。

 私目がけて飛びかかった黒狼――その巨躯の腹の下を啓太が潜って抜けてゆく。それに要する時間は瞬く間、ほんのわずかなものだ。

 跳躍姿勢だった黒狼の尻尾と後ろ脚を手で掴んで勢いを削ぐと、彼はそのまま背に。両手と脇とで喉元と顎を締め上げ、それを軸に回転して頭上に回り込み、頭頂部から掌底を鈍く重く落とし、振動を与え脳震盪を誘発させる。

 ごく短い悲鳴と、肺から押し出された呼気。それは断末魔の音のごとく、生徒会室を覆う異質な空気もろとも吹き飛ばした。

 どん、と重たく鈍い音を立てて、黒狼へと変貌していたハイエンダー・九重ミュウネが地に伏せった。

 啓太は彼女の横たわる巨躯に歩み寄りひざまずくと、獣の姿のままの唇にそっと口付けをする。そうする事で私の時と同じように、彼女が本来のミュウネに戻るとの直感的な確信があったからなのだろう。

 でも、黒狼に何ら変化の兆候は訪れなかった。それは一つの仮定を証明するもので、当然の結果だと思った。

 その仮定とは、私――日月キカの〈本質〉がおそらく女性の側にあるのと同様に、九重ミュウネの〈本質〉は、そう――獣の側にあるのではないかというものだ。ミュウネは本来ヒトではなく、逆説的に狼からヒトの実体を獲得した存在ではないだろうか。正確な知識など持ち合わせていないけれど、原理が私と同じならそのような結論に至って別段不思議ではない。


「――ケータ、もういいの。おわりました」


 鈴乃が無事に拘束から解き放たれたのを確認すると、この戦いの終わりを告げるべく、私は啓太の元に歩み寄った。

 彼女が私に伝えた彼女自身の〈本質〉、つまり学校そのものを概念的に掌握する〈守り手〉であるというのが、巨狼の姿と何らかの因果関係を持つと考えられる。それが彼女、九重ミュウネの背負っていた真実なのかは、いずれ彼女自身から聞いてみたい。


「おわったの、ケータ。それにね彼女、たぶんキスしても戻らない」

「俺……な……にが……これで終わった……えっ!?」


 心底不思議そうな顔をして、啓太はまじまじと自分の両手を眺めている。


「さっきキッカに呼ばれた気がして……頭真っ白になって、俺に一体何が起こって……」


 予期された疑念の言葉を早速口に出されてしまった。でも彼の疑問に対する明確な答えをまだ持ち合わせていない。では何て返事をしてあげたら納得して貰えるのだろう。ちゃんと伝えなくてはいけないのに、あれが何だったのか、私自身うまく言語化できない。


「わかんない! でもケータすごかった。何度もちゅーするから、わたしのバンパイヤ・パワーが吸い取られちゃったかもだね!」

「……いやお前、さすがにそんなご都合主義、アリかよ……」

「ほほほ、わたくし自身がごつごー主義のゴンゲですもので。とにかく、これで一件落着。ミューネは、彼女はこれでもう目的、果たせたと思うから……」


 ただ、あの時ようやく私は悟ったのだ。私達三人の関係を取り巻く一つの小さな物語のようなものがあって、その因果の中心にいた主人公は、私ではなく彼なのだと。


「――確かにこれでおしまいよ。けれど日月キカ、今のキミの仮説はあんま正しくないねえ。ま、半々くらいかしら」


 割り込んできた答えは、その半分が正解で、半分は間違いだと言う。

 九重ミュウネは、いつの間にか黒狼から再びヒトの姿へと戻っていた。


「念のため教えてあげよう。佐村啓太のキスにあらゆるハイエンダーの変身を解く性質があるわけじゃないわ。そこは啓太、キミの誤解」


 言いながらミュウネはスカートに付いた埃を軽く払うと、またあのべっ甲の櫛を取り出して、腰掛けて丁寧に黒髪をくしけずりはじめた。その姿でもなお表出を隠せない獣の習性――かどうかは彼女の胸の内に。


「――うわあっ!? え……そうなん、です……か、九重……先輩。は、はは……」


 いきなり復活してフレンドリーに接してきたミュウネに、啓太は驚愕ののち混乱する。

 一方のミュウネは、時折啓太に視線を送っては、少し顔を赤らめて見せる。そんな仕草に、啓太がドギマギさせられているのがあからさまに見て取れた。例え獣の姿の時とは言え、啓太は彼女に口付けたのだ。それを思い出して困惑してのものなのだろうけれど、そんな彼に何となく苛立ちの感情を覚えてしまう。


「ああっ……もぉいいや! やめっ! あたしっ、これで当初の目的が済んだから、三人にもきちんと謝っておかないといけないなぁ」


 折角整えた頭を何故か掻きむしりながら、ミュウネが脈絡なく立ち上がる。

 露骨にそれを隠そうとしなくなっているのは、彼女との敵対関係が終焉を遂げた事の証左と受け取ろう。これがこの女の〈本質〉――と言うより本性。ただ猫を被り続けてきただけなのだ。犬の癖に。


「事情はまた説明するけど、とにかく今回はほんとごめんなさいでしたぁっ!」


 パンッ、と両手のひらを大きく合わせて、ミュウネが謝罪した。全力のオーバーアクション気味に、しかも頭まで大きく下げて。瞼をきゅっと×の字につむり、今までの寡黙にして冷徹振りが反転したかのような、あまりに清々しいばかりの表情を見せて。


「「――――――え……えっ? ええっ!? うえええええっ!?!?」」


 啓太も、鈴乃も、両者ともに九重ミュウネの豹変に戸惑っているのが伝わってくる。その反応がとてもおかしくて、不思議とこちらも表情がほころぶ。


「謝って許されるわきゃないけどさ、でもごめん。啓太も、坂薙さんも、そして――」


 ミュウネが、最後に私へと向き合い、こう言った。


「――キミもね、日月キカ。この世界の日常で出会う事の希な、異なる〈本質〉をはらんだ、同じハイエンダーとして」


 そっと、手が差し伸べられる。

 許すとか許さないとか、そういう感情は湧かなかった。私のいい加減な性格がそうさせたのだろうか。あれだけ騒いで、皆が痛い思いをさせられたのには納得いかないけれど、彼女はその身に宿す強大な力を、誰かを殺めるために最後まで行使しなかった。

 今回の一連の出来事はただ、私自身の内にわだかまっていた旧く深い闇が、ようやく光の下に暴かれはじめたというだけ。彼女がそのきっかけとなってくれたのなら、それはそれで歓迎すべき出会いなのだろう。

 私は、九重ミュウネの手を取り、握手を交わす。


「おねがい、します……ミューネ、先輩……」

 そうして、残る二人の方へと振り向く。遠巻きに聞こえてくるのは、消防車の音か。そろそろ終幕させここから退散すべきリミットが間近に迫っているのだ。


「ちょっと待て、何勝手に納得している! キカも啓太も……お前ら、何がどうなってああなったのか説明しなさいよっ!」

「あー…………あはは、サナギちゃんはとりあえず――――おへそとかブラとか見えてるの、直したほうがいいと思うの」

「「って、うわぁあっ!!」」


 啓太と鈴乃、両者互いに面白すぎる呼吸で顔を見合わせ、驚愕の悲鳴を重ねる。まったく、この人達って。


「しかし、啓太がキミのためだけの存在だったなんて、全くばかばかしい結末ねえ。そうでなければ、あるいはあたしに希望をくれる人になれたかもしれなかったのに……」

「えっ、それは……どういう意味なんですか、九重先輩」

「さあ? キミの呪いが結局解けるのかって問題も残ってるわね」


 ミュウネは自嘲し、理屈のわからない啓太がしこたま首を傾げている。


「そうだキカ、啓太の女性恐怖症、戻してあげなさいよ。責任者なんだろう?」


 鈴乃が無茶を言ってくるが、そんな呪いだなんて、嘘偽りなく私は知らなかった。


「だって、こいつは知らないって言ったんだろう。大体俺はそんな慌てないし、今考えなくてもいいって……」

「いや、よくない! だからお前はキカに甘いとあれ程!!」


 やや苛立ちはじめた鈴乃と、やんわりと言葉をかける啓太と。


「ふふ……わたしそんなのしらないよ。これはまだしばらくケータへの罰ゲーム――」


 私は、そんな啓太の傍に駆けていって。

 そうして、自然に、そっと胸元に飛び込んでみる。違和感は、ない。何故それがないのだろうかという疑問符も、わずかにも脳裏をよぎったりしない。自分が何者なのかという、根源的な定義も今はどうでもいい。

 この感覚は、果たして何だろう。この衝動は、信頼するに足りるものなのだろうか。

 ただ困惑する表情を浮かべる啓太の顔を見て、私は彼が逃れようとするのを許さず、浅く口付けた。

 三つ肩寄せ合って織りなすこの暖かな因果が、この先どこまでも続くよう願って。

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