第27話
「よし、こっちだ。……なあ、聞いていいか坂薙?」
坂薙と合流したあと、俺達は校舎の一階へと向かっていた。既に校舎内に人影はなく、静まり返った廊下はどことなく不気味な印象を放っている。音源となる生徒達群像が省かれただけで、ちょっとした物音の残響が神経質なまでに伝わってくる。
「いいが、これからどうするのだ? 私らはそもそもどこへ行けばいいの……だ……」
坂薙は既に息も絶え絶えで、胸元を押さえ苦悶に近い表情を浮かべている。
「昨日、俺があの黒い狼に連れ去られたあと、九重先輩と話をしたのか?」
「……ここのえ……ああ、うん、そうだ、あの九重という女と話をしたよ。電話越しだったけど……ちょっと、はあ……すまん、休憩させて。もう無理……」
「やっぱり、そうだったのか」
俺から先に一旦足を止め、降りている途中だった階段の手すりに身を預けた。俺自身も校内を駆けずり回って疲労困憊だったが、何より今朝からどうにも身体そのものが絶不調だ。少し気を抜くと意識がふらつく。椅子の上での拷問めいた睡眠を余儀なくされたせいだろうか。
「……うん。啓太を預かってる、って言われた。それに、あの狼の差し金は自分だって」
そこから階下の方をのぞき見ると、廊下――その窓の向こう側に広がる校庭に、校内の全生徒が列をなし集まっているのが確認できる。化学室のあれは九重先輩がでっち上げたぼや騒ぎにも思えるが、とは言え学校側の防災対策は無事正常に機能したようだ。
「それで、キカ――いや、今はキッカか――とにかくあいつに、明日そのままの姿で学校に来い、って一方的に命令された。余計な真似をすると、啓太が女性恐怖症を拗らせて死ぬかもしれないって……脅されて……」
「あの人、なんて物騒な事を。いや、何か聞いた話と違うような気がしないでもないが、でも確かに、実際死にかけたのは事実だからな……」
「なのにキッカも何だか真剣な顔してるし、警察に電話しようにも何て説明していいかわからんし、佐村んちのご家族にも言えない……私どうしたらいいのかわけわかんなくなって……そんななのに、こんな時にあいつまた勝手に一人で飛び出して……ううぅ」
そうだ。あいつの行き先。冷静に考えてみて、おそらくキッカは九重先輩の元へと向かった。そう考えるのが自然だ。
「あくまで推測だが、あいつの行き先の目星は付いている。キッカの奴、人質になっていた俺が九重先輩から解放されたから、今行くなら先輩の元だろう。訳知り顔な先輩に事情を問い質すに違いない。それに――」
まさか殴り込みなんて甲斐性はあのおとなしいキカにないと思いたいけど、キッカの時のあいつは不思議と自信に満ちていて、正直行動が読めない。あいつは、本質的には純粋に真っ直ぐで、俺なんかよりもずっと正義感の強い性格なのだろうか。
「……それに、何だ? おい、どうした……具合が悪いのか、啓太?」
一瞬意識が眩んで、思わず屈み込む。こんな緊急時に勘弁してくれ。
「ああ、大丈夫、少し寝不足なだけだ。それに、さっきかかってた校内放送、九重先輩の声だった。先輩は、何故かはわからんがキカの変身の事情を知っている。〈本質〉がどうとか言っていた」
そう、キカの本質だ。先輩のこぼした言葉――キカの本性、〈本質〉とやらが、まだどこか引っかかっていた。あの人がその言葉を繰り返すのに何か意味があるのだろうと。
「それと、学校を守るため、とも言っていた」
「そんな……キカが学校に危害を加えるだなんて、絶対あり得ない」
「ああ、それは俺もそう思ってる。あの人の頭の中で考えている意味での学校の秩序を乱すとか、何らかの悪影響を及ぼすという意味なのかもな」
「今まで何の接点もなかったのに、突然出てきて、そんなの勝手だ」
「どちらにしろ、あの爆発は九重先輩がキッカをおびき出すためにわざと仕掛けたと俺は踏んでいる。あの人は元々科学部の副部長だし……やってやれない事はないだろう」
「じゃあ、キカはこのままだとまんまと九重の罠にかかると?」
不安げな坂薙の言葉に、俺はただ頷いた。
キカがある日突然超能力を持ってしまって、悪の黒幕だった九重先輩が自分の根城である学校を守るためそれを潰しにかかる。これからはじまるのはラスボスとのラストバトルで、俺達の向かう先はラストダンジョンだ。でも、こんなの全て俺の推測に過ぎない。
「とにかく、キッカが危険な事に巻き込まれないように、早く追い付こう。九重先輩にも事情を聞いて、こんなおかしな真似は止めさせないと」
そう言って、再び立ち上がる。キッカが単独行動に走ってもう大分時間が経ってしまった。既に九重先輩と出会っている可能性の方が高い。
俺は再び進みはじめる。ただし、走らずに、ゆっくりと歩き出す。うしろにいる坂薙と歩調を合わせるように。
俺達はただ校内をグルグル回っているわけではない。九重先輩の潜伏先の候補は絞り込めた。爆発のあった化学室……つまり九重先輩の所属部部室か、昨夜俺が捕らわれていた図書準備室、あるいは生徒会室……これはあの人が先代の生徒会長だったからだ。
この一刻を争うであろう緊急時、俺達が選ぶべき選択肢はどれか。化学室は状況的にも人目が付くし、何より警察が居合わせている。図書準備室は狭すぎる。九重先輩があの黒狼を僕として従えているというのなら、あまりに不利な地理条件だ。
だから俺達は、消去法から生徒会室へと向かっていた。この学校の生徒会室は旧会議室二部屋の壁をぶち抜いて改装したもので、スペースは教室二つ分とかなりの広さだからだ。
「なんで、こんな事になっちゃったんだろ」
坂薙がふと、そんな心境を吐露する。俺のうしろにいる彼女の足取りは重く、ここ数日の出来事に心が弱りきっているような表情だ。
「なんだか、キカが急に違うものに変わっていっちゃって……私まで違うものに変わっちゃいそう」
「なん……だよ、それ。お前らしくないな」
「そんな事ない。いや、なくはないか。役目――みたいなものが、ね。そう、私の、坂薙鈴乃っていう人間の役目。そいつが全部、あいつと一緒にくつがえっちゃった感じ」
坂薙は短くため息をつくと、俺の顔をちらと見た。すぐに視線を逸らすが、言葉を続けるのは止めようとせずに。ただのモノローグにも聞こえる彼女の心情が、俺の耳元へと届けられる。
それは、はじめて聞かされるものだった。
「――小さい頃から軟弱だったキカの手前、私はさ……なんていうか、姉貴ぶって強がってはいるけど、最初はね……あいつを庇っての、単なる演技だったんだ。キカが女の子なら、私が男の子じゃなくちゃ駄目だ。そう思い込んでたのが、ちっちゃい頃」
黙って頷いてやる。坂薙は少しずつ俺の歩調に近付き、互いの肩が並ぶ。
「それが段々自然になって、今の私の多くを形作った。ううん、過去形。それが壊れて、進む先を見失ってしまいそうになってきた。あいつは、そして私は何なのだろうって」
彼女の言葉に、その声に、ただ耳を傾けていた。他者の胸に秘める気持ちをどこまで正しく望まれたように汲み取る事ができるのかなんて、俺にもわからない。ただ、これが思い上がりや勘違いでなければ、坂薙は今、彼女自身のアイデンティティの在り方にかかわる苦悩にぶち当たっている。それはすごく伝わってくる。
こういう場合、自分のような立場の存在はどう振る舞えばよいのだろう。彼女を想い、元気付けてやれば満たされるのだろうか。満たされるって、誰が。一方通行の、ただの自己満足ではないのか。
でも、俺には今すぐ傍らに在る坂薙鈴乃という異性の、その肩に触れる事すら叶わなかった。まるでキカと鈴乃、幼馴染み二人だけの領域が壁のような形を得たかのごとく。
かと言って、それに嫉妬しているわけじゃないのも自身理解していた。だからその代わりに、誤解を恐れずに言えば、俺もキカが……あいつの事が、たぶん好きだ。
お前があいつを好きと同じくらいに、俺もあいつが好きだ。
今のお前らが俺にとっても大切なんだ。欠けちゃ駄目なんだ。
だからさ、二人だけでシーソーに座って勝手にバランス取り合ってんじゃねえよ。
触れられなくても、俺はここにいるんだよ。お前らの隣に。
坂薙鈴乃が、いつの間にか俺のすぐ、本当にすぐ目の前にいて。
そして呼応するように振り返って、髪がなびいて、何故か俺の目を真っ直ぐに見るのだ。
「………………佐村、お前……そんな事……思ってたんだ……」
いつもは大人びて見せたがるあの表情が、何だかくしゃっと崩れて。今までで一番大きな丸い目をしていて、半開きの口に、唇がわずかに震えていた。
「……そんな事、糞真面目な顔して突然言われてしまったら……はっ、はっ――」
夕焼け色の顔に、照れ隠しの表情に、目の前の彼女が幾つもの坂薙に染まってゆく。
「――反応に困るわっ……私にどうしろって……ば、ばかケータ」
告白していた。――――口に出して、この俺が。
寝不足により蓄積された疲労のせいなのか、俺の意識は別の何者かに憑依されていたような感覚下にいた。そこから覚めて、状況を把握して、俺はようやく絶句する。
人間、動揺するとここまで血の巡りがおかしくなるもので、坂薙とは真逆の顔面蒼白はそうして瞬時に出来上がってゆく。平常の重力影響下での、見事無様なる
「あの、さ、坂薙……さん。大変すまないが、どの部分から口に出てたんだろう、今さっきの俺ってば」
おかしい。さっきの俺は本気で本当におかしい。気付くとモノローグが全部台詞だった。
自分自身の右脳や左脳や大脳皮質や大脳髄質や脳幹やらの何かしら思考機能に寄与する雑多なパーツ群がこぞって主たる俺の制御に反旗を翻し、身勝手な命令決定ののち行動を遂行しやがった。有意識下での不自然な脳内だだ漏れトークをやらかしてしまった恥ずべき奇行の論理的整合性を取ろうにも、そうとしか説明が付かない。
「どこから……って、私自身のアイデンティティにかかわる苦悩がどうの、っていうところから全部だぞ?」
「喋ってたか?」
「うん……口に出して喋ってた。とってもあり得ない長台詞だったな、さすがにの私もびっくりだ。途中から内容が頭に入らなかったからももももう一度頼む、あんな事言われたのはじめてだしな! なんか、こういうの、意外と気分がいいぞ、うんっ!」
赤面してぽかんと困惑のような表情を浮かべていた坂薙が、徐々に状況を飲み込んで目の色に生気が宿り、言葉尻に報復の野心すらのぞきはじめている。と言うよりこの坂薙、妙に可愛いというか、例の妄想暴走モードのスイッチが入っていやしないか。何というか、逆に怖い。
「俺ともあろうものが、何たる不覚……」
俺は、ただただ頭を抱えた。これはもう心底抱えるしかない。ありったけの低さで地に伏してやる。あまりの羞恥、あまりの上の空、あまりの我が人生における失態に、リノリウムを掘削して地中に埋まりたい衝動すら湧き起こってくる。母なる大地が俺に還れと呼んでいる幻聴さえ聞こえて――きたら危険だ、さすがにそこまで現実逃避したくない。
何にしろ、最悪だった。脳内で想い描いた事を全部言葉にして口から出した挙げ句相手に聞かれていただなんて。にしても、そこまで疲労が身体に蓄積されていたのだろうか。確かに昨夜から劣悪な環境下に置かれてはいたが、九重先輩のお陰で。
「いいか坂薙」
立ち止まったままな彼女の傍らを通り過ぎて、視界からその存在を忘れさせる。今のは、なかった。起こり得なかった現実だ。白昼夢だ。よし、仕切り直し。
「うん?」
「忘れろ。気のせいだった。さっきのは――九重先輩の洗脳だ。人質にされた後遺症だ」
相手に反論の猶予を微塵にも与えず、一聴して荒唐無稽な理屈ではあるものの大枠では事の真理を突いた至言によって場のムードを撹乱し、そのまま屈託の欠片もない悠々とした振る舞いで行く手への前進を再開する。目的地は間もなく、目と鼻の先。俺達は一刻も早くキッカと九重先輩のいざこざを阻止せねばならないのだ。
この廊下を真っ直ぐに進めば、くだんの生徒会室の扉がその先で口を開けている。
「…………やだよ。やだ」
坂薙は小走りに俺の正面に回り込んで、また行く手を阻んだ。先程までの悩ましげな表情などどこ吹く風で、よっぽど俺が滑稽な者に見えたのだろう、したり顔の笑みを満面に浮かべていやがる。
「いいから忘れろっ! でなけりゃ俺が忘れるっ!!」
「ふふふ……あれだけ面白かったのに、忘れるだなんて勿体ないじゃないか。それにカタブツ佐村啓太のいい弱みが握れて、私は実に気分がいいね! さあっ、行くぞ啓太っ! 黒幕の九重ミュウネをぶぅっ潰す!!」
「わ、ちょっ、あぶね――引っ張るなって――――」
あり余る威勢にどこかぶつけ先を誤った台詞を壮語する坂薙鈴乃は、俺の制服の袖を、俺に触れないよう丁寧に強く引いてくれて、それから微笑んで回って跳ねた。
その姿にまんまと見惚れさせられて、みっともない俺は駆け出した彼女の後ろ姿を必死に追うのだった。
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