第25話

 教室まで全速力でたどり着くも、必死の努力もむなしくHRはとっくにはじまっていた。坂薙との電話越しに騒然としていたはずの廊下は跡形もなく、喧騒は途絶え整然とした空気で満たされている。自分の乱れた呼吸ばかりが大きく聞こえるのみだ。

 教室の外からうかがい知られる様子には、少しの違和感があった。

 いつもなら雑談混じりに出欠が取られているタイミングのはずだ。なのに点呼の声だけがひたすら規則的に漏れ伝わってくるだけで、驚く程にクラスは静まり返っている。


「是枝さん――近藤さん――」


 皆に一体何があったのだろう。もしかして自分のせいだろうかと勘ぐってみたものの、堅物のアイツが珍しく席に見当たらなかった、などとあとで思い出されるのが精々だろう。


「三枝さん――坂薙さん――佐村さん――」


 それでは、この学級担任が生徒受けの悪いの人物だったろうかと記憶を探るも、別段思い当たる節はない。当クラスを担任するこのおっさんは、寧ろ容姿――主にファッションセンスが過激なだけで、基本放任主義だ。


「さむらさーん。おや、佐村さん、本日はお出ましになられてないのですかねえ?」


 俺は教室外で次なる行動に躊躇っていたが、遂に名を呼ばれてしまい、覚悟を決めざるを得なくなった。

 一同静粛のさなか、引き戸の音に躊躇せず、うしろから堂々と入室する。


「すみません、寝坊しました」


 淡々とした釈明の一言のみで、仏頂面を決め込む。

 ほい、遅ようございます、席座っとけ。担任からは何ら追求もなく席に着くよう促されて、俺は自分の座席へと慌てずに歩いて向かった。

 そこで、クラスの違和感の源泉が何なのか、ぼんやりとながら把握した。

 教室は静まり返っており、担任も淡々と出欠を取る中、坂薙や神納が横目に俺をジッと見てくるのがわかる。それだけなら何ら不思議ではない。神納はよくも悪くも俺と付き合いの長い友人だし、坂薙となんてあんな出来事を体験しての、昨日の今日なのだ。今すぐにでも事情説明をし合いたいところだった。

 だが、彼らを除いたクラスの皆が、どう形容してよいものか――どことなく余所余所しかった。誰も雑談などしていないけれど、口を閉ざす代わりに目配せし合っているのが何となしに読み取れる。

 頬に絆創膏を貼った坂薙の顔。彼女からのどこか不安げな視線を浴びながら、俺は怪訝な面をとりあえず押し込めて、とぼとぼと席の間を歩いてゆく。厭なプレッシャーを四方から浴びせられている気がするのは、俺の単なる思い上がりなのだろうか。


「次――どいつでしたっけ、ええと、神納さん――高馬さん姉――高馬さん弟――」


 俺の席はちょうど教室の中央あたりで、坂薙の右隣だ。顎でそれとなく挨拶してやると、彼女は代わりにキカの方を視線で促す。


「舘さん――――――――――――、殿村さん――根古沢さん――」


 すぐさま気が付いた。担任があいつの名前――『日月』を露骨に飛ばしたのだ。俺が席に腰を落とした、見事にその瞬間だった。

 窓際の方に視線を移すと、そこにキカがいるべきはずの席は空っぽ。教室に転がり込んだ時点で、あいつがここに来ていないのを朧気ながら悟っていたので、驚き自体はそれ程大きくはない。

 では、肝心のキカ当人は今どこにいるのだろうか。まさか昨日の黒狼との格闘で大きな怪我を負ってしまったのだろうか。

 もう一度坂薙の顔を見る。坂薙はやや目を伏せ、小さく「ごめん」とだけ呟いた。それが、この静まりきった教室の中で、やけにはっきりと音と共鳴とをなした。


「――おまえ達、色々不安な気持ちはわからないでもないですけども。とにかく、警察からの連絡があるまではおとなしくしていなさいな」

「えっ!? ……何がっ、何でだよ……」


 椅子が軽く跳ねて、うしろの席にぶち当たってしまった。衝動的に席を立ち上がって、つい声に出していた。そこまでの衝撃を受けたのだ。

 クラスの皆から一斉に注目され、次の言葉に詰まってしまう。方々から浴びせられる視線がどこか重苦しい。


「ああ、佐村さんは遅かったから聞いてなかったか」

「先生、警察って。あいつ……キカに何があったんですが!?」

「日月さん? なら、保健室に、ちょっと。いや、私が言ったのはの事じゃないんですがね。昨日、野犬の群れが学校の敷地内に侵入する騒ぎがあったので、それの件で」


 キカは関係ないなどと言われ、キカが出欠で飛ばされたのと頭の中で一緒くたになっていたせいで、一瞬わけがわからなくなり棒立ちになってしまった。


「幸い生徒が噛まれたなどの被害は出ていないのですけれど、危ないから念のため警察にも協力を依頼しているというのが最新の状況です。お前も外では気を付けておくように」


 そう手短に説明すると、担任は再び出欠の続きに戻ってしまった。俺は返事もせず、ぽかんとしたまま遅れて席に座る。

 キカが休んでいる話と警察沙汰を短絡的に結び付けてしまった俺の心臓が、先程一瞬だけ止まりかけた。我ながら暴走しすぎにも程があるだろう。

 そんなこちらの心境など無視して、担任は適当に出欠と朝礼的な能書きとを済ませると、教卓を降りて飄々と退室してゆく。そこに挟む暇もなく教科担任の教師が颯爽と乱入してくると、あっという間に一時限目の授業が幕開けてしまった。

 当然ながら、授業内容などてんで頭に入らなかった。

 時折坂薙に横目をやるが、彼女の方はと言うと、気にせず淡々と授業に集中しているように見える。

 どことなくぎこちなかったクラスの空気も、徐々にいつもの姿を取り戻していった。元々口うるさい教師でもなかったので、控えめなざわめきを伴いながら、板書と教科書の音読との繰り返しで時間はただただ過ぎ去ってゆく。

 何があったのかについては、休み時間になってから坂薙にあらためて聞けばいい。彼女もいつも通りに振る舞っているのだから、キカの件は大した事ではなかったのだろう。それよりも何よりも、俺と九重先輩との一件こそ二人に伝えなければ。あの人はキカに関する謎を握っている人物で、何かを企んでいて、そしてそれはまだ終わっていない。

 そんな感じで頭の中で状況を整理しているうちに、予期しない来訪者が教室に現れた。

 控えめにノックされる、教室前方の扉。それが少しだけスライドされると、授業を一旦止めた教師が扉の前まで呼び出され、隙間越しに来訪者と話し込みはじめた。

 そこで皆の緊張の糸が完全に途切れてしまった。すぐさま教室がざわめき立ちはじめる。扉の向こう側から教師とやり取りしているのは、周囲から漏れ伝わってきた話では、どうやら別の教員らしい。

 と、突然俺は脇腹を小突かれ、慌ててその方に振り向くと、隙を見て席を抜けてきた神納久利が腰を落として待ち構えていた。


「佐村、お前――キカっちのアレ、一体全体何がどうしちゃったんだよ。このオレもさすがにびっくりしちまってさ、昨日お前らに何かあったのか!?」


 神納は、ざわつく教室では大して意味をなさないひそひそ声で、そう問い詰めてきた。


「なーんかさ、サカナちゃんはサカナちゃんで朝っぱらからすっげえ怖いしよぉ。俺だって仲間なんだし事情知っときたいのにぃ」


 それを聞くや否や、頬杖を突いたままだった坂薙が横目に睨んでくる。あからさまに不機嫌の色を帯びたものだ。


「いやそれはこっちが聞きたい。どうしたんだ、坂薙?」


 隣の坂薙に視線を移す。坂薙は俺達に怖い表情を返してくるだけで、それ以上何も言ってはくれない。

 そんな彼女の反応を怪訝に思ったものの、おそらくそれはキカの身体の秘密にかかわる話だから神納の前で口に出せないだけなのだろうと、俺は事態を楽観的に捉えていた。

 そう、この時までは。


「――――おいっ、戻ってきたんじゃないか? 戻ってきたっぽいぞ」


 突然誰かがそう叫ぶと、教室がより一層ざわめき立った。そうして、思い思いだった皆の視線が再びある一点に集まってゆく。まるで事前に皆が知り得た秘密を共有していたかのように。

 扉の前で話し込んでいた教師が役目をようやく終えたようで、予想しなかった事にある一人の生徒を伴って皆の前まで戻ってきた。


「あの子……本当に!? さすがに偶然なんじゃないの?」


 例えるなら、クラスの新しい仲間、転校生の登場。この場を取り巻きはじめたのは、そんな淡い期待の込められた空気感。

 教室に新たに加わえられたのは、真新しい制服に身を包んだ、小柄な女子生徒だった。

 どことなく俯き加減の姿勢。お下げに編み込まれた長い黒髪は、それなりに多様さを帯びたこのクラス内においては、ともすれば埋没傾向の印象を受ける。反して色合いの派手な眼鏡の向こうで、視線が行き先に困っている。あまり自分に自信がないタイプなのだろう、それははじめて皆の前に立った事への当惑の表情以外の何者でもない。

 彼女は自己紹介すべく教卓の隣へ――通される事は何故かなく、そのまますたすたと席の間の通路を歩いていってしまい――

 ――そこで、俺と彼女の視線がぶつかった。

 互いにしばらく、無心に見つめ合う。何らかの邂逅の、ただの一呼吸の瞬間。

 彼女は、何でもない、ありふれた栗色のつぶらな瞳をしている。だが、先程の自信なさげな印象に反して、美少女などというありきたりな修辞も相応な程の、それはくりくりと整った造形をしていた。

 その奥底に、不思議と俺は別の色彩を見ていた。思い起こされるのは、あの赤い眼。俺が望んだわけではないのに、その色が鮮明に、克明かつ鮮烈なまでに、脳裏にまざまざと浮かんできたのだ。


「……キカ……何で、何でお前そんな……」


 思わずその名が口をついた。彼女の事を思えば、今この場所で、この状況で、そう口にしてはならなかったのに。絶対に。

 髪型を変え眼鏡で表情を暈かして、瞳の色も何らかの手段で違和感ないものへと抑制して、彼女は少しでも暴かれないように、別の姿を取り繕おうとしていたのだ。

 キカ――いや、今のこいつはどう見てもキッカの側なのだろうが、彼女は彼女の姿のままで、学校の教室の、つまりこの場所に忽然と立っている。一体全体、どうしてそんな真似を?

 そう疑問の出発点に立って、俺の助力なしにキッカの変身が解かれないから、という理由がまず脳裏をよぎった。

 いや、確かにそれは事実だ。事実だとしても、だからってキッカの姿のままで、それも女子制服を身に付けて堂々と学校に登校するだなんて、こいつの考えた行動でもあまりに不用意で、不合理で、そして不条理だ。


「ケータ……」


 消え入りそうなまでにか細い声で、そっと彼女は呟く。言葉は、より大きくざわめき立つ教室の喧騒に、瞬く間に埋もれてしまう。

 キッカはそれ以上は俺に何も話さず、口を閉ざして自分の席に座った。日月キカ自身の席に、だ。

 そして、それをクラスの誰一人咎めない。そうあるのが、さも既知の事であるように。

 俺はようやくこの場所で何が起こっていたのかを知った。彼の事、彼女の事、全てがいつの間にか白日の下にさらけ出されてしまっていたのだ。

 俺は経緯を知らない。けれども、こんなのまるで晒し者だと思った。目に映る奇異な存在、浴びせられる好奇の視線。渦巻くそれら感情がクラス中をひしめき合い、今この瞬間、ひとりのキッカへと差し向けられている。

 女の姿をしたキカを、さて皆はどう受け捉えたのだろうか。女装したキカ、あるいはキカの正体が実は女だったとか、各々どういう解釈に至っているのかは知るよしもない。だが、とにかく皆は思い思いに彼/彼女の本質がなのだと理解した。神納が先程俺に吐いた台詞も、考えてみればキカがこうなった経緯や事情を俺が知っているものだと想定して、それを問い詰めるためのものだったのだ。

 教室の騒ぎを沈静化させるためにか、外で待機していたらしい学級担任が追って入室し、いつも通りの落ち着いた口調で全員に語りかけた。


「あー、お前達、落ち着いて聞いときなさい。日月さん……ですね、今日はとりあえずこの格好のままで授業を受けていただく事になりましたので」


 担任の口から下されたのは、そんな突拍子もない通達。こういうケースで学校側がどんな対応に出るのか正直想像が付かなかったので、果たしてそれがキッカにどう作用するのかなんて、俺にも全く読めない。


「とにかくちょっかいかけないでやってくださいね。坂薙さん、フォロー頼みます」

「――――なんで……なんでキカを教室に戻したんですかっ!!」


 急に勢いよく立ち上がった坂薙が驚く程に強く声を荒らげ、机を力一杯叩き付けていた。

 坂薙の心の内にくすぶっていた痛切さ。それが込められた反旗の一言が、クラスを再び重苦しい沈黙の井戸へと突き落としてしまった。

 坂薙は悲痛に呻き、嗚咽を押し殺し、高まる鼓動を抑えようと肩で鈍く息をしている。周りの女子達が彼女を落ち着かせようと席を立ち、それぞれ側に駆け寄ってゆく。俺ではそこに加わる事ができず、傍らから見守る事しかできない。


「伝えておきますが、一応、日月さんとこの親御さんにも連絡を取りました。他の職員と会議で取り決める案件ではないので、私の一存で校長と理事長とに直接確認を取りました」


 戻ってきた担任はもう一度教卓に立ち、いつも通りの言い回しでクラスの皆に言葉を向ける。皆――と言うより坂薙本人に、が妥当なのかもしれない。


「学校上層部の出した結論としましては『こどもじゃねーんだから、ウチはその子の好きにやらせてもかまわん』……という話になりまして。校則にもの在り方や行動を制限するような記述はされていないですし、根本的にこういう展開が前もって想定されてなかったかと問えば……実はこういう多様性に溺れちまいそうな時代ですからちゃあんと想定されていたらしくて、でもその上であえてそんなものわざわざ規定しなかったそうですよ、実に現代的にアバウトな校風で私は気分がいい。納得いったかな、坂薙鈴乃さん?」

「そんな………………そんなのって…………」

「なお、この状況変化が学級内に不和を生む要員となり得るかはこのクラスの担任である私が判断しますので、これは建前ですが、社会の一員らしい振る舞いの自覚を、ね? 因みに日月さんのケースについてはそのような判断が下された、という意味です。皆さんもそこだけは念頭に置いておきなさい。はい、私からの説明は、以上」


 担任が長々と吐いた言葉を耳に、坂薙は困惑の表情を浮かべると、言葉を詰まらせたまま腰を自分の席に落とした。


 一時限目終了を知らせるチャイムが、見計らったようなタイミングで鳴り響いた。

 坂薙鈴乃が行動を起こしたのは、起立の号令直後だ。自らの意志で集団行動から外れると、誰彼の目も気にせず問答無用にキッカの席まで向かい、彼女の手を力任せに取った。キッカは困惑の表情を浮かべながらも、信念に満ちた顔付きの坂薙に抵抗はしない。


「おい、ちょっと」「なによあの子、強引」「日月を勝手にどこへ……」「あいつら、やっぱどっちにしろできてんのかよ……」


 クラスから浴びせられる疑念と猜疑と動揺の声を頑ななままの表情を崩さず切り抜け、坂薙はキッカをこの教室から連れ出していった。

 去り際にキッカは俺に向けて不安というよりは諦念、諦め悟ったような視線を残し、それを分かつように勢いよく扉を閉ざす。坂薙は、他の者達がキッカと接する時間を一秒たりとも許さなかった。

 俺は思い出したように席を立つ。だが、坂薙達を追おうとして、すぐさま神納達に捕まってしまった。


「――佐村、ちょっと」


 一寸、運ぶ足がその場で躊躇した。神納が何を言おうと構わず、耳を塞いであの二人のあとを追えばいい、と自分で決断しきれなかったのだ。キカの事は坂薙に任せ、俺はここで何かをすべきなのではないかと思った。では、何ができる。あの二人のフォローか。いつ戻ってきてもいいように、クラスの皆を説得しておくとか。そんな大それた事、どうやれば俺にもできるのだろう。


「佐村はさ、キカっちの事……前から知ってた……んでいいよな?」


 神納がやけに神妙な面持ちをして話しかけてくる。と、周囲にいた他の連中もこちらに集まってきて、さながら質問攻めの陣形を教室内に形成しはじめた。


「日月クンってマジで女の子だったの? あれはファッションだけ?」

「ていうか、実は元から女だったんでないの? 男の格好してただけで……」

「逆じゃね? 今も身体は男の子だろ。中身が女の子ってだけで」

「いやー、おっぱい、あんななかったでしょ」

「……サラシって、意外とすごいよ……逆説的には女性の乳房の構造が男どもの想像とは違うとも説明できる」

「しらねーよ」

「あんたら、キカが体育ん時に着替えてんの……見た?」

「ううん、中学の頃すんごくからかわれてたらしいから、人に見られるのいやだって。あのひと体弱いから、元から見学多かったし」

「ね、じゃあセンセや鈴乃ちゃんも知ってて、アタシらには隠してたって事?」

「佐村君も……? なんかそれってさ、自分の世界に閉じこもってなくね?」


 口々に、思い思いに飛び交う疑念と疑惑の数々。俺はそれらに対して、本音を言うと幾つか言いたい言葉があった。坂薙がそうしたように今ここでそれを表出させ、彼らに突き付けたい衝動に駆られてもいた。

 けれども、そうする事で一体何になるのか。俺はあいつの保護者ではない。身勝手な代弁者を気取るつもりもない。坂薙と俺も立場が違うはずだ。俺はキカにとっての元も近しい隣人の一人――親友、と形容するのが最も相応だろう。

 であれば、俺があいつにしてやれる一番の事をここで今なすだけだ。


「すまん、その前に……まずこっちから質問していいか? 今朝何があった? 色々と話の辻褄が合わんのでな」


 俺の質問に真っ先に答えたのは、やはり神納だった。


「いやな、今朝だ。サカナちゃんと一緒に、あのお下げ眼鏡の子が登校してきたんだよ、キカっちじゃなくて。で、オレらもてっきり転校生かと思ったらさ、キカっちの席に座るもんだから――」


 神納が言うには、こうだ。

 突然今朝、坂薙が見知らぬ別の女子を連れて現れた。見知らぬ女子が日月キカの席に座った。見知らぬ女子はどことなくキカに似た顔をしていた。当然ながらクラスが大騒ぎになるが、坂薙があんな状態で威嚇するので誰も近付けない。でも、当然HRで担任に見付かってしまい、彼女は一旦教室から連れ出される。俺が図書準備室からここに戻った時点でクラスがあんな状態だったのは、おおよそそんな経緯があったせいだろう。


「佐村さ、お前……本当に何も知らねえのか?」

「ああ、俺には何が何だかさっぱりだ」


 知らない、と答えるより他なかった。

 キカの変身能力が世間に知られてしまったら一体何が起こってしまうのか、俺には想像も付かない。あんな非現実的な力を宿す人間がこの世に存在し得るのか。いようがいまいが、どちらにしろ公になればキカも今まで通りの生活はできなくなるだろう。冷静に立ち返ってみると、それら全てがすごく怖いのだ。


「いや、知らんというより、俺にはこの騒ぎに何か裏がある予感がしているんだが」


 そこで、神納達男連中の顔を眺め、ある経験から咄嗟に一つのアイディアが浮かんだ。この状況をいい意味で有耶無耶にできそうな、俺の思い付く限りで最良で最悪の手段。


「……裏? ってなんだよそりゃあ」

「いや……な」


 俺は眼鏡のブリッジをこれ見よがしの指使いで押し上げてやると、やや思わせ振りに法螺を吹いてみた。


「――神納も内田サン達も覚えてるだろうが、あれは去年の夏頃だったか、一緒に告白ゲームをやったよな? あれの第二戦、お前らには内緒にしていたが、実は今年も開催されてるんだ」


 今の俺がやるべき事柄は、トラブルの可能性を潰し、争いが起きるならそれを未然に阻止する事。何せこれは教室という閉じた世界での出来事だ。このサイズの世界であれば、俺の手でだって変えられないわけでもないだろう。そのためになら嘘も方便だし、状況だって逆手に利用してやる。


「ちょ、マジで!? 佐村てめえ、いつの間にそんな抜け駆け……」


 神納はびっくりした口調で一瞬声を荒らげかけると、他の連中の耳が気掛かりのようで急に声を潜め、


「つーかそもそもお前さ、俺ら抜きだったら、一体誰とそんなん愉しげなアソビやってんのよ――」

「……三年の九重先輩達と、ちょっと戯れで、な」


 あえて「九重」を思いっきり強調してやる。その方が都合がいいからだ。


「去年の一件から先輩と俺はあれこれ接点があって、今回はあの人から絡まれて無理矢理押し切られたというか、巻き込まれてしまったというか……」

「まさかの元生徒会長か……去年にお前が色々やらかして、弱み握られちまってたとか?」

「んなわけないと俺は思ってるけど、あっちがどういうつもりなのかは皆目わからん」


 弱み自体は、悲しい事に嘘偽りなく握られている。それどころか女性恐怖症体質を逆手に取られ、人質にまでされて。


「で、さっき俺の言った思い当たる節ってのがだな、今日のキカのアレが所謂罰ゲームなんじゃないかって話なんだ。というのも実はキカ、九重先輩との勝負に負けちまってな。で、先輩の悪戯心で今日あんな格好させられちまったんじゃないかって気がするんだ」

「んじゃ、あれって九重先輩がキカっちをコスプレ登校の刑にしたってだけ!?」

「……前生徒会長、色々ヤバい噂は聞いてたけど、見てくれの可愛さに反してマジこええらしいぞ。何でも女の愛人が何人かいるとか」


 聴き手に回っていた内田さんまで珍しく反応を返してくれる。俺達の遠巻きに聴き手に回っていた女子や他のクラスメート達も、元生徒会長・九重ミュウネという存在が関係者に突如加わった事で、それから連想される何かに反応し、奇行と受け取られたキカの問題に狙い通りの尾ヒレが付きはじめた雰囲気を感じ取った。

 我ながらこじつけの筋は悪くないと思った。よくよく考えてみて意味は全然わからないものの、相手にニュアンスは通じるし、皆に与える驚きも小さくない。それに、連中の前にぶら下がる伏線のラインを一気に増やしてやれば、色々と細かい部分に目が向かわなくなるメリットもある。


「これはあくまで憶測だがな。とにかく俺としてはそのあたりの事情を直接坂薙や九重先輩に聞きたい。坂薙もキカの事で何か悩み事があって、守ってやりたいからあんな強引な真似したのだろう。あいつ、馬鹿みたいに真面目な奴だからな。だから皆もしばらく冷静になってくれないか――この通り、頼むっ」


 パン、と大仰な音を立てて、俺はクラスの皆に手を合わせていた。呆気に取られた顔をする面々にかけた、俺からの念押しの追い打ちだ。


「あと話がややこしくなるから九重先輩の事も悪く言うなよ。ま、そういうことだから、俺はこれから坂薙と話をしてくる。じゃあなっ!」


 爽やかな笑顔、きらめく白い歯、颯爽と退場する俺、のシナリオを急遽想い描き、そのままを皆の前で実践した。

 その目論見は、自分評価では――坂薙メソッドで説明するなら朴念仁オーラで――失敗した疑惑のがやや勝っていた気がしたけれど、とにもかくにも俺は情報撹乱のための投げっぱなしの怪情報をそこに置き去りに、教室からの離脱に成功した。クリア寸前にゲーム機がバグったような目をしたクラス連中の群れを、堂々素通りして。

 そうして俺は教室の扉を閉めると、廊下にしゃがみ込み、頭をひとしきり抱える。自分は何て根も葉もないデマをぶちまけてしまったのだろう。あとで絶対に話題の種にされること請け合いなしだ。

 でも、俺にはまだやるべき事があった。俺達の間に築き上げられた関係性の輪を乱したりはさせない事。

 それは、絶対に、決して。

 今後の俺達三人の全ては、間違いなくそこからはじまり、そこを経ずに終わる事はないのだろうから。

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