第四章 ハイエンダー=ハイエンドガールズ

第24話

 部活の朝練の声で目が覚めるなんて、自分の生涯でもこれっきりの経験だろう。

 外から差し込む陽光に一瞬目が眩む。カーテンのレース越しのそれは真夏のものより幾分柔らかなものだったが、風呂に入らず寝汗もかいたせいで調子はすこぶる悪い。真上を向き口全開で眠っていたようで、喉と舌根が乾ききっている。背後にあった棚がちょうど頭を預けるのに適したお陰で、後頭部が妙に痛む。端的に言って、最悪の体調だ。

 昨夜巻き込まれた出来事が夢や妄想でなければ、俺はあれからずっとこの椅子に座ったままだったらしい。九重先輩の姿は既にない。変化があるとすれば、両手の戒めがいつの間にか解かれており、どこからか拾ってきたらしい自分の上着が肩にかけられていた。

 次に視界に入った事務机の上には、コンビニの袋と菓子パンやミネラルウォーターのペットボトルがずらりと並べられている。それで朝食を済ませよと言わんばかりだ。おそらくは、先輩が人質である俺のために用意したものだろう。

 並べられた棚と未整理の書籍の数々。察するに、今いるここは図書準備室だった。もっとも図書委員ではないので、実際に入ったのははじめてではあるが。

 壁の時計をうかがうと、針が指し示すのは午前八時過ぎ。自宅であれば確実に遅刻のタイミングだ。

 俺は軋む全身を無理矢理引き起こすと、おのれの膀胱の心配よりもまず、耐えがたいふらつきに生命の危機を覚えて、菓子パンへと手を伸ばした。同時にキカと坂薙に電話をしようと、携帯端末を片手に取る。すると、画面には『未夕音さん』なる連絡先登録の表示が点いたままになっていた。

 未夕音。その漢字には全く身に覚えがなく、一体何者の仕業かと記憶を掘り起こそうとしたが、昨夜の顛末から考えてみて、九重ミュウネその人の名に行き着いた。冷静になって考えてみれば別段不思議でもないのだが、独特の響きばかりが耳に心地良く、彼女にきちんとした漢字名があった事実が今更ながらの衝撃だった。

 その画面を閉じようとしたと矢先に、端末本体が短く身震いをする。不意打ち的なそれに驚いてしまい、反応が遅れて誤操作してしまった。

 見れば、坂薙からの着信通知だ。おそらく今うちのクラスはHRを前に、クラスメート皆の到着風景が繰り広げられている頃合いだろう。坂薙ももう登校したのかどうかはわからないが、慌ててかけ直してみる。


「もしもし……坂薙?」

『――――――ッッ!?』


 声にならない呻きのような何かが、端末のスピーカ越しに伝えられてくる。まるで嗚咽に言葉を詰まらせたような。


「坂薙? おい、そっちは大丈夫なのか? ああ、俺の方は無事っぽいんだが――」

『けーた、死んだかと思ったよう……』

「勝手に殺すな! って……あれっ……坂薙じゃなかった!? キカの方か?」

『違わい! 最初からわたしだ、このあほうっ!』


 相手のゆるゆるな口調に、出たのが坂薙じゃなくてキカだと一瞬勘違いしてしまった。坂薙は本気で俺の事を心配してくれていたのは口振りからよく伝わってくるが、どうにも呂律がはっきりせず要領を得ない。いつの間にか坂薙が俺を下の名で呼ぶようになっているのに気付いたのは、ごく最近の事だ。それがキカの影響にされてのものなのも。

 そしてこれまで接してきていい加減思い知ったのは、彼女は男勝りで気が強い割に、滅法打たれ弱くて泣き虫だという、意外な一面。


「坂薙、今どこにいる? キカはどうした?」

『…………いるよう、ちゃあんと。二人とも教室の……外まで来れた。やっと……』

「そうか、よかった。――――来れた……って、どういう意味だ?」


 彼女の少し妙な言い回しが引っかかる。廊下にいるのだろうか、電話越しに伝わる喧騒の声がやけに耳障りだ。それに音量が徐々に高まり、坂薙が言っている言葉が聞き取り辛くなりはじめる。


『――――から、私とキカが――啓太が――――で、やむを得――』

「どうした? 坂薙? おい、なんだか騒々しくて聞き取り辛いぞ」

『――――ちょっと、何――ほっときなさいよ! お前らにこの子の何がわか――――』


 がさがさと耳障りなノイズが強まり、向こう側が電話どころでない状態になったのを予感させる。あちらがやけにざわめき立っているのが気掛かりだ。坂薙達に何かあったのだろうか。


『――ね――――ケー……無事――の――』


 異なる音色の音声がスピーカー越しから届けられた。その瞬間、意識そのものが眩むような、頭の中がぐちゃぐちゃになって、俺は廊下に思わず膝を突いてしまう。あんな場所に縛られていたせいか、風邪でもひいたのだろうか。身体の自由がままならない。

 ――――――――ケータ――――――――。

 混濁した意識の中、脳裏にこだました。耳元に直接語りかけるような、ごく近い声。


「!? もしもし……キカか?」


 途端、薄れていた意識が鮮明に繋がる。スピーカーの向こう側は、聞きまごう事のないキカ本人なのだ。


「どうした、そこで何騒いでるんだ? ああっ、もういい、俺からそっちに行く」

『うん――――心――しな――で――――』


 キカの声も最後まではっきりと聞き取る事はできない。

 俺は通話を一旦切ると、厭な不安を押し込めながら教室へと向かった。

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