第23話

 風邪をひいて寝込んでいる時、真夜中に突然目覚めてしまう経験があった。朝から断続的に眠って、眠りすぎて、もうこれ以上眠れずに。首や、肩や、全身が強ばり、痛んで。頭痛もして。

 そんな、あの厭な感覚を思い出させる暗がりで、俺は目を覚ました。

 何故か、椅子に座っていた。堅い座り心地からおそらく教室の椅子だろう。ここに明かりはなく、周囲を確認しようと首を左右に巡らせると、何か金属質なものに頭をぶつけてしまう。自分の背面に何か棚らしき物体がいくつも並んでいるようだ。

 次第に暗がりに目が慣れてきた。ここは学校の中の、とても窮屈な――おそらく書庫か倉庫のような場所に思えた。

 混濁としていた意識がやや晴れて、身体の感覚が戻ってきた。そして立ち上がろうとして、ようやく自分の自由が奪われている事態に気が付く。

 両腕の付け根が背中で交差する形に縛られている。何と椅子の背もたれを支える金属パイプが蔓のようにねじれて、俺の腕に直接絡みついているのだ。それに腕だけではない。椅子の脚部分が背後の棚と結合しており、椅子ごと立ち上がる事すら叶わない。

 俺はまだあの非現実的な事件から解放されていなかったのだ。

 この場所に俺以外の何者かの気配を悟ったのは、それから数分後の事。気配の主はあの黒狼などではなく、背丈の小さい、俺と同じ人間だ。


「やっと起きたの」


 相手から先に口を開いた。若い女の声。やや低く、少女と言うには随分と大人びたものだ。そしてその声は、俺の耳によく覚えのあるものだった。


「あなたは……先……」


 靴の踵が床を鳴らす硬質な音。それは、やけに優雅な足取りで俺の方まで近寄ってくる。


「………………輩……九重、先輩……」


 脳裏に縺れ合ったままの伏線がいくつか線をなして、ようやく口にできた名前。

 奥の暗がりから俺の前に姿を現したのは、制服姿の女子だ。小柄で華奢な体躯。結われ切り揃えられた黒髪が荘厳な印象を色付け、理知的な猫を思わせる鋭い瞳に、白く人形のように整った顔付きをした、まるで人工少女めいた存在。

 俺の、きっと忘れがたき、初恋の相手。見まごう事ない、九重ミュウネその人だ。


「ご無沙汰さん。そしておはようございます」


 やけに馬鹿丁寧な口調でこちらに挑んでくる九重先輩。先輩は俺の目の前まで歩いてくると、そこにぽつんと立ち尽くした。腕組みするでもなく、悪役然と振る舞うでもなく、ただジッと俺の顔だけ見ている。

 悪役――というか、黒幕。そのような印象付けをこちらに与えつつ、九重先輩は姿を現した。今ならわかる。着替え途中だった女子達が悲鳴を上げる中に突然放り出された俺達。先輩は、俺が女子達から見えないように庇い、外へと逃がしてくれたんだ。

 ただそれも、好意的に解釈すれば、の話だ。

 九重先輩は、何も口にしない。そばに来るだけ来ておいて、無言、だんまりだ。相変わらずこの人は喋らないし、反応が薄いし、何を考えているのか読み取る事が難しい。

 顔を見上げる。女性にしてもゾクッとする程整った顔立ちをしており、何ら無駄がない。大人びているのに、ずっと年下の少女のような。二面性、だろうか。


「――――で」


 で、と言ったのは俺だ。九重先輩は、先程からずっと棒立ちだ。あんな事件のあとに俺の前に突如現れ、気付けばこんな場所に拉致監禁されていた。今俺の目の前で自由に振る舞っている九重先輩こそが、黒幕以外の何者でもない。

 で、何か言われるのか、衝撃の真実でも突き付けられるのかと思いきや、目の前に颯爽と登場しておいて、ぼけーっと突っ立っていらっしゃる。拍子抜けだ。


「――先輩、あの、思わせ振りに出てきたんなら、せめて何か言いなさいよ」

「………………へ。何が」


 確かに俺が知った当時から掴み所のない女性だったのははっきりと覚えているが、相変わらずこの人とは意思疎通できているのかできていないのか怪しい。


「…………ああっ、ったく――――例えば、とりあえず……これ。俺の手、なんかよくわからんぐにゃぐにゃで縛ってるの……あんたがやったんだろうが」


 あんた呼ばわりするのも初だが、それにも九重先輩は表情一つ変えず、涼しい顔で俺と見つめ合う格好。こんな緊迫した場面であるにもかかわらず、どこか意図をかけ違えており、こちらの恐怖感は希薄されてしまうばかりだ。


「違うのか?」


 念押しでそう問う。先輩――九重ミュウネは、くいと小首を傾げて、


「…………うわ、バレちゃった」

「――バレるに決まっておろうが! あんた、どんだけ思わせ振りな登場してきたかわかってんのか!」


 気勢を削がれる反応しかしない彼女に、さすがにのこちらも口調を荒らげてしまった。


「それとも、猫被ってんのか」


 言うと、九重先輩は両手を猫の前脚のように掲げて、それらしきポーズをとって見せてきた。


「そうね。猫、被ってる。にゃお」


 棒読み台詞過ぎて、ひょっとして別の誰かに言わされてるだけのような気がしてきた。それ程までに、ふざけているのか正気なのか、どうにも判断し辛い。


「……あのね、先輩。場合によっては……いや、場合によらず、もはや警察沙汰になる程の事になっているんですよ、これは? 貴方自身に、自覚はあるんですか?」


 拉致監禁の事を指して、明示的な事実を伝えてやる。他の所行がどう彼女と関わるのか、彼女自身が話そうとしないので今は証明できないが、俺を束縛しているこの行為に関しては、今目の前にいる彼女の仕業なのは明白だからだ。

 彼女の腕。俺を庇った際に、銀色の鎖のようなものをそこにしていたのを見た。あれは対になっているのか、黒狼の腕に巻き付けられていたものと同じだ。理屈はわからないながらも、おそらくあれはリモコンみたいなもので、黒狼を操るか何かしていたのだろうと俺は踏んでいた。

 だが、今目の前の先輩の腕に、それらしきものは見当たらない。


「警察。警察なんて、何の影響力も持たない世界での出来事よ」


 そんな事など自明であると、九重先輩ははっきりと言葉にした。俺が既に常識的な理屈では逃れられない、未知の領域へと足を踏み入れている。そう言いたいのだろうか。

 急な不安に苛まれ、心臓が緊張に悲鳴を上げはじめた瞬間の事だった。突然何かの微振動が、どこかで音を立て鳴り響いた。一瞬心臓が止まるかと焦ったが、思えばそれは耳慣れたもの、携帯端末のバイブ音だった。

 自分のかと思い手を動かそうとするも、身じろぎした程度で両の腕を鉄枷から引き抜けない。そもそもバイブの振動はポケットの中からのものではなかった。

 九重先輩は俺の背後の棚から携帯端末を取り出して、それが誰かからの電話だったのだろう――ごく自然に通話をはじめた。


「――――こんばんは。………………私、誰かわかる? 九重よ。…………ええ、そう」


 彼女が今耳に当てているのは、よく見れば俺の携帯端末だ。偶然同じ色のを先輩が持っている可能性もあるが、彼女の素振りから、キカや坂薙が俺に宛てた電話に出ていると考えた方が妥当な会話内容だろう。


「佐村さん、今一緒よ、ここいる。代わりましょうか」


 耳元から端末を離すと、画面をこちらに突き付けながら先輩が近寄る。端末の画面には、満月の名が表示されている。

 縛り付けられた椅子から身動きできないため、先輩はこちらの背後にある棚にもう片方の手を当てると、ヤバいくらい至近距離にその顔を迫らせて、端末を俺の耳に当てた。


「さあ、うまくやりなさい佐村さん。波風、立てぬよう」


 ゴクリ、と緊張で喉が鳴る。九重先輩の唇が鼻先をよぎり、少し甘い感じの吐息が鼻腔をくすぐる。俺側の事情なんて知らないものだと思い込んでいたが、今のこの人は女性恐怖症体質の事を明確に把握し、有効カードとしている。主導権は奪われたままだ。


『――兄? どうした、今どこにいる。連絡もせずこんな時間まで』


「あ、ああ。すまん。っていうか、今何時だっけ……」


 満月はそんな口調だが、俺を心配しているようだった。


「ばか、時計くらい見ろ、十二時過ぎ。お母さん、すげえ怒ってたぞ……もう酒飲んで寝たけど」

「ああ、そりゃあ悪かった。奴に絡まれたな」

「……ひどい目にあった。あとで貸しね。それに兄、女遊びなら電話で根回しくらいしないと。もっとデキる男になりなさい」

「――してねえよ」

「……え、さっき出たじゃん。一緒にいるって。でもさ、なんでよりにもよって九重ミュウネ?」

「あ、いや……なんとなく。彼女の……友達の関係で、相談に乗ってあげているんだ。まあ色々とな」


 満月は俺の女性恐怖症体質の事は知っていたが、九重先輩と俺の関係の方は全く知らない。例え妹相手でも、あえて話す程の内容でもなかったから。


「何をどうやったらあの宇宙人女とあたしの兄がそういう関係になれるのか、すげえ神秘。今年二番目のびっくりだ」


 いい加減、一番目は忘れろよ、我が妹よ。


「とにかく、帰れるようになったら帰るから、心配すんな。母さん達にはうまく誤魔化しておいてくれないか。後日埋め合わせするから。じゃあ切るぞ?」


 うん、がんばれ、女の体に気遣いはしろよ。大事大事、だぞ。満月はそれだけ呟くと、そこで通話は終了した。

 満月はただ操られていただけだったのか、夕方の事件の記憶などないらしき口振りだった。純粋に兄の帰りが遅いのを心配していているだけ。


「――九重先輩。貴方は……俺の妹――佐村満月の事を操りましたか?」


 俺は九重先輩の顔を睨み付け、はっきりとそう問い詰めた。未だに俺の耳に端末を当てたままの体勢で、目と鼻の先の距離で、両者は膠着状態のまま。


「そして、俺達を襲った、あの大きな、真っ黒な狼のあるじでもある、と」


 先輩は、核心に迫る俺の台詞にも、全く表情を変えようとしない。


「そうね、……違うわ。でも、大体合ってる。犯人は私」


 素直に肯定した。犯人、などという、この案件において明確に自分の立場と役割とを意味付ける言葉をわざわざ用いて、だ。

 理屈はわからないが、キカに特殊な能力があるのと同様に、この人が何らかの方法を用いて、動物も生徒達も操っていたのだろう。


「どうしてあんな真似を。一体俺を……俺達をどうしたい。何が目的ですか?」

「――私はね、佐村さん。ここを守らなくてはならない。義務。役目」

「まもる、って……何を……」


 それと、キカと九重ミュウネという女性自身に、一体何の関係があると。

 先輩は再び俺の顔に迫ると、やや表情を崩した。今までに抜け落ちていた……人間味、なのだろうか。それは、とても不思議な感覚。


「あの娘、坂薙鈴乃を傷付けた事、悪かったと思ってる」


 俺の耳から端末を離すと、九重先輩はそれを手早に操作して、こちらに画面を突き付けてきた。見ると、坂薙とキカからの着信履歴で画面が埋め尽くされていた。


「でも、あの手順が必要だった。日月キカ――あの似非吸血鬼の〈本質〉を引き出すためには、〈形相〉サーフェイスを覆す引き金が用意されなければならない」

「……は? サーフ……何だって? 何だよ、それ」

「キミはまだ理解しなくていい。我々は〈ハイエンダー〉として覚醒したあの子の、内なる〈本質〉を見極めなければならないだけ。だから安心して。これ以上、私は誰かを傷付ける事はしない」


 ハイエンダー。何の事だろう。自問自答なのか、謎の言葉を呟くと、先輩は俺の胸ポケットに携帯端末を差し込んだ。


「それは、あの日月キカが誰も傷付けないなら、という前提で」


 何かの秘密を俺に暴露した風に振る舞いながら、でも先輩は真相は伝えてくれない。キカが傷付けるとは、どういう意味なのか。あいつが何かするとでも言いたいのか。


「だから、今まで通りの日常を生き延びたいなら、私に従いなさい」


 いつの間にか、彼女の表情は元の仮面に戻されている。感情のこもらない、冷え切った口調。従いなさい。それは、こちらには取り合わないとの宣告だ。


「お話、おしまい。さて、佐村さんは、明日一限目の授業がはじまるまで、ここでおとなしくしていてもらいます」

「おとなしく……って、そんな」

「おとなしくしてもらいます」

「だって、メシとか……死ぬ程腹減ってるし、それにその、と、トイレだって」


 人質だとして、それくらいの要求をしたって構わないだろう。何せ、ここから移動する事も叶わないこの状態では、明朝までここでおとなしくだなんて無理、絶対不可能だ。

 だが、そんな俺の要求に九重先輩は目を細め吊り上げて――不敵な笑み、などと形容するのが相応だろうか。それは生まれてはじめて見る彼女の顔で、俺は絶句した。


「それよりもと実験してみよっか?」


 下の名前で俺を呼ぶ九重先輩。何かがおかしい。何かの違和感。俺が知っている、寡黙で無表情で落ち着いた物腰の先輩の――その表層が徐々に揺らぎはじめるのを肌で感じた。

 実験。彼女の放った言葉の意味を、直後に全肉体と精神とをもって理解する事になる。

 椅子に束縛されたままだった俺。その膝の上に、何と九重先輩自身が――乗っかってきたのだ。


「ちょっ……ここの……え……うわ、なに……を――――!!??」


 俺の両足の間に生まれた窪に、九重先輩の丸みを帯びた尻がちょこんと触れた。二人乗りの自転車の荷台でやるように女の子っぽくに膝を重ねると、俺の太股の上へと徐々に迫って密着し、後ろ手をこちらの首にまで回してくる。先輩は驚く程小さくて軽く、上に乗られても自然とそこに収まった。

 耳元に、すごく近くに、九重ミュウネという女性の息づかいを感じ取る。制服越しに彼女の乳房の感触と体温を覚え、互いの鼓動を交換している。先輩の顔が間近にあって、何故かジッと俺を見つめている。誰にも見せた事もない、はじめて目の当たりにする笑みの表情を浮かべて。

 まさかの、想像だにしなかったはずの体験の渦中に俺はいた。終わった恋だと思っていた。こんなの、どう受け止めたらよいのだろう。これが幸福なのかどうなのか、今の自分に判断はできない。感覚は麻痺して、意識も朦朧とし、徐々に気が遠くなっていく。


「ふうん。これが女性恐怖症だなんて、まさか。一体どこの誰に仕組まれたなのかしらね」


 先輩は――九重ミュウネは、俺に向けそっと耳元に囁いた。それを最後に、俺の意識はまたしばらく潰える羽目になった。

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