第22話

 黒狼が俺を引きずり込んだ教室は完全に無人だった。この教室には馴染みのあるいつもの机が整然と並べられており、そのいくつかに生徒達の鞄や、やや大きめのボストンバッグが載せられているのが確認できる。ただ持ち主の姿は誰一人見当たらない。特別な設備が設置されていないところから、予備教室か何かだろうか。

 黒狼は、俺を床に降ろし牙をブレザーから外すと、湿った鼻先で背中を小突いてきた。


「なっ……何だよ、やめろ――――」


 四つん這いの無様な体勢で這って逃げるも、何度も何度も鼻で小突かれる。全身ぼろぼろの俺は手足も満足に動かせず、途中から仰向けになり、尻を滑らせながら後ずさる事しかできなくなってしまった。


「……くっ、いったい何なんだよお前。俺に何の用があるって言うんだ」


 黒狼は相変わらずこちらに別の用があるようで、襲いかかっては来ない。


「俺達が何かしたのかよ……お前に何かしたのか! 何か言えよっ!!」


 こちらの言葉が通じているのか通じていないのか、黒狼はじりじりと迫ってくる。その巨体に、並べられた机をかき分けるように押し退けて。

 逃走する時間稼ぎすらできなかった。すぐさま教室の出入り口にしつらえられた扉に背中が当たり、俺はそれ以上逃げられなくなる。後ろ手に扉に触れてみるが、施錠されているのか右にも左にもスライドする気配はない。

 黒狼は俺に更に迫ると、鼻先を俺の顔の近付けてきた。奴の黒い鼻は湿り気に濡れ、生き物である事の証としての呼吸の音と息づきとがこちらの顔の皮膚にまで伝わってくる。


「なあ……俺を、喰うのかよ」


 こちらを捉える二つの眼球は、まるで琥珀から削りだしたレンズだ。獰猛な色をなしているものの、悪意などの人間的な表情とは異なる、純粋な強さをそこに印象付けている。

 普通の犬の倍はあろうかという牙。奴がその気になれば、それを使い今この場所で俺の喉首を噛み砕くなど造作もないだろう。

 大きな腕――前脚と呼んだ方がよいだろうか。他に同じく黒い体毛で覆われているそこに、異質なものを発見する。今まで特に気が付かなかったが、黒狼の右の前脚の先に、腕輪のようなものが巻き付けられている。腕輪と形容するにはバンド部分が細く、金属製の鎖のようにも見える。そしてその中央には、銀色の円筒状の物体がぶら下がっていた。

 それは明らかにそれは人工的な、黒狼と人間の繋がりを示唆するものだ。


「喰わなきゃ、何が欲しい。答えろよ。何をどうしたいのか、言わねえと人間様にはわかんねえだろうが」


 手段の選択肢をほぼ奪われた俺は、今や奴との対話を続ける事しか思い浮かばなかった。こちらを殺すつもりがないなら、何か別の目的があるはずだ。

 別の目的。いや、そんな自明のものなど、考えるまでもなかった。今までに俺達が遭遇してきた数々の非日常的な異変が、それを全て説明していたのだ。

 黒狼の耳が脈打ったように蠢いたのを見た。落ち着いた動作で首を窓の方へと傾け、吼えず静かにそちらを睨み付ける。

 教室に穿たれた穴の前に、キッカが立っていた。


「――――ケータを、返してもらいに来たよ」


 顔も髪も土にまみれており、薄汚れたブラウスはボタンが弾けて肌が露出し、男子制服のスラックスも破れてぼろぼろだった。なのに彼女は、人知を越えた脅威に全く怖じ気付かず、強い意志に満ちた表情を見せている。

 この高さまで一人上がってこられたと言う事は、変身した彼女の身体的特性は、目の前の黒狼とも近しいものなのだろう。

 この教室は黒狼が立ち回るにはいかんせん狭く、並べられた机や椅子という、四足歩行の動物にとって難儀な障害物だってある。であれば、この喧嘩に勝つ事も可能か。

 黒狼は迎え撃つために、俺に背を向けキッカに対峙した。


「いくよっ!」


 キッカはカンフーのごとき謎の格闘の構えをして、目をカッと見開いた。

 途端、ブン……と耳鳴りがした。再び空間が歪み、俺の視界に描かれたあらゆる光景の像が揺らいで、それに眩んだ俺はたまらず瞼をつむってしまう。

 そこで、再び変化が起こった。鼓膜が馴染みのある雑音を拾ったのだ。ざわめき。喧騒。ひそひそ話。それは遠くに、近くに。教室の中。扉の向こう、廊下から。中庭から。


「えっ……なに、何こいつらっ!?」


 声。


「ちょっ――――のぞ……」


 これも、知らない声。女子の声。

 教室一面に、女子達の姿があった。ある者は着替え途中の、制服のブラウスをはだけた体勢で。またある者は、下着だけ身に付けた半裸のまま、鞄の内部をまさぐる姿で。


「きゃ……」


 それを引き金に、堰き止めらた川の決壊よろしく、教室を超えて甲高い悲鳴の多重湊が轟いた。


「――――!!??」


 わけがわからなかった。先程までの異質な空気は消え失せて、俺達を取り巻いていた世界――あの虚像のような色をした場所は、本来の有様を取り戻している。

 取り乱した女子達は、何故かキッカ目がけて物を投げ付けはじめた。


「わわっ!? ちょっと――――ちが……待って! わたし――そんなつもりじゃ!」


 それはもう、手当たり次第に、である。キッカが男子制服を身に付けていたせいか、教室で着替えをしていた女子達は彼女を男子と認識したらしい。上履きや教科書、あるいは鞄そのものが、意味をなさない罵詈雑言とともに飛び交うカオスな状況。


「おんなのこ! ちがう、わたしおんなのこだって! 胸だってちゃんとほら――いたっ、ほんと、ほんとだってぇ」


 釈明の余地も与えられず、女子達の敵意は一斉にキッカへと向けられていた。

 では、この俺は。扉に背を預けへたり込んでいたままだった俺。その前に、何者かが背中を見せて立っている。


「――――うわあ、これは大事になっちゃった、かな」


 抑揚なく淡々とした口調で、涼やかにのたまう。

 ちょうど俺を女子達から庇う位置に立つ、同じく女子制服を着た人物。ありふれた黒髪。それを綺麗に結って、同年代にしては静謐なオーラを、煌々と背後からも放っている。


「でも、悪いのはあの子。学校を、この地を、乱すかもしれないから」


 彼女が俺の方に振り返る。その顔を知ろうと視線を上げるも、あとから差す光の目映さに視界が眩んで、彼女の表情も闇で覆い隠されてしまう。

 オレンジの逆光を手のひらで遮ろうとすると、窓に開けられた穴は何故か元通りで、ずらされたカーテンの狭間から燦燦とした夕日の半球が、輪郭を淡く滲ませていた。

 彼女が一歩踏み寄ると、床に伏したままの俺に右手を差し伸べた。


「さ、キミは、おいで」


 差し伸べられた、やけに小さくて透きとおる程に白い、人形のような手。斜めになったその腕に何故かネックレスのような銀の鎖が滑って、小さく金属質な音を立てる。

 俺は無意識に手を出しかけ、何かを覚えていた指先が躊躇い――


「…………だ……れ?」


 ――思い出したように引っ込めた。

 だが彼女の手は強く伸ばされ、ぎゅっと俺を捉える。速くて、逃げられなかった。

 彼女のものであろう、皮膚の温もりが伝わってくる。同時に、俺の体温からその実感が失せてゆく。徐々に、徐々に。

 薄れゆく意識の中。俺の頭は、ひんやりと冷たくて固い、リノリウムの床の感触を味わった気がした。

 あの黒狼から、無事逃げ出せたのだろうか、俺達は。坂薙は無事だろうか。キッカはどうなったのだろうか。

 虚ろな視界にふと彼女の横顔が入る。口元に笑みが浮かべられているのがわかる。


「おいで」


 そんな、囁きに似た声には、どこか聞き覚えがあった。

 繋がれたままの手。扉が静かに閉められる音と同時に、俺の意識もそこで途絶えた。

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