第21話

 翌日の放課後になって、その取引は実現される手はずとなった。

 渡り廊下側の窓から眼下に広がる中庭を眺めると、芝生の間に続く道に足を止め談笑している女子二人の姿が見て取れた。それは、坂薙と満月なんていう珍しい組み合わせ。

 本来は単に女子制服を受け取るだけの話だったはずなのだが、いかにも裏の取引らしいシチュエーションを要求される展開になった。というのも、当の満月がこの兄を女子制服の収集変態趣味者だと疑っていたのだ。勿論それは冗談半分だったものの、渡すブツがブツだけに、さすがに誤解を招かれかねない。

 結局今回は坂薙の協力を得て、関係者立ち会いのもとでの手渡し――文字通りの『取引』と相なったわけである。


「ね、サナギちゃん、だいじょぶかな?」


 俺の傍らで不安そうな声を上げるのは、日月キカ。男の方のキカ、とあえて注釈を添えねばならないくらいには、こいつがキッカ――つまり女の姿で行動する機会が増しつつあり、要するに俺自身がかなりの混乱をきたしている。


「まさか、大丈夫じゃない状況が想像つかない。別にあいつら、クスリと現金の交換みたいなヤバい事をしているわけでもなし」


 適当な相づちの言葉を挟んでやると、俺は渡り廊下の窓を開け放つ。この季節にしては生ぬるい風を顔に浴びながら、坂薙達のやり取りを見守った。

 今のところ満月がこちらに協力的で安心したが、ただ同じ屋根の下に暮らす肉親として若干不安にもなる。女子の制服を闇取引する、なんて言い回しに変えてやれば、みっきーのダークネスさは爆アゲだ――って自分で言ってやがった。


「――――あれ? ふたりともあっち行っちゃった」


 キカの言うように、中庭で立ち話をしていた満月と坂薙は、そのまま奥の方へと歩き出していた。

 校舎棟中庭の小径を進むと、すぐ旧クラブハウス棟へと行き着く。キカと坂薙との最初の事件があった場所だ。俺はてっきり取引は手早に済むものかと思い込んでいたが、考えてみれば今の満月は手ぶらだった点に気が付く。


「そういえば今朝家を出る時、あいつ……それらしき手提げ袋とか、持ってなかったな」

「じゃ、別のとこでわたしてもらう、ってことなのかな?」


 俺は根拠なく頷いてやると、中庭を歩いてゆく二人の様子を上からうかがった。

 と、俺の目が、妙なものを視界に映す。


「ねえケータ、あそこの…………いぬ……?」


 黒い、小さな影。少し距離が離れているため、それが毛の黒い犬であると気付くまで手間取ったが、とにかくそんなものが坂薙達のうしろの方をゆっくりとうろついているのが見て取れた。

 二人の遥か背後を付かず離れずという微妙な距離で、好奇心旺盛な子犬が道に迷いながら、ドサクサに彼女らのあとを付けているようにも見える。


「あのわんこ、学校にまよいこんだのかな? さすがにここからじゃ、首輪ついてるのか見えないねえ」


 何だかとぼけた台詞を発するキカを尻目に、ふと気掛かりな事が脳裏をよぎった。


「――――しまった! 満月の奴、犬は駄目なんだっ!!」


 真顔で横からのぞき込んでくるキカ。思わぬ指摘に、巡りはじめた思考の糸が縺れる。

 そう、満月は小さい頃から犬が大の苦手で、よく野良犬にじゃれつかれ泣きじゃくりながら逃げ回っていたのを急に思い出してしまった。


「すまんキカ、ちょっとあいつらの様子を見てくる!」


 脳裏をよぎったすべき事を行動に移すには、決意表明など要らない。間髪置かずのタイミングでキュッと上履きを滑らすと、向きを変えリノリウムの床を蹴っ飛ばしていた。


「ケータ、わっ、待って――――」


 遠ざかるキカの声に無視を決め込むと、廊下の角をS字に曲がって、二段飛ばしで階段を駆け下り、踵に土踏まずに全体重を受けた鈍い衝撃を覚えつつ、まばらに残る生徒達の群れをかい縫っての、ただひたすらの全力疾走。

 上履きのゴム裏が粒の粗い石ころを噛んだのにふと気が付くと、俺は中庭のアスファルト上に立ち、乱れる呼吸に肩を震わせていた。手の裏から指先にまで滲む汗と帯びた熱が、上体を支えるように握りしめるズボンの膝小僧をゆっくり湿らせている。

 俺はキカが追い付いくのを待たず、満月達が姿を消したクラブハウス側へ足を進めた。

 あの黒い生き物は、飼い主の元から逃げた飼い犬か、せいぜい野良犬だろうと想像する。動きから見て、それほど危険そうなものとは思えない。

 実は、厭な胸騒ぎがしていた。根拠は、ただの予感だ。あの屋上での襲撃が頭の片隅からまだ離れずにいて、俺の隣人達に近寄る存在にかなり神経質になっているせい。

 遠巻きに聞こえる体育館からの部活の歓声。校舎脇や芝生のベンチに屈み込む生徒達の姿。まだ放課後のはじまり故に、色味が夕暮れに向け揺らぐさなかであっても、醸し出される学校の活気は未だ褪せていない。

 旧クラブハウス棟へとたどり着いて周囲を見渡すも、この一帯には犬どころか、外に人の気配はまばらだ。

 くだんのOGとやらは、満月と同じ女子陸上部の出身だろう。女子陸上部の部室扉の前で足を止めると、中から女子達の話し声が聞こえてくる。ひょっとしたらこの中で満月が坂薙に女子制服の引き渡しを行っているのかもしれない。

 何事も起きてなくてよかったと俺は安堵すると、自分が不審に思われないよう部室と適切距離を取って、周囲の様子をうかがう。


「ケータ、ちょっと待って……わっ!?」


 ようやく追い付いてきたキカが絶え絶えの息に声を絞り出すと、突然風が吹き荒んだ。それが凪いだあとに木々が枝を振るわせる音が、やや遅れて耳にも届く。

 その様が露骨に演出めいているように感じた俺は、失笑に似た気持ちが急に湧き起こってきて、先程はどうしてあそこまで慌ててしまったのだろうと、たがの外れた自分の行動に驚いてしまう。

 確かに満月は今でも犬は苦手だ。けれども、あれから随分と成長した彼女に小さい頃の面影を重ねてこうまで焦るだなんて、本当に自分もどうかしていた。


「……ふぅ、心臓いたい。もうケータはいきなり突っ走るんだから。ところでサナギちゃん達、どこいった?」


 蚊の鳴くような彼の声に、俺は指で部室の方を指してやる。

 先程までの俺に同じく、膝を抱えへばっているキカ。息絶え絶えのその姿を尻目に、今更俺達を取り巻いていた異変に気が付いた。

 先程の黒い犬が、すぐそこにいたのだ。毛並みと同じ黒い尻尾を立てて、校舎脇の花壇の前からこちらをジッと見ている。

 いや、それだけではなかった。キカも気付いて振り返った方。クラブハウス隣の木立の下に、なんともう一匹。こちらも同じに黒い犬で、最初の方のはよく見ると雑種だったが、こいつはパグだろうか? 何にしても別の犬種だ。

 これは一体何の予兆なのか。犬達はこちらをただうかがっているだけ。だというのに急激に不安が立ちこめはじめて、俺は周囲をぐるりと見回した。


「――ケータ、あそこにも」


 キカが指摘した以外にも、方々に犬が姿を現す。大きいもの、小さいもの、丸っこいもの、引き締まったもの、厳ついもの、首輪の付いたもの、尻尾のないもの、服を着せられたもの。共通項は、毛が黒いというただ一点のみ。

 まるで俺達を取り囲み逃げ場を塞ぐかのように、軽く十を超える数の黒犬達がこちらを凝視している。吼えも、警戒も、威嚇もせず、ただただその場に佇んでいる。

 ごくり、とキカの喉が鳴った。そうなって別段不思議でない光景だった。そもそもここは学校だ。何かしらの作為が働かない限り、偶然に次ぐ偶然が練り上げたこの異様な状況など、俺達が対面するはずなどないからだ。


「こいつら、屋上のとは違うが、どこか同じにおいがする」

「うん。でも、今度はなんで犬……」


 黒犬達はこちらに襲いかかってくる素振りも見せず、自分の持ち場所で微動だにしない。そして、彼らの目と鼻の先を通らねば、俺達もここを立ち去る事ができない。

 これは俺の勝手な比喩だが、キッカを変身ヒーローや魔法少女みたいなものになぞらえれば、まさにピンチの状況だ。せめて坂薙がこの場にいてくれれば。


「そうだ、坂薙は今どこに――」


 だが、俺はその言葉を最後まで言い切る事ができなかった。

 この場に張り詰めていた緊迫感を打ち崩したのは、悲鳴。女性のものだ。

 つんざくようなそれは、大気を震かんさせる程に轟いて、俺の心臓を鋭利に突いた。乱される鼓動。できれば耳にしたくなかったそんなものが、同じ場所で二度繰り返された。


「今の、サナ……ギ……ちゃん!?」


 見開かれた碧眼に動揺が色濃く浮かび――


「――――サナギちゃあんッッ!!」

「おい、キカちょっと待てっ、どこ行くんだよ――」


 それを耳にし終えるのを待たず、キカはきびすを切って駆け出してしまった。

 俺もキカのあとを追う。悲鳴は外から聞こえてきた。であれば、坂薙達は部室ではないどこかにいるという事だ。では、二人はどこへ向かったのだろうか。取引が済んだのなら、渡り廊下にいた俺達のところへ戻ってくるはずなのに。

 しかし俺の前を行くキカが向かっているのは別の方向。と言うよりも、この一体を包囲する黒犬達は、俺達をある一カ所へと誘うため配置されているようにさえ思えた。作為というよりは罠、だろうか。何者かが動物を操り、こちらをそう仕向けていると。

 それにまんまと乗るつもりなのか、キカは黒犬達には目もくれず、中庭の木々の間を駆け抜けて行く。

 やがて、俺は別の違和感に気が付きはじめた。校舎の様子がおかしい。妙に静かで、生徒の気配がないのだ。放課後ともあれば、音楽室で吹奏楽部の活動だって行われていたはずだし、文化部は他にもごまんとある。黒犬も先程以降姿を見かけなくなっていた。

 それだけではない、景色そのものに異常な点を見付けた。夕暮れ時のオレンジ色の影を落としていたはずの中庭は、今は像の暈けた碧の光をほんのり帯びている。何故だか自分達が帰らずの森に迷い込んだイメージが脳裏に浮かび、驚いて両手のひらを見やる。手の輪郭も、像がわずかに揺らいで見える。

 俺達はどこか知らないところに迷い込んでしまったのだろうか。現実じゃない側に踏み込んだようにも思える、気が遠くなる感覚。段階を経て落ちゆく意識。

 この感覚は何かに似ていると感じて、キカがキッカに変わる瞬間のあの裏返りを想起してしまった。そうだ、あれだ。

 キカはまだ俺の前を走っている。耳鳴りと貧血にも似た衝動を振り払おうと、訳なく頭を抱えて走る。

 やがて行き止まりが来た。突然立ち止まったキカの肩に鼻っ柱をぶつけて、急激に揺り戻される俺の意識。呻き声を上げるでもなく、急に全身が重量の実感を取り戻し、ふらついて思わず膝を折ってしまう。

 行き止まりは、おそらくは専門校舎棟のどこかの角だった。ちょうど中庭から死角になるような、ややほの暗い場所。だが、白昼夢はそれで終わりを遂げたわけではなかった。


「さか……な……」


 喉から辛うじてそんな声が漏れる。

 校舎の壁際に、坂薙鈴乃が倒れている。意識があるようで、ただその顔は唖然の表情を浮かべたまま。

 その傍らには、同様に見慣れた妹の顔――満月が、ただぽかんと立ち尽くしていた。


「――坂薙っ! 満月っ!!」


 どこかで擦りむいたのか、尻餅を突いたままの坂薙の膝には血が滲んでいる。


「サナギちゃんっ! 怪我してる――」


 キカが真っ先に彼女の元へ駆け寄り、ハンカチを探そうと自分のポケットをまさぐりはじめた。

 俺も続こうとするが、坂薙は何か別の事を訴えようとした。


「いるの……まっ黒いの……大きい奴…………うえ、上の、方…………」


 彼女の言葉は要領を得ず、空を指すように手を掲げている。


「まだ、いる……たぶんまだいる! どうしよう、逃げないと……」

「落ち着いてサナギちゃん、何もいないよ、だいじょうぶだから――」


 キカは同じ目線にしゃがみ込んで、何かに怯え取り乱す坂薙の肩を揺さぶった。


「だいじょうぶだから」


 そう囁いて、緊張を解きほぐそうと半身で彼女の頭を包み込んだ。

 坂薙は息もやや荒く、腰が抜けた体勢に変わりはないものの、表情に冷静さが戻りつつあるのが遠巻きにも見て取れる。そのすぐ足下に紙製の手提げ袋が転がっており、満月との取引自体は果たされた事をうかがわせた。

 坂薙の身の安全はキカに委ね、俺は代わりに空を仰ぎ見る。彼女がうわごとに呟いた何かは、とてもこの空には潜んでいそうにない。ただし、暮れの大気は未だ幻惑めいた色を濃く残しており、坂薙の恐れたものが現実に潜んでいる可能性を否定しなかった。俺達が白昼夢から抜け出せたわけでない事を如実に物語る光景だ。

 視線を戻し、傍らに突っ立ったままの満月の顔をのぞく。


「一体ここで何があった満月――俺にはな……せ……るか……?」


 言葉を言い終えるまでもなく、それがもはや無意味な行為だと知る。満月の目が空虚な色を宿していた。以前屋上で見た下級生達と同じ、本来あるべき意思を剥奪されたような。


「すまんキカ、坂薙と満月を連れて一旦校舎に戻ろう。二人を頼めるか?」


 二人の誘導方法が思い付かず、俺はキカの手を借りざるを得ない。ただ、今はおのれの無力を呪うよりも、裏返った現実を元に戻す手立てを探すべく、行動を起こす事が最優先事項。これが屋上の時と同じ脅威ならば、何かしらこれを終わらせる引き金があるはずだ。


「うん、そうだね。みんな、なるだけ人気があるほうへ――」

「――――駄目、キカっ! 避けてっ!!」


 冷静さを取り戻しはじめた矢先、坂薙の悲壮な叫び声がそれを唐突に断ち切った。キカが坂薙の手を取り、その場から立ち上がらせようとした直後の事だ。

 何事が起こったのか、認識が追い付くのを待たず、縺れ合った二人が土を巻き散らして地面に転がった。

 俺とキカの間に、何かの塊が落下した。その衝撃で俺も思わず姿勢を崩してしまった。

 倒れ込んだ芝生を掴んで上体を起こし、必死に瞼を見開く。それが落ちてきたのは、おそらく校舎の上からなのか。

 黒い、黒く巨大な物体が視界を遮っている。巨躯だ。黒に塗れた毛並みを揺さぶると、子供の背丈程もある尾っぽで風を切り、喉から低い唸り声を吐いた。

 そいつが、俺と満月、キカと坂薙の間に立ちはだかり、四者を分断している。

 呼吸を断つに余りある衝撃と戦慄とに、発するべき言葉を失う。舌の先すら動かせない。怪物――と形容しかけるも、その黒い姿形は誰しも見覚えがあるものを緻密になぞらえている事に気付いて、俺はそれを自然とこう例えていた。


「…………おお……かみ……!!??」


 辛うじて絞り出した名称が、すぐさま目の前の異形に一つの意味を定義付けた。狼だ。黒くて、巨大な体躯を持つ狼。

 漆黒のたてがみに筋骨隆々とした四肢。その身の丈は小さな自動車程もあるだろうか。それが重たく首を傾げて、まず俺と満月を睨め付けた。

 ガラス細工然とした琥珀色の眼球が二つ、異様な輝きを灯してこちらを捉える。湿った鼻。獣の放つ独特の臭気がこの場に立ち込めている。威嚇に醜く歪められたあぎとに並ぶ牙から地響きのごとく漏れ出るのは、野太い咆哮と恫喝の音だ。

 存在そのものに心臓を握りつぶされる程のプレッシャーを覚え、俺はその場で微動だにできない。鼓動が乱され、胸が今にも破裂しそうだ。

 黒狼は次にキカと坂薙のいる側へと首をもたげると、舌でおのが牙をなめずって見せる。その様に坂薙が意味をなさない悲鳴を上げ、彼女をキカが抱きしめ庇った。

 瞬間、黒狼に対する金縛りめいた恐怖心に、別の恐怖心が打ち勝った。それは、この場で誰かが傷付くという、未知の喪失への恐れ。


「――――走れキカーッ!」


 喉が枯れんばかりの怒声で彼らをはやし立てる。俺は、足下に転がっていた石ころを手に投げ付けると、満月の名を呼び、彼女の制服の袖を引っ掴んで、全力で黒狼の前から離脱した。

 ――逃げ出せると思ってしまった。それが誤りだった。

 満月の制服を掴んだ途端、指先から彼女の体温を感じ、痺れが染み渡ってゆく。

 満月が、俺の手を握っていた。こいつは俺自身が抱える女性恐怖症体質だってよく知っている。いつも互いにふざけ合っていたけれど、そういうシリアスな面では、なかなかの理解者だったはずだ。それに今の意識も上の空なこいつが、一体どうして。

 そんな疑問点の解に至るまでもなく、俺はあえなく転倒してしまった。神経が異常をきたしたのか、足の感覚が一瞬失せて、踵の二歩目の着地すら叶わなかった。

 肘から地面に倒れ伏した俺。見開いたままの目には、この状況においても何の躊躇いもない満月の両脚だけが映っている。こいつは、自分の意思を失っているのだろうか。

 黒狼は巨体を再びこちらに向けると、遂にその脚を持ち上げ、ゆっくりと迫って来た。

 意外な事に、奴はこちら目がけて飛びかかってこようとはしない。この獣の動きが決して鈍いわけではないのは、傍目にもわかるのに。

 黒狼は、代わりに鼻先を地面に付く程下げ、姿勢を低く落としてにじり寄ってくる。中庭の芝生の踏み付け、一歩ずつ、また一歩ずつ。

 まるで俺達を追い詰める事が目的かのように。拍子抜けする程緩慢な動きを見せる前脚には、自分よりも小さい生き物を上から押さえ込むための厳つい爪が生え揃っている。

 その様子は、獲物を捕らえる際の肉食獣の姿と言うよりは、獲物ですらない、こちらをただ戯れの木切れのように弄ぼうとしているようにも思えた。


「――――けーたーッ!! だめ、逃げなさいっ!!」


 悲痛の渦に飲まれたような坂薙の叫び声。そのまま落ちていた手提げ袋を黒狼目がけて投げ付ける。黒狼を刺激するかと一瞬焦ったが、相手はそんなもの気にも留める様子もなく、俺の方に近寄ってくる。

 麻痺し無防備を晒した俺の肢体。上体の痺れが緩和しつつある感覚に奮起し、無理矢理顎と肩とを引き起こす。

 黒狼は俺の喉首を噛み千切られる距離でふと歩を止めると、再び表情のない獣の眼で俺の視線を捉えた。


「満月……おいッ満月ッ! てめえ返事しろっ!!」


 強く、妹の名を呼ぶ。


「聞こえてんのなら……走れっ!!」


 それすらも届かぬのだろう、彼女は兄の呼びかけに、ついぞ答えない。

 満月は――満月の傍らに並び立つように、黒狼がいる。獣を恐れない満月。まさか、まさか。獣が彼女のあるじなのか。それとも、彼女が獣のあるじなのか。

 学校内で起こりはじめた異変。俺が対峙しているものは、まさかその元凶なのか。


「糞ぉぉぉっ!!」


 死の実感というものは、今も正直よくわからない。自分がこの年齢で命を落とす可能性があるとするなら、それはどうせ不慮の事故なのだろうと、無意識に考えていた程度の危機感。けれども、それを今すぐにでも俺にもたらす凶器が、すぐ傍らにある。

 果たして日本に狼なんていただろうか。それ以前の問題として、本当はいもしないような、冗談じみた大きさだ。色だって、見た事もないような黒。この現実は、一体何だ。


「――――――ぅぉおおぉぉ」


 抗おうとあがく力も徐々に薄れ、十本の指が土を掴むのを止めた。

 その時。地響きのような土煙を上げて――――


「おおぉぉおおおおおおおおおおぉぉキーーーーックッ!!」


 ――カンフースタイルの華麗なる跳び蹴りが黒狼の尻に刺さった瞬間を、俺はまさに目の前で目撃してしまった。

 制服とスカートがはためいてゆく場面。鼻水混じりの、泣きじゃくりの表情に顔を荒れさせた坂薙鈴乃が、蹴りの構えのままスローモーションの自由落下にその身を委ねている。

 俺は一瞬、目の前で何が起こったのか理解できなかった。先程まで怯えて取り乱していたはずなのに、何故そんな無茶で危険な真似を坂薙がしたのか。

 坂薙の跳び蹴りを喰らった黒狼は、しかしそれごときで何らダメージを受けた様子もなく、自分より体重が軽い者の衝突エネルギーをいなして、四肢をわずかに揺らした程度だ。

 その報復は恐るべき速さで果たされる。坂薙が地面に着地する暇すら与えず、おのれに攻撃を加えた方へと振り返った黒狼。偶然なのか、その大きな頭部が坂薙の脇腹に接触して、彼女の肢体は不自然にしなって、上に再度跳ね上がる。呼吸にむせて、彼女の表情が苦痛に歪む。

 上下真逆に浮き上がった坂薙の晒された白い右脚に、そのまま黒狼が食らい付いた。


「さな……サナギちゃんっ! 離せ、この――うわっ」


 追い付いたキカが黒狼に飛びかかるも、奴がその場で軽く回転し向きを変えた程度で、彼の軽い身体は簡単に弾き飛ばされてしまった。

 キカは、傍目に怪我はなさそうではあったが、地に伏したまま呻いている。黒狼は前脚を揃えその場に尻を落とすと、遠吠えをするように顎を空に上げて、咥えた坂薙を逆さまに吊るした。

 それは、俺達に向けて獲物を晒しているつもりなのか。坂薙は重力に従って落ちる血流と恥辱とに顔色を赤らめて、必死に抗おうと蠢く。


「痛っ、いたいっ! こら……はな……離せ!」


 何度も手を振り回し、自由な方の脚で黒狼の頭部を蹴り飛ばそうとする。しかし片足だけ束縛された逆さ吊り状態でそれはうまくいかず、捲れ上がってしまったスカートからのぞく下着を隠す事も、ふくらはぎに食い込んだ牙から逃げ出す事も、今の彼女の思い通りにならない。


「やだっ! このっ! このぉっ!!」


 力なく暴れる坂薙の姿。黒狼にの鋭い牙が穿たれた坂薙のふくらはぎから真っ赤な鮮血が滲んで、重力に従い膝へと腿へと落ちてゆく。

 俺の内にたぎり込み上げていた怒りの衝動。


「ぐぬっ………………くそ……坂薙を……かえ……せっ」


 坂薙を取り戻そうと、歯を強く食い縛り、這いつくばって起き上がろうとする。

 だが、そこで満月が動いた。満月はこともあろうに俺の顔の上を両脚でまたぐと、無防備にもそこで立ち止まり、ゆっくりとしゃがみ込んできたのだ。


「お前……満月……わっ、馬鹿、何してんだよ……おいこら……どけ……」


 黒い布きれがふわふわと俺の顔に当たっている。白く細い両脚がその奥の暗闇から生えて、更に奥でチラ付く、純白の何か。

 気付くと、俺の右耳の隣に満月の左足の膝が、左耳のすぐそばに満月の右足の膝があった。運悪く仰向けだった俺は、この体勢だと実の妹のスカート内部を直下からのぞき上げる格好だ。これは、一体何の変態プレイなのか。


「やめ……どかんかこの間抜け妹! こんな緊迫状態で兄に何させるんだド阿呆! 正気に戻れ!! 貧乳!! 出べそっ!!」


 しかし、満月にとって最大級の呪詛の言葉すらも耳に届かず、逃げようにもこの体勢だと彼女の身体に触れてしまいかねない。ある意味、俺という人間の動きを完全に封じたも同然の技だ。

 ただ、これで一つ確信する。この茶番劇めいた行いをしでかしている存在。

 黒狼――あるいは、それすらも操っているであろう、何者か。

 その何者かは、屋上で下級生達を操って俺達を襲撃し、今も満月を操って、こちらから何かを引き出そうと企んでいるのだろう。でなければ、あれ程の牙を持つ獣をこちらに差し向けながら命を奪おうとせず弄んで、更にこんなふざけた真似などするものか。


「サナギちゃん……ケータ……わたし……どしたら…………」


 膝を折ったままのキカが、誰にともなく呼びかけている。


「……もういちど……あのときみたいに……変身できたら……わたしが、変われたら……」


 と、黒狼は首を振るって、咥えていた坂薙をキカに向かって投げ飛ばした。それに気付いたキカは坂薙を抱き留めようとするも、体重の重みで体勢を崩し、絡まった彼女もろとも後ろ向きにひっくり返ってしまった。

 俺は、届くはずもない手で中を掴もうとあがく。まだ身体が満月からの変態的束縛から解放されたわけではない。それでも感覚の鈍い足を引きずって、俺にまたがる彼女の股ぐらを無理矢理潜り抜けた。火事場の何とやら、だった。

 黒狼はキカ達に背を向けると、予想だにしない動きを見せた。四本の脚で軽く飛び上がり、宙でくるりとUターンして、こちらに身体を向け着地する。そのまま肩を低く落とした姿勢で跳躍すると、何といきなり俺目がけて襲いかかってきたのだ。

 先程までの戯れとは真逆の、獲物を捕らえる獣の姿だ。常人の反応速度では回避不能な速さで奴は飛びかかり――

 ――剥いた牙がこちらの喉笛を噛み千切るものかと思いきや、何故か黒狼は背後にまわって、俺のうしろから首根っこを咥えてきた。自らの牙を器用に制服のブレザーに引っかけると、俺は文字通り持ち上げられてしまった。

 自分の体重の重みでブレザーからずり落ちそうになり、暴れてそれを脱ごうとするも、抗おうとする度に自ら首が締め上げられて意識が揺らぐ。


「――――人質にした、ってこと……わかった。ごめん、まっててね、ケータ……」


 ぼさぼさになった髪の毛。土に薄汚れた顔をして、キカは屈んだ姿勢のまま、坂薙を抱きかかえている。


「サナギちゃん…………サナギちゃんの魔法、ちょっとだけ……もらうね」


 坂薙は虚ろな表情のまま、キカに頷いた。キカは両腕で抱きかかえた坂薙の剥き出しのふくらはぎに顔を近付けると、そっとそこに口を這わせる。獣の牙が穿った赤い、赤い傷口。優しく舌で触れ、血を嘗め取る。その光景に、朦朧とした俺はわけなく心を奪われる。

 そうして、それは起こった。音の立たない唸りが、ブンと鼓膜を振るわせる。

 俺達の周囲を覆い尽くしていた、翡翠色に滲んだ世界。それを、日月キカを中心に漏れ出した赤い空間で覆してゆく。日月キカの概念が組み替えられたかのように、輪郭と像とを徐々に歪め、段階的に再解釈し、新たな姿を定義し直してゆく映像。

 空間に澱んでいた磁場のような何かが彼女の顕現に風を巻き起こし、その場にある者達全てがそれに圧倒される。

 そうして、俺達の前に赤い瞳を宿す黒髪の少女が再び降臨した。

 橘川まちる。キッカ。日月キカの姿を少女になぞらえ直した、似通いつつも異なる存在。呼び名はどうだっていい。


「…………ねえ、黒い子。おまえ、ケータを離して」


 地面に下ろした坂薙の前に一歩踏み出すと、キッカは早々に黒狼を指差し、鈴鳴りを想起させる声色で、そう宣告する。言いながらブレザーのボタンを一つずつ外し、キッカは黒狼の方へと逆ににじり寄ってゆく。


「わたしは、さっきまでのようにはいかないよ」


 その赤く輝く瞳にも声にも不思議と力と意志とが満ちており、対峙する強敵への恐れすら感じていないようにも見える。

 キッカは上着を脱ぎ捨てると、俺を咥えたままの黒狼の前に立ちはだかった。


「――離しなさい」


 強く、重ったるく、発話する。


「――――ケータを、離せ」


 穏やかだが言霊めいたそれは、言葉も通じぬ獣の知性を刺し貫くかのごとく。

 キッカの見せた表情は鋭く、どこか戦慄を覚える程のものだった。日月キカの持ちうる穏やかさが抜け落ちてしまったような、どこかあいつを毀損された感覚。

 だが、それが彼女の持つ不思議な力の、源泉にあるものなのだろう。あれ程ひ弱だったあいつが、自らの意志で、今まさに未知の敵意と対峙している。

 動きを見せなかった黒狼は、短く喉を鳴らすと、ゆっくりと後じさる。

 が、それはキッカの威圧に屈したためではなかった。後退した位置から数歩助走し、黒狼はキッカ目がけて突然疾走した。それも、俺を咥えたまま。

 黒狼はキッカの目の前まで走り寄る途中、校舎側へと向きを変え、何とその屋根目がけ大きく跳躍した。驚くべきバネで地を蹴り、重量級の体躯を強引に跳ね上げる。

 胃の内包物が繰り返し攪拌される程の上限振動に振り回された直後に、今度は重力を無視して急激に放り投げられたのだ。奴に咥えられたままだった俺もたまったものではなく、踵や肘を何度もそこいらに打ち付け、胸部も圧迫されて意識が混濁してきた。


「なっ……こらー、にげるなー!」


 キカの声が先程は別の、おかしな方向から聞こえてくるのを鼓膜が拾った。追って目の焦点が徐々に正常に戻り、軋んだように痛む首筋を無意識に支えようとする。

 俺と黒狼は、いつの間にか二階屋根のひさし部に飛び乗っていた。ひさしのすぐ上には、風化で色のくすんだ専門校舎棟の窓が規則的に並んでいる。窓は薄汚れたカーテンでくまなく覆われ、内部がどんな教室なのかこちらからはうかがい知れない。

 黒狼は首をもたげ、閉じられた窓を睨み付ける。すると窓にはめ込まれたガラスが不自然にぐにゃりとひしゃげて、ちょうど中に通れる穴が、ぽっかりとそこに穿たれた。

 それがどういう原理かはわからない。奇妙な事に窓枠とガラスだけが内側にめくれて、作為的な真円の形を描いていた。熱で溶けたわけでもない、魔法のような原理。それはあの時屋上で見た、空から落下する俺を受け止めたフェンスのハンモックに同じ、まるで無機物の形を自由自在に操作する能力にも思えた。

 外からの風でカーテンがわずかにはためいて、開け放たれた穴の向こう側に広がる暗がりを、どこか不気味なものに演出している。


「こらーっ、おまえ、逃げるなぁーー! ケータかえせーーーー!!」


 階下の中庭から叫んでいるのはキッカだ。それはやや抑揚を欠いたあの脱力させられる声色で、先程見せた威圧感が抜け落ちた、いつものキカのものだ。

 当然それを聞き入れるはずもなく、黒狼は俺を引きずり校舎の内部へと連れ去った。

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