第16話

「すまん、俺が悪かった」


 素でキッカに頭を下げていた。買い物に付き合ってやると約束したのはまだ昨日の話だったのに、それを俺はまんまと失念していたのである。

 渋々従う羽目になった俺はキッカと、電車で二駅ほど越えた隣県の繁華街に訪れていた。

 地方都市では、郊外地に商業機能が分散しつつある昨今。移動手段は公共交通機関か自転車かという高校生身分の行動可能圏内を前提に置くと、一番面倒が少ないのがここの駅前中心街に立ち並ぶ百貨店群だ。そのどれもが、我々世代にしてはどうにも世間ずれした謎の美少女女子高生・橘川まちるの要求を満たす品が手に入るはずだ。


「――――でね、昨日の不思議な力をわたしなりにもう少し研究して、うまく使いこなす方法が見付けられたらな、って思ったの。ううん、何としても見つけなければならないのだっ!」


 グッとガッツポーズを決めた橘川まちること通称キッカは、その指先でくるりと天をなぞり、魔法らしき何かを予感させて見せる。

 そんな口の達者さとは裏腹に、彼女は未だ履き慣れぬ女物の靴に足取りもぎこちない。雑踏する駅地下街を先んじていた俺の背後で、見事にふら付いている。なるだけヒールの低そうなものを選んできたとの釈明も、そもそも母親のものをくすねてきた時点で、サイズが合っているかどうか怪しいものだ。

 余談ながら今着ている衣服も一式、母親の持ち物だと言う。日月キカの母親は、伝聞によれば小説家との事だが、その若々しいセンスに、こちらが手前勝手に思い描いていた母親像と作家像とがまとめて揺らがされる。


「その説明で本当に坂薙はうんって納得したのかよ。よく血を吸われるの許したな、あいつ」

「自分の事をもっとちゃんと知りたいからお願い、って力説してきたの。あんな事があって、知らないふり、見なかったふりして蓋するなんて、やっぱりこわいよ」


 あまり怖がっている口振りでもないが、これまでに何度か見せた彼女の暴走も踏まえての発言だろう。


「単に変身して見た目が変わるだけかと思ってたら、それだけじゃすまなかった。おかしなことばかり周りで起きはじめてる。でも、おかしなことを何とかできる力もわたしにはあった」

「おお、なるほど。お前がそんな事まで考えていただなんて、俺も正直びっくりだ」

「ふっふっふ、あなどるなケータ君。わたしの内に眠る魔法みたいなのがどういう理屈なのか、論理的に把握しておきたいだけなのさ」


 こいつ自身の身体構造自体が非現実的かつ全く論理的じゃないのに把握も何もないかもしれないが、にしてもあのキカがそういう目的を持った行動を自ら選んで進む様は、正直俺の目にも目覚ましいものとして映った。

 そして、薄々感付いていた。キカという存在の器となる肉体の改変が行われた結果、女である間はそれ自体がこいつのメンタル面にも影響を及ぼしている。昨日彼女が屋上で見せたアイデンティティの混乱も、どうやらそういう理屈だと自分なりに理解していた。

 一階へと至るエスカレーター前で二人立ち止まる。これを上がれば、確か女性向けの専門店街が軒を連ねる商業区画へと出られるはずだ。天井から吊り下げられた看板がそれを指し示している。


「サナギちゃん、いつもああだけど、きちんと話せば協力してくれるから」

「なるほど、今回のお前の言いたい事はわかった。で、だったら何で坂薙はお前を一人でのこのこと行かせたんだよ」

「う……それは」

「俺の家に来る前に坂薙のところにも行ってたんだろ? だったらあいつの事だ、絶対にお前を単独行動させない。騙して撒いてきたんだな、さては」

「もう、違いますって! わたし、今回はサナギちゃんともきちんと話し合ってきましたのでっ!」


 エスカレーターの上で慌ててこちらを振り返り、手をパタパタさせつつむくれっ面を寄越すキッカ。その踵が、女性のもの特有の重たい音を奏でる。そっぽを向いて短いスカートのうしろを鞄で自然に隠すあたり、はじめての実戦にしては仕草が堂に入っており、逆にこちらの方が戸惑わされるばかりだ。


「だとして、出かけるなら心配だから一緒に付いてくるとか、本当に言われなかったのか?」

「それが……へへへ……」

「もしかして、また喧嘩したのか」


 図星だったのか、キッカはそのまま言葉を濁してしまった。


「全く、お前ら幼馴染みという奴らは……」


 キカがキッカになってやたら饒舌になったと思いきや、根本は同じ、こいつはよくも悪くも嘘をつけない、馬鹿で正直者なのだろう。


「今回の買い物に付き合えって話。俺が勝手に想像するが、差し詰め自分用の女物の服がほしい、って事なんだろ?」

「……………………イエス、はい。ご名答、なのですケータ」


 嗚呼、俺はこういう場合、頭を抱えるべきなのだろうか。あるいは彼女の助力になってやるのが筋か。おのれの性への違和感と悩ましき女装趣味、どころの風呂敷で話が止まらなかった驚異の現実に脳が眩む。

 難しくて悩ましい、身体と生き方のの問題にこいつが帰着しなかったのが、あるいは幸運だったのかどうかはわからない。けれども、その結果行き着いた先がこれとは、何と数奇な現実だろうか。


「なんでだよ。そういうのはさ、俺じゃなくて、どうせなら女の坂薙に頼めば――」

「――だって、サナギちゃんはっ!」


 意外にも俺の言葉を遮って、キッカが語気を荒らげる。


「……あの子にとってのわたしはね、どうなっても、どんなにあがいても、異性同士なの。以前も、今も」


 そんなどきりとさせられる言葉が、不意に彼女の喉から漏れ出た。こちらに流した視線もどことなく儚げで、互いに運ぶ足取りがこの場に止まってしまう。


「だから、ケータにお願いした。サナギちゃん、この姿の時のわたしを、きっと同性として見てくれないもの……」


 それでも俺達の傍らを避け過ぎ去ってゆく人混み。店内の喧騒に曇る何者かの歌もどこか空虚に響き、この場所から突き放されたような居心地の悪さ。


「なら、俺だってお前を――」


 橘川まちるは、俺に異性として接して欲しいのか? だったら、俺だってお前の事を異性――つまり女と見る事なんて無理だ。キッカはあくまで生物学的な女性の身体を獲得しただけにすぎず、それも俺や坂薙の協力によってもたらされた刹那的なもので、かつ人格自体も日月キカのままなのだから。

 でも、正直考えも及ばなかったけれど、これはずっと複雑な問題なのだと、キッカの言葉から気付かされてしまった。

 思えば、クラブハウスでの一件。あのとき風船のように破裂してしまった坂薙の感情を、キカ自身、よもや忘れたわけでも目を背けたわけでもあるまい。

 かたや坂薙への気持ちを抱きながら、しかし彼女に触れる事もままならない俺がいて。

 そして、坂薙との関係性に揺らぐ二重の存在、キカとキッカ。

 俺達三人の間に形作られているものは、相手の後ろ姿を追い合う事で危うく保たれているだけの、不完全な三角形なんじゃないか。


「――まったく、困った奴だな、お前って奴は……」


 見透かされているのか、キッカは先程からこちらをただジッと見つめ続けている。

 と、真顔だった彼女がふと決意に満ちた表情に変え、への字に唇を結んでビシッと明後日を指差した。


「よぅし! は、はいるよケータッ!」


 わなわなと震えるその指先が指し示したのは、俺達二人がちょうど通りかかっていたレディース向けの服屋。

 割とマジに、これはもう後戻りができないと思った。


   * * * * *


 女性客ばかりで占められていた服屋の店内をうろついていると、以前満月に買い物の寄り道に付き合わされた時の記憶がぶり返してきた。あれは端的に言って、拷問的で退屈なものだった。

 だから、こういうシチュエーションに慣れていないわけでもない。淡い色調の陳列棚に並べられた数々。求愛する南国鳥のごとくきらびやかな何か達が丁寧に折りたたまれ、あるいは重なるようにハンガーにかけられ、選ばれた幾つかがこちらにその絵を鮮やかに見せ付けている。

 買い物の内容を尋ねてみると、どうやらこいつがキッカの姿でいる時のために、女物の衣服をいくつか調達したいのだと言う。それは主に、キッカが何らかの事情ですぐにキカの身体に戻れなくなってしまい、不自然な男装状態に陥るのを避けるためのものだ、とは本人の弁。確かに、あの胸が外見上おかしな絵にしてしまうのは事実だが。

 キッカは意外と手早く幾つかの品を手にし、次々にカゴへと放り込んでゆくと、


「――そのぅ……」


 手持ち無沙汰だった俺のところへと戻ってきた。


「なんだよ」

「あのぅ……」


 こういうのは他人事だと店内で好きにやらせておいたら、突然やって来てこちらに話を振る。この期に及んで俺の意見でも求めたいのだろうか。


「……下着見てくる」

「――――――――ンぶッ!」


 慌てて自主箝口令を敷き口を封鎖したが時遅く、むせ返りの勢いが鼻腔を抜け爆噴した。

 キッカはこちらの困惑などお構いなし、問答無用に別のコーナーへと一人立ち向かってゆく。奴の進む先を見ると、確かにそれらしき物体が並べられた一帯が視界に入った。

 キッカはコーナー部に配置された首無しマネキン人形の前に立つと、それに装着されたピンク色の下着をあれこれ品定めする振りをしはじめた。無論、女性の姿なので、自然な絵面になる。

 タイミングを見計らうと、キッカは大げさにも腰に手を当て、虎穴に挑む勢いでずかずかと下着コーナーの渓谷へと消えてしまった。


「必ず……生きて帰ってこいよ……」


 そんな感じで一人取り残されてしまった俺は、居心地の悪さからそのまま店外に出て壁際にしゃがみ込んだ。わざわざ小遣いを崩してまで街中に出てきたのに、最初の一店目にしてこの疲労感。本音では店巡りなどせず買い物はここで一通り済ませ、あとはどこかで甘いものでも飲んで帰ってしまいたい気分だった。

 数分間、そんな事ばかりをぼんやり考えていたところに、突然震え出す携帯端末。

 もしかして坂薙かと、今の状況的に期待と不安の入り交じった心境でそいつを取り出してみると、液晶画面が『日月キカ』文字列を明滅させている。


「どうした」

『置き去りですかわたし……ひどいよぅ』


 微妙に涙声。でも本来ならば男友達同士の間柄だったはずなのに、相手が特別な時に身に付ける女物の下着を一緒に選ぶとか、それって一体何の苦行だ。


「ちげえよ。おもてだ、おもて。待っててやるから、買い物済んだら出てこい」


 そこに俺の居場所がないことをほのめかしてやる。キッカが一人で下着を品定めしている間は、こちらも連れ合いのいない男状態だ。居心地の悪さをわかって欲しい。


「うー……だって…………お金、全然足りない」

「は? って、どんだけ買い込むつもりなんだよお前」

「だって、こういうのがこんなに高いものだなんて思ってなくて……。これじゃ今回は下着だけ買って諦めるしかないかも……」


 言われるまで気が付かなかったが、高校生身分の持ち出せる軍資金なんてたかが知れていた。行動的な坂薙と違って俺もこいつもバイトなんてしていないし、お互いに別段貧しい家庭がでなくとも、日頃からそんな多額の金銭を持ち歩ける立場でもない。


「確かに小遣いのやりくりは大切な事だが、それでもお前、なんで下着を優先……」

「――あのね、えっちだとか、笑い事じゃないんだよっ! このカラダだと生活にかかわるの! 最優先事項!」


 ……なのだそうだ。


「特に……上がだよっ、あの、うちのハハのでは駄目だったので! サイズが合うブ、ブラがないと、本気でマジ苦しいんジャー」


 思わず電話を切りかけてしまった。こいつの笑いのセンスはあまりにしきい値が低くて、ただ目眩を覚える。


「インターネットで調べてみたら、うしろのホックがね、みっつあるのがわたし向けなんだって」

「――へ、へえ、そうなのか」


 そんな真偽不明のトリヴィアなど男の俺が知るよしもなかったけれど、嘘偽りない巨乳の持ち主であるキッカの裸体を想像してしまい、そういえば母さんや満月のはどうだっただろうかと、呆気なく明後日の方向へと意識が脱線していった。

 考えてみれば、うちの家系は皆胸が薄い傾向があるような気がした。いや、一般的にそれが普通なのかもしれない。そう錯覚してしまえるほど、キッカの姿でいる時のこいつは、同年代にしては胸の発育が規格上限値の間際にあった。あの時の坂薙は、確かEやFがどうのと言っていたはずだ。

 そういえば坂薙のをあまり意識した事がないのに気が付く。恋愛感情を踏まえてのものなのに、今まで視線が坂薙のそこに向いた記憶がない。輪郭的に目立たなかったと言えば必殺金縛りキックで蹴り飛ばされそうだが、ともかくこれは我ながら意外な現象だ。

 更に記憶を掘り起こしてみれば、九重先輩は童顔で満月よりも更に小柄であんなにも華奢な女性なのに、胸は意外とあったような気がした。

 珍しくそんな卑猥な妄想ばかりしていたせいか、意識が散漫になりはじめていた。


「でもデザインの選択肢が狭いの。サイズの問題なのか、可愛いの、あんま品揃えないみたい。仕方ないから、ここは実用性重視で――」


 目くるめく一方的な会話。野郎同士でなんて会話してんだ。この時俺はこいつになんて返事してたのかすらも覚えていない。


「――キャァアァァァァァァァァーーーーーーーーーーッッ!!」


 もやがかっていた思考を消し飛ばすような、つんざく悲鳴だった。

 通話越しであまりに不意の事だったため、それが店内からなのか、それとも通路や別の店舗からなのかが聞き取れなかった。俺の直感が掴んだ事実は、それが女性のものというただ一点のみ。

 いや、直感などと言うのなら、あまりに迂闊だったのだ、俺自身が。よもや屋上での襲撃を忘れたわけではあるまい。

 俺は携帯端末を耳に当てたまま店内に戻ると、先程キッカが消えた方へと走る。


「おい、何があったキッカ? もしもし?」


 しかしスピーカー越しに届けられる音声は、何かごそごそとした雑音だけ。その足音がやけに近い。

 慌てて首無しマネキンのコーナーを曲がると、何やら数名の女性客がざわついているのが見て取れる。キッカの姿はそこにはない。

 俺は腰を落とし女性客らの間を捨て身でかい潜ると、その視線が向かう先へと進んだ。

 と、女性客達の注目する先の光景を目の当たりにし、俺は言葉を失ってしまう。厭な予感が外れた代わりに、目の前ではとんでもない光景が繰り広げられていたからだ。

 行き着いたのは、店内の隅に設置された試着室の前だった。そこは、淡いミント色のカーテンが開け放たれたままだった。

 視界の下に、ぼんやりとチラ付く存在があった。恐る恐る視線を下げてそれの正体を目の当たりにし、次に自分がどう振る舞うべきかの意志決定能力がリセットされてしまった。

 簡潔に表現するなら、床に女性がへたり込んでいる。それも、二人もだ。

 巻き尺を手にした若い女性店員が、茫然とした表情で店の床に尻餅をついている。

 その女性店員と向き合うように、試着室側の床で半裸のキッカがうなだれていた。剥き出しになった自らの肩を抱いて、さらけ出された肢体を必死に覆い隠そうとしている。

 俺は咄嗟に携帯端末をポーチのポケットに押し込めると、試着室のカーテンを閉じた。


「あの、すみません。僕の『彼女』がお店に、その……ご迷惑を」


 俺の口からそんな台詞が漏れた。渾身のつくり笑顔を伴って。こういう時は、状況整理なんて後回しだと思った。

 硬直したままだった店員は驚くと、起き上がりながら俺に視線を移す。


「あの子、とっても恐がりなので」

「え……いえ、はい。こちらこそ突然の事で取り乱してしまいまして、大変申し訳ございませんでした……」

「こちらもお騒がせしました。こっちは大丈夫ですので。あとでレジ、お願いします」


 なるだけ通りがいい声ではっきりと伝えると、店員は得心のいかないような表情を残しつつも、そのまま奥の方へ立ち去っていった。

 と、カーテンのレールがわずかに鳴り、隙間からキッカが顔をのぞかせる。何と形容してよいものか、赤面と言うよりは疲弊に近しい面構えだ。


「…………………………ごめん……なさい……」


 俺は代わりに背中を寄越すと、


「いいけど。さすがにちょっと焦った。またなんか起こっちまったのかと思って」


 なんか、というのは、勿論あの屋上での出来事みたいな、非現実的な異変に巻き込まれる事を指していた。今のこいつは非現実側の何かによって存在が成り立っているのだから、そういうものと地続きで繋がっている気配は拭えない。

 理屈もまだわからないのに、こいつが女になれる事だけをさも当然のように受け入れておきながら、そこに気が回らなかったおのれを今更呪いたくなる。もしかしたらまたあのような襲撃を受ける可能性だって排除できていないのだ。


「また……って、ケータ……、――――!? 敵……とか……」

「いや、可能性の話だよ」


 敵――と形容していいのかどうかはわからない。でも、キカを中心とした俺達三人だけに不思議な現象が起こったというよりは、そちらの世界に足を踏み入れてしまった、とだって解釈できる。俺の考えすぎかもしれないが。


「急に悲鳴上げるから、お前に何事があったのかと焦っただけだ。お前や俺がまたいつ襲われるともわからないのは確かに事実だが、今回は何も起きてないから心配すんな」

「……よかったぁ。またびっくりするところだったよ……」


 そう露骨に安堵してみせるので、さっきの悲鳴の理由はあまり大したものではなかったのだろう。


「で、一体何があったんだよ」

「えへへへ…………実はサイズを測ってもらってたさっきの店員さんに突然触られちゃって、そのぅ……あんまり恥ずかしかったもので、思わず」


 伝えられた悲鳴の理由はやけに呆気ないもので、肩透かしを食らってしまう。


「でも、あそこまで絶叫するほど恥ずかしかないだろ。店員、女の人だったし」


 取り乱すほど恥ずかしかっただなんて、男の時はそんな素振りなど見せなかったのに、何故だろう。

 確かに体育の着替えの時、キカが人目を避けるためあれこれ策を講じているのは知っている。俺もそれに協力してきた。中性的でなよなよしているのを昔よくからかわれたと、いつだったか口にしていたのを聞いたからだ。でも今は、その矛盾が正常になったものとばかり俺は思い込んでいた。


「騒いで、ごめんね? さっきは自分が何者だったかわけわかんなくなって、パニクってしまったのでした」


 詫びのつもりなのか、あからさまに明るい言い回しをして、顔だけのぞかせていたキッカは、試着室のカーテンを少しだけ開いて見せた。

 着替え終わったのかと思い振り向くと、カーテンの狭間からチラと群青色のブラがのぞく。胸元側の輪郭線を覆うフリル状の何かに対をなした、肌色の乳房の谷間。腕で下から押さえ込むようにして、周囲に客がいないのをいい事に、露骨なまでに見せ付けてきた。


「――サー、ビス」


 カーテンを羽織るようにして、その間からキッカがのぞかせた表情。それがひどく煽情的なものに映り、俺は思わずぞくりとさせられてしまった。


「何の…………真似だよ」


 動揺の色を必死に押し込めてやる。下着姿程度なら家でも慣れっこだ、問題ない。問題、ない。問題――――。


「ふふふっ……ボクの『彼女』、なんでしょう?」


 やけに遠巻きに鳴り響く音楽。鼓膜がそれをうざったいまでに拾ってくれる。

 喉を嬉しそうに鳴らすような声を出すと、赤くつぶらな瞳を歪め、キカのものとは異なる表情へと変え、俺の視線を真っ直ぐに受け止めてきた。

 それは、あまりの光景だった。どこか超越した存在に魅入られるような、怖気にも似た感覚。厭な汗が、手のひらに、指の間にと染み渡ってゆく。今までに知り得た情報から彼女が吸血鬼などとは全く別の概念に属する者だとしても、今の表情を目の当たりにしてしまうと、そのようなヒトを魅入る人外的存在にすら見えてくる。

 どことなく妖艶な側面を持つ容姿が、見る者をそう錯覚させてしまうだけなのかもしれないが。


「悪ふざけはよせって」


 こちらの戸惑いを読んだのか、キッカはあっさりとカーテンを閉じた。

 カーテンよりも厭な沈黙で分かたれてしまった両者に、耐えかねて俺は――


「――――お前さ。ほんとに、キカ……だよな?」


 口にするのをかなり躊躇った。でも、本心の吐露だ。ずっと胸の内に積り続けてきた、朧気な疑念。


「そんなぁ、わたしは、わたしだよ?」

「すまん。お前がさ、見た目だけじゃなくて、中身までよく似た別人に変わっちまったような……その姿の時は別の人格に入れ替わってるとか、そう錯覚してしまう瞬間があるんだ」


 最初の兆候は、こいつの言葉遣いだった。どこか俯き気味でたどたどしかったあのキカが、突然饒舌になった印象さえある。それにただ口数が増えただけでなく、強く反論したり、挑発めいた言動すら取るほどに変わった。

 クラブハウスで起こったあの事件からここ数日、そんなこいつの姿を横目に眺めてきた。時間を刻む度にキカが別の何かに変容してゆく気配を感じていた。


「…………いや、気のせいだ。忘れてくれ。俺が慣れてないだけだ」

「ケータごめん、あのね……」


 衣擦れの音に紛れるように、くぐもるキッカの声がカーテン越しに伝えられる。


「やっぱり変なんだ。気持ちがカラダに引きずられてる」


 言葉がやや重いトーンを伴う。こいつが普段は滅多に口にしない、内に抱えているであろう葛藤が、そんな台詞からもまざまざと浮かび上がってくる。


「どういう意味なんだ?」

「この姿でいる間はね、今のわたしこそが本当の自分なんだって衝動が勝って……言っても信じてもらえないかもしれないけど、勝手なことを自然にしてしまう」


 伝えたい意味はわかるのに、けれどもぼんやりと像をなさない、曖昧な言葉。


「気が付くと、そういえば本来のわたし、日月キカがなんだったかを忘れている」


 キカという存在とキッカという存在は同じ一つの人格で、傍目に同じかに見えて、少しずつズレはじめているのかもしれない。あるいは、元から大きくズレていたのが、キッカの身体を得た結果浮き彫りになってしまった。

 変身というきっかけが、身体の抱える問題だけでなく心にも波及するという、漠然とそれに接して実感を得ただけの、何の根拠もない確証。

 であれば、近いうちにきちんと考えて結論を出さねばならないのかもしれない。

 でも、何かって、それは一体何だろう。このような状況に陥った俺達は、何を目的に、どこへ向かえばよいのだろう。


「……わたしがこんなこと言っても、ケータにはよくわかんないよね……」


 違う。彼/彼女一人で悩む事ではない。

 と言っても、それでは一体誰に告白し、助けを得ることができるのだろう。友人? 大人達? 肉親相手にすら、キカや俺達を取り巻きはじめたこの異常な状態をどう理解してもらえるのか想像すらつかない。こちらが望む通りに受け入れてはもらえないだろう。

 それに、万が一この事が白日の下に曝されてしまったら、キカ自身のこれからの人生から光が奪われてしまうのではないか。そんな色褪せた未来が脳裏をよぎり、明かされるべきでない秘密としての形ばかり帯びてくる。


「いや、信じないわけないだろ。また機会があったらまた三人で話そう」


 同じ当事者である坂薙の助けも必要になるだろう。

 薄い唇がわずかな戸惑いに震えると、ケータ……と、かすれたような少女の声色で頷いた。どうしようもなく、この日月キカは橘川まちるなのだ。


「今日は、コントロールできるか?」

「――――うん、だいじょぶ。慣れれば、うまくいく」


 しばらくして彼女が試着室から出てくると、会計を済ませ、俺達は店をあとにした。

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