第三章 オオカミ、ストライク。

第15話

 また夢を見ていた。俺がキカの視線を乗っ取ったような、主人公不在の、あの不思議な夢だ。

 推測するに、男同士でした口吻が祟って、俺は心に軽微なトラウマを負っていたのかもしれない。

 だとするなら逆説的に、ショック療法の有効性だって期待して罰は当たらないのではなかろうか。

 例えば、異性とのキス、だとか。悪くない提案だな、それは。


「兄ー」


 ところで、いつも通り休日の朝のまどろみを満喫するべく、布団の中でしばし身じろぎをしていたところ、何やら階下で満月が騒がしい。

 我が妹の佐村満月は年頃の女子高生にしては抑揚の抜けた、率直に言って言葉に力と勢いの乏しい無気力の権化ではあったが、かと言って引っ込み思案とは真逆の境地へと日々邁進し、四六時中喋くりが賑わしい。本人の口に言わせるところの、意外性が持ち味のキャラなのだとか。


「兄、あにー、アニーーッ」


 ……などと、感嘆符抜きの大声で実兄をどこぞの著名ミュージカルめいた横文字に空耳させては、スリッパでフローリングをドタつかせている。ローテンションの癖にやたらと一人でかしましい。


「――――兄ーっ。起きんなら妹も押し入るぞおー」


 しびれを切らせたような口調。かたや俺はと言うと、応答する気力も薄く。喉を唸らせるのみ。人を呼び付ける割に用件を明確にしない不届き者にあえて従う義理もなかろうものと、あくまでおのれのペースでの起床に挑む構えだ。

 と、どたどたと満月が階段を上がってくる様がドア越しに漏れ伝わってきた。


「――え? あ!? ちょ、ちょっと、あの、いもうと! 妹ちゃん! 勝手にまずい、まずいですって!」

「いいじゃん、いいじゃん。大丈夫、不躾な兄の事など全ッ然お構いなく」


 有無を言わせずにドアが開け放たれると、俺は絶句した。妹の代わりに予想外のものが部屋に転がり込んできたからだ。

 自分の寝床から上体だけ起こした、寝間着姿のまんまの俺が出迎えた来訪者。廊下の方から満月がそいつの肩を掴んで、逆にそれを拒むそいつを無理矢理にでも俺の部屋に押し込めようと奮闘しているなんていう、我が家ではあまり例を見ない押し問答のシチュエーションがいきなり目の前で出来上がっている。


「むぐぐ、さあどうぞどうぞ、朝から、だらしない、兄、です、が」

「むぎゅ……あの、突然お宅にお邪魔してしまいごめんなさい、ケ――佐村、くん」


 おもむろに頭を下げた来客者の彼女は、困惑の表情を浮かべつつ、チラチラと満月と俺とに目配せしては、遠回しに何かを訴えかけるように。


「……最初は玄関で待たせていただくつもりが……いささか強引――おほん! ともあれ色々、ありまして」


 なるほど、満月の奴、はじめて見る俺の客人を面白がって、下で待つと言うのを無理に連れ込んだのだろう。


「ぬふ。『橘川きっかわまひる』さん。なるほどかわいらしいじゃん。兄の婚約者さんかな。どれ、おねーさんに話してごらん」

「……早まりすぎだ満月。まず守備範囲外だから。あと橘川は『まひる』じゃなくて『まちる』だ。因みにお前よりも年上な」


 矢継ぎ早に訂正の文句を浴びせてやると、ドアの前でご丁寧にかしこまり正座まではじめた突然の来客――自称・橘川まちる氏に、さてどう応対したものかと寝起きの回転が鈍い脳で思案を巡らせる。

 橘川まちる。そいつは俺がここ最近愛読中のシリーズもの小説に登場する、ヒロイン格キャラクターの名前だった。

 しかしまあ、巡り巡ってよくぞそこに偽名をこじ付けてきたなと半分関心、残り半分は、こちらがうまく辻褄合わせして切り返せない可能性を何故最初に考慮しなかったのかという、呆れ。


「ところで佐村くん、ず、ずいぶんとかわいーパジャマですねー、おほほほほ」

「ほっとけ。俺の趣味だ」


 自称橘川は嬉し恥ずかしな表情だけ浮かべながら、睨み返す俺に決して視線を合わそうとはしない。


「――んで、何で来た、『橘川』」


 疑問形でなく、ふんだんなニュアンスを込めて、そう断定してやった。人様のプライベート空間にまで上がり込んだのは本人の意思でないにしても、俺の家に招待した覚えなどないし、まずもって何故その姿を選んだのか。


「なんでって……なんでだったかなー……ほほほ……」


 空々しくはぐらかして見せる。

 突然の来訪者、橘川まちるは、随分と派手なファッションスタイルの、可愛らしい黒髪の美少女だ。何の躊躇いもなく『美少女』などと表現してやる、お望みの通り。

 何だかよくわからない、耳か角かが生えたモードな帽子を被り、皺とフリルとリボン意匠の合成獣キメラみたいな淡い水色のワンピースに身を収めて、身体の線をあられもなく強調。存外に短いスカートの丈は、普段の坂薙達女子連中の制服にすら勝るようにも。そこからのぞく両脚を、素肌を晒す気恥ずかしさからなのか、太股あたりまでのやたらと長いチョコレート色の靴下で覆っている。所謂ニーソックスって奴だ。

 坂薙のするような女性目線タイプではなく、男の妄想から描かれ野に解き放たれたような、そんな華々しい絵面。


「なるほど、ね」


 勝手に頷き、得心する。それも大きなため息を交えてのもの。

 橘川まちるは、要するに日月キカだ。

 女体化前後でキカを識別する必要性に駆られたので、キカ子の方を便宜上『キッカ』と呼ぼうと取り決めたのが、昨夜の電話での話だった。

 男性のキカと女性のキッカ。元は俺の誤発言から生まれた『吉川』から発展したものだ。

 これには、日月キカを男女で区別しないと俺自身の精神がゲシュタルト崩壊を起こしかねないから、という辛く苦しい内幕もあった。

 そして全く勝手な事に、キッカは『橘川まちる』なる架空人物のニックネーム、という余計な新設定が今ここに追加されてしまった。


「あのぅ、ですね、ケータ。本日はその、わたしと、お出かけの――――」

「ほほう、呼び捨て御免、なるほどさん。本日はオールデイ・オールナイツ、兄とデートですね、婚約者サン」


 やらしー確信の笑みを浮かべ、満月がにじり寄ってくる。それを毎度茶飯事の口調で、あしらうのが俺。いつもの光景だ。


「満月は出てきなさい。兄とお客さんとのプライベートな会話にシレッと混ざらない」

「はい。橘川さん。兄の部屋、ベッドの下には、ので。探すならパソコンの中、Cドライブの一時ファイルを画像検索」

「満月。出てってもらえないかな」

「この兄、大変お堅い男ながら、家族の視線はあまり気にしない主義のようです。来たる義妹からの、お得な耳寄り情報」

「いいから部屋から消えろ、おさな耳年増」

「はいはい。ちっとも動じてくれなくて残念無念、手厳しい兄」


 動じるも何も、こいつは男だ。同性の生理現象に無理解なはずもなかろう。


「うふふふ、ご機嫌よ……きゃあっ!?」

「ほらそこ、気安く美少女にお手でお触れにならないで下さい」

「ちっ、随分とご立派なものをお持ちなのに、残念です」


 ちっとも残念そうでなく、満月はそそくさと部屋を出て行った。それを見送り終え、足音が階下に消えるのを入念に確認してから、


「…………あはは、びっくりしちゃった。ケータの妹さん、なんていうか、とってもクレイジーだね」


 爽やかにはにかんだ表情で、キッカが我が妹に敗北宣言した。

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