第14話

 俺達以外の何者かによって開けられた、屋上のドア。突風の煽りを受けて勝手に解放されてしまった、などという偶発的現象とは考えにくい。それに耳をそばだててみれば、パタパタと足音らしきものと屋外特有の残響とが、かすかながら拾えてしまう。


「……まずいな、足音からして、何となく一人じゃなさそうな感じがする」


 そんな俺の台詞に、傍らのキカ子はびっくりした顔を見せてから、あらためて人差し指を唇に立て「しー」をやる。

 この場に一気に緊張が走った。俺とキカ子は声を殺して腰を落とすと、壁の角からドアのある方をチラとのぞき込んでみる。俺達が今隠れている屋上塔屋の裏手からは死角となるので、どうにも向こうの様子はうかがえない。けれどもそれは相手側にとっても同様で、まだこちらの存在に気付いてはいないだろう。

 もう一度、角から顔を少しだけ出してあちらの様子を目視する。すると、今度は制服姿の男子達の背中が見えた。こちらから確認できる限りでは、屋上への侵入者は二人――いや、あちらの状況的に、話し声は聞こえないものの彼ら二人が相対している人物がいるようにも見える。と言う事は、おそらく三人以上いる計算か。

 さて、どうしたものか。俺達二人が屋上にいるのがバレたところで、精々先生らからお叱りを受ける程度のダメージだろう。運が悪ければ一日程度の自宅謹慎、かもしれない。

 が、この状況下での根本的問題はそこじゃない。キカの正体が白日の下に晒される結末の絶対回避と、俺達二人の身の安全の確保。それが最優先事項だ。

(け、ケータ!)

 突然、ひそひそ声でキカがこちらに注意を促してきた。

(どうした?)

(なんか来る、こっち来ちゃうよ!)

 気付かなかったが、どうやらキカ子は俺がのぞき込んでいた壁とちょうど反対側の角から様子をうかがっていたらしい。侵入者の連中がこちら側にやって来るのを訴えているようで、それを証明するように、足音の距離が少しずつ近付くのを俺の耳もようやく捉える。

 ただ、それはちょっと不自然な点があった。ゾンビみたいというか、その足音からしてやけに歩の運びが鈍く、少なくとも俺達男子の歩き方じゃないような、些細な違和感。

 授業のエスケープを決め込んだ不良か何か、だろうか。うちの生徒でそういう風体の顔ぶれは、不思議と見た記憶がないのだが。


「――――はわわぁ、見つかっちゃう、どうしよおぉケータぁ!!」

(しーーーーっ!!!)


 逃げ場を失った事に焦ったのか、キカ子が唐突に取り乱しはじめた。両手のひらで頬をぎゅっとして、窮地に陥った女の子みたいな仕草になっている。こういうタイミングに限ってその口を塞いでやれない自分の体質を呪いたくなる。

 いや待て、口を塞ぐ。なるほど、考えるまでもなく、こいつの口を塞げば最短でリスクを軽減させられるのだった。

(ああっ、やむを得ん! 目を閉じろキカッ!)

 指をデコピンの体勢で目の前にかざしてやると、案の定条件反射的に目をきゅっとつむってしまった。さすがに悪いとは思ったが、そんなキカ子に対して間髪置かず、強行突破の勢いで、ついばむように唇同士を接触させる。互いの鼻先がうっかりぶつけぬようにと、ピンポイントでのヒット・アンド・アウェイ戦法。

 ものの一秒程度に触れ合う、互いの皮膚。キカ子の体温を感じる暇も許さずに俺は距離を置くと、悪寒のような総毛立ちの予感に身震いした。

 どんな魔法でが美貌との身体性を獲得したとしても、唇をひとたび離せば、俺達二人は同じ地平、男同士になる。それが行為のもたらす結果であり、真実であり、本質。

 全力で両目をつむったままのキカ子の顔を、再び茫然と拝んでいた俺。知らず、口はぽかんとしている。

 思い出したように瞼を見開くと、キカ子は羽織ったジャージの上から、両の乳房を揉みしだいて見せた。何だかプルプルたぷたぷとした重量物が、何ら支えなしにその下で蠢いているのが目に見えて把握できた。デカい。

 などと、エロティシズム溢れる情景を冷静に状況分析している場合ではない。

(――も、戻ってないよおぉ!!)

 うろたえかけたところを慌てて取り繕ったが、大体胸とかそんな問題じゃない。髪の毛、瞳、全身くまなく観察しても全くその兆候なし。儀式を経ても、前回のような効果を現していない。こんな緊急事態なのに、何故だ。

(ふえぇ……でっ、でもでも、チューして戻んないのおかしいよ! もう一生このままの姿でいなくちゃならないのかな? うちのハハになんて説明すれば!? サナギちゃんずっと機嫌悪いまんまだよ!?)

(だから落ちつ――)

(それに完全に退路断たれちゃってるのにどうしよ!? やっぱりわたしのせいだ、あの人達不良だったらケータが喧嘩しちゃう――)

(いいから落ち着け! 喧嘩も怪我もしないし、今生の別れみたいな顔すんな! 連中に見つかったところで別にゲームオーバーじゃな――)

(――ああぁ、どどどどどうしよう! そだ、服脱いでそれでロープつくって、全裸でフェンスから三階に降りるのが華麗なる頭脳プレイ的脱出劇なのかしら!? かしら!?)

(って、おい貴様、何トチ狂った独創性溢れるアイディア披露しはじめてんだコラ、その精神的余裕他に有効活用しやがれよコラ)

 思わずこいつのノリに突っ込みを入れてしまっていたが、キカ子のテンションは明らかにおかしい。普段はこんなに口先が滑らかな奴じゃないし、深刻でテンパっているのかギャグで道化を装っているのか判断がつかないような素振り。

(――――じゃなくって、下が無理なら上ッ! そう、逆転の発想! わたしはどうなってもいいから、せめてケータだけでもこう……映画のスーパーヒーローみたいに空高く飛んで逃げられたらいいのにッ!)


「だから話を聞――――けぅううううわぁああああああああぁわわあぁぁぁぁッ!!!」

「……うう、ごめんなさいケータ。元はもう一度女の子になりたいだなんて願ったわたしの責任なんだもの――――――って、あら?」


 そんなキカ子の台詞も、秒速で我が聴覚の及ぶ範囲から離脱してしまった。

 こいつは、果たしてコンマ何ミリ秒下での現象だったろうか。

 俺は、動物界後生動物亜界脊索動物門羊膜亜門哺乳綱真獣亜綱正獣下綱霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒト上科ヒト科ヒト下科ホモ属サピエンス種サピエンス亜種に属する俺は。

 ――空中にいた、何故か。


「――――――ぁぁあああああぁぁぁ――――」


 遥か眼下に見える屋上の地面、その上空彼方に、まるで釣り上げられるかのようなもの凄い力で浮き上がったのは、俺。

 飛んだ、跳んだ、翔んだ。どれも形容として相応しくない。俺は鳥でも鳥人間でも未確認飛翔物体でもなけりゃ、こんな状況下において実装されてもいない飛行行為をわざわざ学校の上空でお披露目するようなお目出度い思考回路なんて持ち合わせちゃいない。

 指数関数的に高度を伸ばし上昇する我が身体は、気流を切り裂く感触を一身に感じていた。ああ、そうだ、もう少し適切な形容があった。のだ。筒から大空高く打ち上げられた、人間大砲の弾丸。古めかしいサーカスの出し物で見たような、あれだ。そうだとして、この弾道は……。

 放物線。万有引力。空気抵抗。自由落下運動。


「――――ちょぉぅわああああああぁぁぁぁッッ――――」


 俺の身体を取り巻くベクトルが緩やかに逆向きになったのを感じ、制服がなけなしの浮力と引き換えに受けた空気抵抗でバタつく音を聞いて、両足が重力を掴み損ねた時特有のあの凶悪なまでに不安な味を全身で実感し、体温が冷え切って唇の痺れに怯えながら。

 俺は、視界の白化に深く溺れていった。


「ケーーーータァーーーッ!!」


 風の音を裂くように、キカの絶叫が聞こえてくる。今までに耳にした事もなかったような、絶望と悲壮とで混濁したあいつの叫び声に、心臓を鷲掴みにされるような感覚に苛まれてしまう。

 消えゆきそうな意識、薄目に視界に入った最後のものは、淡い緑色に塗装された屋上のフェンスだった。金属の枠に、格子状に編まれた太い針金を張り巡らす事で、屋上からの落下を未然に防ぐために設置されたもの。

 それが、何故か急激に像を歪ませた。矩形に組まれた鉄製の枠がぐにゃりと持ち上がり、コンクリートの床面に打ち込まれた土台がボルトを弾け飛ばし外れて、針金の格子が解かれては編み直されてゆく。複雑な金属の構造物が、まるで早回しに姿態を変え生長する植物の映像のごとく変化を遂げる瞬間を、確かに俺の意識が捉えていた。

 編み直されたフェンスは落下する俺の全身をくるむと、絡み巻き付いて絞め、バネのように柔軟にしなって、落下エネルギーを相殺する。軌道は屋上区画から逸れて、グラウンドの方へ。

 濃淡もまばらな地上の土の地面が瞬く間の速度で視界に広がる、フェンスで繋がれる事で、死の恐怖心が先程以上に増す事はない。

 俺は、金属で全身を絡め取られる事によって重力と苦痛と生の実感とを得て、徐々にだが白暈けた意識を鮮明にしてゆく。


「ケーーータ!? ケータッ!」


 さながらしなる竹のごとく跳ね上がる、フェンスだった金属集合体。それに包まったままの俺は、校舎一階あたりから屋上まで再び引き戻されると、絡みついた針金は解け、そのまま硬いコンクリートの地面に落ちて転がった。見事に尻から着地し、上げかけた鈍い呻き声は、肺から漏れる空気で押し潰される。


「わっ、ケータ! 大丈夫!? 何が起きたの、これ……」


 大丈夫なのか、自分自身でも正直判断できなかった。硬くてザラついたコンクリートの地面に這いつくばったまま苦痛に呻き、乱れきった呼吸と血液の循環機能とが正常化する猶予を探るも、迫る危機は未だついえていない現実を思い出す。屋上への来訪者――三人の男子生徒達が、俺達をその視界に捉えていたのだ。

 あんな異常に目立つ行動を取って、更にあれ程大声を出せば、見付かって当然だった。


「……あ……」


 俺の無事に安堵する暇を損ね、絶句の表情を浮かび上がらせるキカ子。そのすぐ背後に茫然と立ち尽くす彼らの前で、常識的に考えて不自然な振る舞いを繰り広げてしまった俺達は、さて常識的な彼らを前にどう取り繕うべきか。

 そこに思考が傾きかけたものの、すぐさまそれは意味を成さなくなった。


「……ねえ、この人達の目付き……何だか普通じゃないよ」


 屋上に潜んでいた俺達をまんまと見付けてくれた彼らは、おそらく当校の下級生達だ。顔ぶれに見覚えはないが、校章のカラーリングがそれを証明している。

 そしてキカ子の言うように、彼らの表情はこちらの身構えていたものとは異なっていた。

 それは、冷静、としか形容できなかった。驚愕でもなければ、困惑するでもなく、あるいは嘲笑や悪意の片鱗すらも見えない。意味不明な現象に巻き込まれて空を飛んだ俺の姿を彼らも見ていたはずだし、その直後生き物みたいに蠢いたフェンスが俺を救ったその場にいたじゃないか。

 なのに、それら出来事を前にしても、何ら反応を示さない三人。理屈なんてわからない。キカの性別が覆ってから、わからない事だらけのさなかに俺達はいるのだ。


「そろそろ教室に戻りたいので、どいてもらえないか」


 わざと大きな声で語りかけてみる。

 下級生達は、じりとこちらに間合いを詰めてきた。彼らは壊れたロボットよりも、血の通ったゾンビと説明するのが相応しい動き。呼びかけへの反応はヒトの言葉でなく動作で、という素敵に糞ったれた展開だ。


「まさか、まだタチの悪い夢のまま、って事か」


 さあ、どうする。パニック映画じみたシチュエーション。俺達の目の前にぶら下げられた選択肢は、映画のさなかであれば、武器を手に戦い、自ら進むべき未来を勝ち取るという王道的突破方もあり得るだろう。

 だが、現実に目を向けよう。下級生をこの手にかける意味。三対二――いや、キカ子は戦力外として、三対一と計算してもいい。素手の喧嘩で勝てるのか? 自分の能力は状況に見合っているのか? 体格差は? 相手をこの拳で殴ったら、俺達と彼らを取り巻く人生はどうなってしまう?

 そもそも、彼らはなのか。それを確認するための対話行為は済んだのか。それができないのからと言って、敵として認識して構わないのか。そのように世の中はつくられていない、と今更ながら自分の中で再認識する。

 俺達が取る事が可能な、最善かつ最低リスク、最小コストの選択肢とは――


「――逃げるぞ、キカ……」

「え、えっ……でも、どうやって……」


 そう、逃げるのが最も理想的な選択肢だ。


「大丈夫だ、あいつらの足は遅い。返事もない……たぶん屍か何かだ」

「えっ!? みんな死んでるの!? そんな……なんてひどいことに……」


 まあ、そこはあえて無視する。問題は、ここからの脱出路は当然ながらドア一つだけという点。当然、その障害となる三人組の包囲網を正面突破し脱出せよ、というミッションになる。


「……比喩だ。それよりキカ、さっきのすげー飛んじまう奴、もう一度できるか?」

「ええっ、あれ、わたしがやったんじゃないよ!? 確かにあの時は飛んで逃げられたらって祈ったけど、ほんとにやったらケータの危険が危なすぎるよっ!」


 先程死にかけた俺への気遣いからの言葉だろう。俺達に降りかかっている超常現象は、こちらできちんと手綱を握られているわけじゃない、って理屈なのか。


「――わかった。じゃあ……」


 講じられそうな策は少ない。精々相手の目を誤魔化して時間稼ぎをする程度だ。相手の足の遅さも利用して。


「言うとおりにしてくれ、キカ。お前は左の二人の間を走って抜けろ。ドアまで全力だ。俺は右の方から行く。先に俺が行くから、時間差で様子を見てお前も来い」

「ええっ、無茶だよ、わたし捕まっちゃう……」


 俺の言葉に、キカ子はやたらと不安げな表情を返す。整っていたはずのその黒髪は風に煽られてやや乱れており、やつれて顔色もあまりよくない。


「大丈夫だ、任せろ、ちゃんとフォローするから。喧嘩はからっきしだが、逃げ足だけなら得意なんだ」


 クラシックなヒロイズムの観点から見てあまり胸を張れたものでもないが、今に生きる俺自身としては、だからこそ胸を張れる台詞だと思って、そう言ってやった。何としても元の平穏な俺達の日常に戻らなくては、と意志を強く固めて。


「連中の注意を分散する。行くぞ!」

「ちょ、ちょっとぉ!?」


 上履きの足に馴染んだゴムの感触が、粒子の粗いコンクリートの地面をグッと捉える。

 弾け飛ぶバネの瞬発力を想起させるかのような、予想外に力強いスタートダッシュ。達成されたそれが精神を昂ぶらせると、両脚の筋をほとばしらせ、蹴って、上半身を前方へと押し上げて運ぶ。

 眼前に立ち尽くす下級生達の姿。虚ろな顔の表情に未だ変化はなく、しかしそのうち距離の近い二人に、反射的動作の兆候が浮かんだ。

 まるで木偶人形よろしくの、ピアノ線で引かれるたどたどしい動きで、俺の軌道線上に立ち塞がろうとしている。相手の動きが緩慢なお陰で一目瞭然だ。


「――キカッ!」


 合図代わりに叫んでやる。うしろを振り返っている余裕なんてないが、きっと意図を汲み取ってくれるものと信じて。

 靴底を地面に打ち付け、摩擦を捉えると脚を前へ前へと運び、その一連の動作を数度繰り返す。ほんの一瞬の事なのに、時間の流れがやけに緩やかで、不思議と冷静だった。

 対する三人組は、それこそゾンビめいた手付きで、俺の四肢を掴み自由を奪おうと、こちら目がけて一斉に迫りつつある。

 意表を突いて速度を緩めると、半身が余した勢いを追い風に、俺は低く腰を落とした。そのまま地面に両手を付いて、獣の姿勢で奴らの探る手を寸前にかいくぐってやる。案の定、彼らの反射神経は鈍く緩やかなもので、抑え込もうと俺に向けて伸ばされた腕は、空を切る他ない。

 包囲する二人の間を突破すると、屋上塔屋のドアに肩からぶち当たって、怯まずノブに両手をかけ力任せに引いた。重たい。金属が疲れた摩擦に軋んで、開くものかというしぶとさを、しかし勢いだけでねじ伏せてやる。

 そこで溜め込んだ力を一気に吐き出すと、ザラついた鉄を嘗めるような舌の感触にたじろぎつつ、呼吸絶え絶えにキカ子の姿を探した。


「……キカ!?」


 キカ子は、その場に立ち尽くしたままだった。そう、最初の位置に。


「おい、どうしたキカッ!? はやく逃げ――」


 思わず大声で叫んでいた。それに呼応したのか、こちらが注意を引き付けていたはずの三人組が一斉にキカ子の方へと振り返ってしまう。

 対するキカ子は、俯いたまま、茫然と。黒い前髪が影を落とし、その表情はこちら側からはうかがえない。

 ――まずった。連中はただの操り人形のように見えて、実はこちらの言葉を知覚していたのだ。読解力の程度は知るよしもないけれど、そもそも彼らは単なる人間だ、こちらの意図を理解する身体機能くらいはじめから備わっている。


「キカッ! どうした、はやく!」


 じりじりと足を引きずるように、彼へと迫りはじめる三人組。

 こちらの呼びかけに反応してか、キカはようやく顔を上げる。そこに浮かび上がったもの見て、俺はどきりとした。


「ケータ。よく考えたら、こんなのおかしいよね」


 確信めいた顔付きを向ける。


「な、何がだ! 早く逃げないとそいつらに襲われ――」

「――襲われる理由がの」


 言いながら、自ら三人組の方へとずかずか歩き出してしまった。無防備にも程がある。


「だって、考えてみたら、さっきからぜんぶ、ぜんぶ理不尽なんだもん!」

「キカ、お前……」


 怒っていた。キカが、あのゆるゆるほんわか脳男子の日月キカが、そこはかとなく怒っている。


「ガラのよくないひとたちにちょっかい出されるのなら経験あるけど、あなたたちは、何ですか? 要件は? バンパイヤごっこのつぎはアンデッドごっこですか? できすぎでしょう!」


 三人組の至近距離まで歩み寄ると、なんと腰に手を当てて人差し指まで突き付けて、


「――ていうか、君らわたしの、ナニ?」


 徐々に辛辣なものへと変わってゆく彼女の口調が頂点に達し、ついに逆切れめいたヒステリーの色を帯びた。

 連中を見据える紅玉の眼差しがきゅっとすぼめられ、威嚇の信号を灯す。心なしかその華奢な肩すら震わせている様に見える。

 そんな見た事もない彼女の姿に、俺は困惑と動揺とで、ここで死守すべき冷静さが吹き飛んでしまった。

 いや、確かにキカ子の主張はもっともなものだ。こうなる予兆や伏線みたいなものなど、今までに踏んだ覚えもない。彼女が口にしたように、例えばカツアゲの不良どもにでも絡まれる状況の方が、理屈だけなら今よりよっぽど通っているのかもしれない。


「いや、お前の言いたい事はわかるけど、その自信の根拠は何なんだよ!」


 三人組は、俺達二人のやり取りに気とその行方に取られているようにも見え、不思議と微動だにしない。


「ないよっ! わたし、めんどくさくなってきたもん! なんかさっきからダルいしっ!」

「お前、この場に及んで、なんでそうなる!?」


 キカ子が今度は拗ねはじめた。儀式を拒んだり突然怒りはじめたりと、屋上に来てから不自然にムラのある彼女の態度の変化は、さすがに見過ごせない。絶対こいつ、何かある。


「だってこのひとたち、さっきから動いてないよ? わたしがちょっと変わってるから、調べにきたとかじゃないの?」

「じゃあ、そのために誰かが三人を操ってる、って言いたいのか?」


 第三者の存在。キカ子への変身を機に起こりはじめた一連の異変に、俺とキカ、坂薙以外の何者かが関わっている。そんな、考え得る予測。


「わかんない。それよりわたし……やっぱりなんかダルいしおなか痛い。ここ来てからなんか体調おかしいしイライラしてくるし。仮病じゃなく本気で保健室行くっ」


 などとのたまうキカ子は、ど真ん中から堂々と三人組をシカトして通り抜けてゆく。彼女の言い方までどことなくふてぶてしいが、本当に体調がすぐれないのだろうか。

 と、それまで静観を決め込んでいた三人組の様子が変わった。


「え……」「お?」「なんぞ」


 口々に間延びした声を発すると、今まで抜け落ちていたはずの表情を唐突に取り戻した。

 豆鉄砲で眉間を撃ち抜かれたようなだらしない目付きのままだった三人は、素知らぬ顔の大股歩きで目の前を横切ってゆくキカ子の姿を捉えた瞬間、急変する。


「あー、ってか、ちょっとぉ! 待てよ、誰だよてめッ!」


 一人目の小柄な方が吐いたその台詞が、後半に向かうにつれ露骨に怒気を帯びるのがこちらにも伝わってきた。

 小柄な奴が背後から割って入ると、キカ子の肩を鷲掴んで強引に振り返らせてしまった。


「てめーがキッカワか? オレらを屋上に呼び出しといて、なんもナシかよ!」


 聞き間違えでなければ、今、確かに彼は『キッカワ』という名前を口にした。そんなの、俺が咄嗟に使った嘘だったはずだ。今朝の一悶着が脳裏をよぎるが、いかに校内とは言え、信じがたい伝搬の早さだろう。

 キカと方は、何故か相手に抵抗する素振りを見せていない。疲弊したように瞼を閉じると、そのまま地面へと顔を落とす。挑発に動じず、かと言って目を合わせようともせず。

 思わずハッとしてしまった。問題が変質していたのだ。目の前で引き起こされていた非現実的な脅威が、いつの間にかリアルな喧嘩のシチュエーションへとすげ替えられている。


「無視かよ。てめえ、散々オレのダチの悪口言いふらしといて、リアルじゃビビって話も満足にできません、ってか?」


 奴は語気を荒らげると、乱暴にキカ子の肩を揺すりはじめる。

 キカ子の真っ黒な前髪が揺れなびいて、その隙間から漏れ出た、下弦の赤い瞳。それが描く表情は、痛烈に何かを思い起こさせて、その瞬間、俺の心臓は一刺しに抉られた。おぞましくも鮮やかに美しい血の色味が、キカの心象を殊更に強く発露させている。


「……なあ、おい落ち付けよって、この人センパイじゃねーの……」

「んなの学年とか関係ねえし。ヒトとしてのコミュ力の問題だろ!」


 隣の奴からの耳打ちの声に、小柄は怯む事なく言い放った。

 手汗の滲んだ拳を握り固めて、胸に抱いている何かの強さを確かめる。俺は何故まだ動いていなかったのだろう。胸の内に沸き起こっていたこれは、怒りの感情だ。

 自分がこの場に立ち止まっていた事を思い出し、コンクリートに縫い付けられたように重たい靴底を引き剥がすと、キカ子を守るために飛び出した。


「――――そこのお前ら、ちょっと待った! 寄ってたかって何やってんだよ!!」


 グラウンドまで届かぬばかりの大声を張り上げ、策もなしに三人組に向かい突進する。

 しかし、無闇に駆け出した第七歩目にして、奮い立たせた我が戦意は呆気なく崩れ去る結果となった。

 キカ子の肩を掴んでいた小柄な奴が、ついにしびれを切らせて彼女の胸ぐらを掴むと、顔を近付けてジッと睨め付けた。途端、小柄の目が戦意が吹き飛んだような色を帯びて、自然にキカ子の胸元へと下がって行ってから、驚愕の色で塗り替えられたのちに、再度視線を合わせる。

 と、互いの視線が重なった瞬間、小柄の方が急に表情をわななかせ、何かをもよおしたのか全身を震わせる。キカ子の赤い瞳そのものが、光を放ったように見えた。

 直後。弾け飛ぶスパークにも似た、閃光と音と。


「――――!? キカ……何が起きた!?」


 それは、さながら感電のようにも思えた。三人一様にぐらり揺らぐと、示し合わせたようにその場に崩れ落ちてしまった。連中が以前の操り人形に戻され、かけられた糸がすぐに断ち切られた様を、ふと連想してしまう。


「……死んだ……のか?」


 決死のタイミングも霧散してしまい、無意味な疾走の勢いを踵でゆっくりと殺してゆく。

 一方、倒れた三人組は寝言のように無様な呻き声を口々に上げ、ダメージの浅さを本人望まずにも主張していた。キカ子は、それに素知らぬ振りを決め込みつつ、乱れたジャージの胸元ばかり気にしていた。


「キカ、お前……今、こいつらに何かやった……のか」

「…………うん。今のは、わたしがやった。かも」

「かも、って……お前、そんないい加減な」


 感電。電撃。超能力。魔法。いいや、この際呼び名なんてどうだっていい。日月キカに隠されていた特殊能力は、肉体的性別の転換以外にもあったのだ。今の電撃や俺自身が喰らった人間ロケット現象に、蠢くフェンス。そう仮定して問題なさそうだ。


「だって、じぶんの思い通りじゃないもん。コントロールできる実感ない。今日はなんだか気持ちも全然コントロールできなくて。ずっともやもやしてて」


 言いながら、突然額を押さえしゃがみ込んでしまう。


「……もやもやがイライラに変わっていって」

「おい……やっぱり具合が悪いのか?」

「うん。このからだもまだうまくコントロールできてないわ。だからなのか、そこのひとたちに怒れてきちゃって」


 そう言って見せたのは疲れ切った表情だったが、微笑混じりで少し安心させられる。


「ムカってきて、集めたイライラをぶつけてやろって。わたし、そんなイメージを頭の中で描いたわ。おまえら黙れって、わたしそんな乱暴に考えちゃった」


 力なく折れた肘のまんま、ダブついた袖口からかわいらしいグーをのぞかせ、振り上げる拳をアピールする。


「そうしたら、こうなった、と」


 地面の上で気絶したままの連中を一瞥すると、キカ子は首肯で返す。気分は落ち着いているようだが、そこに浮かぶ顔付きは気怠げで、やや重い。

 彼女への心配の一心で、俺は無自覚に手を伸ばしてしまい、慌ててそれを引っ込めた。こいつ、まだ女のままだったのだ。俺自身もずっと混乱しっぱなしだった。


「そうだ。お前、保健室に行きたいんだろ? 急がないと休み時間に入っちまう」


 休憩時間に入れば、校内でキカ子を追う人間の視線だって増える。穏便に保健室へと忍び込むなら、今の機会を利用するしかない。


「……ううん、いい。だいじょうぶ。だから――――ここでキス、して?」


 躊躇いなく、自然に混ぜ合わされた強烈な言葉。

 それは、まごう事ない、目の前で俺の視線を真っ向から捉えるこいつ――キカ子の唇から突き付けられたものだった。


「いっかいめは失敗だったけど、今度は……ちゃんとやればだいじょうぶ」

「ちゃ、ちゃんと……って、なにを、どうなんだよ……」

「儀式は、気持ちを込める、だよ? ねがえば、かなう」

「……は? え……気持ち……込める、って……」

「あははは…………それは、なんとなくの冗談」

「冗談、じゃな済まないぞキカ! だってさ……」


 囁くように鼓膜に届けられるキカ子の声。その狭間を縫い宙を泳ぎ続けている二つの瞳は、彼女ではない、俺自身のものだ。

 本音を言うと、こいつにはまともに目すら合わせられなかった。日月キカ。俺の男友達だったもの。男友達、は消えない。消せない。


「……だって、男同士……だろ、お互いに」


 言葉にしないつもりでいたのに、ついそう口に出してしまった。スイッチを入れると、変容を遂げる概念。男友達という属性ばかり引きずったまま、心かき乱す存在へと変わってしまう。存在そのものが矛盾。


「…………ケータのボクネンジン」


 キカは淡い唇をムッとつぐんでから、わざとらしくドスの利かせた声でぼやいた。ドキッとさせられ、俺は思わずその視線を受け止めてしまう。キカの顔をした彼女が、キカと違う目の色で、ジッと俺を見つめている。


「――――なんてね、えへへ……これはサナギちゃんのまね」


 俺の吐き捨てた困惑まみれの台詞を、しかしキカ子はくすりと微笑みで受け流してくれる。今の低い声は、坂薙の真似のつもりだったのだろう。

 一体、何なのだろう、これは。むず痒さ、えも言われぬ浮遊感。気持ち悪い? 何だろう。何なんだろう。


「阿呆。保健室、いいのかよお前。さっきまで体調が悪い、腹、痛いって」

「それもだいじょぶ。たぶん。儀式が済んだら、どうせどうでもよくなる問題だもの」


 そう言いながら、キカ子は瞼の帳をやや落として、自分から俺の顔に迫ってきた。


「ねえケータ……お願い。仰向けになって。今度はわたしが、上から……。ケータがわたしのからだを怖がらなくて済むように、落ち着いて儀式を終えられるように」


 拒む理由はない。受け入れねばならぬ現実こそが我が目の前に吊るされている。彼女の醸し出した異様な空気に、言われるがままに。

 屋上の堅いコンクリートの地面。風雨にあてられ黒ずんだそれに寝転がると、散らばる石ころのザラつきを後頭部に感じながらも、俺は空を仰ぎ見た。

 中秋の大気は、彼方まで遠く澄み渡っていた。群青と白く煙る雲とが断絶させた色相。その鮮烈なフレームに、逆行を浴びた、黒い日月キカの姿が被る。

 髪の艶やかな房がこぼれて垂れ、額と頬とを撫でてゆくのが心地いい。髪の毛が鼻先をくすぐる程度であれば、不思議とあの異性に向けられた嫌悪感も沸き起こらなかった。


「……………………ケータ」


 赤黒い二つの瞳が想起させるのは、美か怖気かの境界線。それすらも今は暈かされている。俺の半分だけ知っていて半分だけ知らない、黒髪のキカ。

 彼女から俺に迫った。互いの肌が触れないよう、彼女は仰向けな俺の上をゆっくりと這うと、幼い獣同士がじゃれてついばむように唇が噛み、そして深く合わさってゆく。

 この長くも短い一瞬だけでも、それが、彼女、なのだと思い込もうとしていた。どうせこんなに胸をザワつかせる感傷も、生々しい感触も、再び意識が戻ればかき消えるようにして覚めてしまう、ただ一時垣間見る事ができた幻想みたいなものだ。

 だから、これは俺には関係のない事。単なる儀式めいた行為。

 目を閉じて、彼女の姿を意識から消してしまった。


   * * * * *


 再び目を覚ますと、俺は保健室でひとしきり眠りこけたあとだった。

 周りにいたのは養護教諭一人だけ。キカと坂薙はまだ午後の授業中らしく、全部元通りに収まったようで、ようやくこちらも安堵する。

 俺が屋上で体験したのは、にわかに信じがたい出来事の数々だった。ただ、その事を今の俺達にどうこうできるわけでもない現実も同時に思い知らされた。

 屋上での一件を坂薙に話したものの、結局はお互いの思考可能な許容量を逸脱してしまい、そのままギブアップ。

 一連の騒動において唯一の収穫と言えば、彼女と気楽に連絡を取り合える関係になれた事くらいだろうか。

 それもまた、前進。

 なけなしの希望を胸に、ただ目を閉じ、今はただ明日の到来に我が身を委ねた。

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