第13話

 鋼鉄製の、重たいドア。ところどころ乳白色の剥げた塗装に風化と浸食の趣を残したそれの、鈍色のノブを手に回してみる。がちゃがちゃと、右に左に数度。

 どうにも手ごたえのなさに首をひねった瞬間、ねじ切れるような厭な音とともに錠が外れ、押し開けると屋上の青い空が視界に広がった。


「「あ……」」


 運良く鍵が開いたはいいが、ドアノブが内部構造的に非常にまずい有様に――要するにお亡くなりになったらしい。無茶を通したとも言える。


「わ、わたしのせいだから! ケータ悪くないよ」

「……当たり前だ。無理だろって言ったのにがちゃがちゃ回したの、お前だもんな」

「そうそう、そうなの……って、ひどい! ケータ、あんまフォローない!」


 そう怒りつつも、キカ子は我先にと屋上のコンクリートを上履きで踏み付け、外へと駆け出してしまう。


「んもう! ケータてば、なんか最近サナギちゃんに似てきたぁ」


 などと、振り向きざまに頬を膨らませる。

 勿論、最初はこいつの違和感に勝てなくて、どう接していいのか掴めなかった時期だってあった。元々実年齢の割に、無邪気過ぎるくらいに子供じみた振る舞いの奴だったけれど、何だかよくわからないながらもそういう成分でできているものなのだと、時間とともに自然に納得させられていて。

 そんな中で、今まさにの属性をも体現してしまっていた。

 この感覚は、一体何なのだろう。もの凄く複雑だったものが、一つだけ、それも最も大きな矛盾を排除した事で、一段階わかりやすいベクトルに読み砕かれたような。あるいは別の意味ではより複雑性を帯びたのだと、俺達は心の底からこの境遇を嘆くべきなのか。


「ケータ、早く閉めて」

「お、おう」


 体重を乗せてドアを押し込めると、蝶番の軋んだ金属音を階下に響かせつつ、鉄の蓋が校内への道を閉ざした。

 この学校に入ってはじめて見た屋上の光景は、気分的な空の近さと、どことない浮遊感の不思議がせめぎ合う場所のよう。雨打たれてあずき色にくすんだ床面はところどころ朽ちて、ひび入ったコンクリートが剥がれ、隆起し、平らの大地をわずかに波打たせている。錆の浮くフェンスの地平を超えた空は群青に乾いて、煤けたように溶けた薄い雲が風に流されてゆく。

 先行して教室に戻った坂薙からのメールで、しばらく保健室に潜伏する事になった俺達二人。もっともそれは対外的な口実で、本来的な目的は、他人の目がない今のうちにキカ子を元の姿へと戻す事にあった。

 元々この学校の屋上は生徒達に開放されておらず、今更考えてみれば錠が外れたのも一種の奇跡だったのだけれども、それすらこいつがこうなっている現実の前には、ただただ些細な出来事だ。

 日月キカは、今やどこから見ても少女だ。服装が記憶に馴染んだ男のもののままであっても。それをあらためて目の前にして、俺の持ちうるリテラシーらしきものの錯乱は隠しきれない。


「――さあ、あまりのんびりしているとみんなにも怪しまれる。やるぞキカ」


 フェンスの前に突っ立ったまま、眼下のグラウンドをぼうっと見下ろしているキカ子。その傍らに並ぶと、俺はさっさとこの状況に終止符を打つ事にする。


「え……なんなの? ここで何かするの?」


 かくん、と小首を傾げて見せる。恐ろしい事に、本来のこいつの姿であれば不思議な仕草で済んでいたものを、今の状況でやらかされると妙な趣が発露し、こちらまで望まぬ情動を覚えてしまう。端的に言うなら、かわいい、と感想を抱いてしまったとしても、今なら何ら障害がなくなっているのだから。

 でもタチが悪い事に、一番こいつがヤバいのは、からなんだ。キスをする、たったそれだけの行為で、夢や幻想としてかき消えてしまう彼女。日月キカの正体が実は正真正銘の美少女でした、なんていう一方通行のファンタジー展開でさえあれば、対処に困りはしても、俺自身の感情がここまで悩まされる事はなかったのかもしれないのだから。


「いや、何って。だからええと……そう、儀式、というか。うん、儀式だ」


 そう、これは儀式だ。キカを少女に変えた魔法を解く術を、遠回しに表現して異なる意味付けをしてやる。それが後々お互いのためになるだろうから。


「ぎしき……。あっ、ひょっとして……あの事?」


 脳裏をよぎった疑問符も一時のもので、こちらの意図はすぐに通じたようだ。

 こいつがいくら鈍感だからと言って、あれの――口付ける行為の衝撃は、一時も忘れ得ぬものなのだろう。それは、行為の相手が事もあろうに同性の俺だったという罰ゲームじみた現実に対してなのか、それとも女性に変わるという一時の幻想から覚まされた結末に向けられたものなのかは、本人のみぞ知る秘密なのだろうけれども。


「ああ。さっさと戻るんだ、元のお前に」


 意味を悟ったのか、キカ子顔を俯かせる。困惑の表情がそこに浮かび上がるのが傍目にもわかる。諦念か覚悟からのものか、口を閉ざしたままジッとその場から動こうとしない。

 それを同意の意志表示と受け取った俺は、ややぎこちない挙動になりながらも、なるだけ近くへと迫ってゆく。正直な話、キスなんて慣れていない。元から異性との恋愛には困難が伴うこの体質だ。


「お、おい……こっち」


 俯いたまま床に視線を落とす彼に、俺は上を向いてほしいと言いたかった。そうだ、こいつは今はだ、そう思え。

 すると、こちらの言葉の意図を察してくれたのか、キカ子はやっと顎を上げてくれる。

 その表情には、例えば困惑だとか、羞恥心だとか、そういう予想していたものとはかなり質の違うものが張り付いていた。寧ろ引きつった面でも見せてくれた方が、内心穏やかでいられたのに。


「――ねえ、ケータ。その前に、ひとつ教えてほしいの」

「なん……だよ」

「さっきの……姫カットの女のひと。知ってるの? ケータはあのひとと何かあった?」


 唐突に投げかけられる、核心に触れるような言葉。キカ子の視線はジッと俺の目を見据え、質問に強い意志が込められている事を暗に主張している。


「ヒメ……何? 九重先輩の事か?」


 キカ子は黙って頷いた。姫カットというのは、九重先輩のあの髪型を指しているらしい。確かに、ぱっつんな髪の切り揃え方からして、古の姫君か巫女さんっぽい印象だ。


「まあ、な。知ってると言えば、確かに知ってる。話せば長くなる……ほどでもないか。そんな大したもんじゃない」

「それ、言いにくい事かな? でなければ、わたし……事情を知りたい」


 きゅっと両手を組んで、祈るように懇願されてしまった。


「いいけど、そんなの聞いてどうするんだよ」

「知りたいからだよ。ケータ自身の……今のケータの成り立ちに関係がありそうな、なんだか胸騒ぎみたいな予感がするの」


 キカ子の勘だと言うのなら、それは当たっていた。でも何故だろう。それをこいつに話す事に別段障害はないけれど、そこまでの熱意を何が呼んだのか。そこにこちらの関心が引き込まれてゆく。


「まあ、それほど面白い話じゃないよ。あれは一年の今頃の話で――――」


 視線をグラウンドの方に傾けると、俺はどうにか要領を得るようにと、あの時の話を思い出しはじめた。


 それは、俺――佐村啓太が一年生の頃の出来事。

 学校生活へと足を踏み入れて、季節は瞬く間に巡り、夏になって。退屈で刺激の薄い日常に慣らされた俺は、友人達との戯れで『クリスマス・イブまでに自分達の恋に終止符を打つ』というゲームに参加する羽目となった。

 そのゲーム自体は、恋愛とは縁遠い男同士での慰め合いからはじまったものだ。当時の友人達は、例えばクラスメートや上級生、あるいは別の学校に通う幼馴染みに告白して、多くは玉砕し、またごくわずかな者だけ勝利の糸をその指先にくくりつける事に成功した。

 各々が選んだ相手は、多くは元から自身が恋愛感情を抱いていた意中の娘だったが、そんな異性など思い付きもしない一部のあぶれ者どもに対しては、仲間達の重ねたくだらない議論によって、適切な候補者を当て込まれた。

 そして、この俺に割り当てられた生け贄の山羊は――そう、何故か坂薙鈴乃だった。

 当時別クラス同士だった俺は坂薙の存在など露知らず、あの時はこんなゲームなんてよっぽど降りようと思っていた。よくわからない女子に告白するくらいなら、約束なんて反故にしても構わない程度の、友情の結束だったのだから。

 季節は夏から秋へと変わり。俺は、見知らぬ坂薙という女子への告白から逃げ惑うさなか、ふととある上級生と出会う事になる。

 それが当時の生徒会長だった、二年の九重先輩。俺は、九重先輩の顔がすごく好みだった。恋愛感情なんてまだまだよくわからなかったけれど、ただ彼女がとても綺麗で可愛らしい女性だったからと、夏休みからの不思議な空気と追い風に勢いづいてしまって。

 で、九重先輩に告白した。そうする事で、どうにも落ち着かなかった日常が全て丸く収まると思った。

 顔が好きなので、これからは貴方の内面が知りたい、だから俺の恋人になって下さい。告白の台詞はそんな感じだったように覚えている。

 九重先輩から返事よりも先に、拳で思いっきり殴り飛ばされていた。地に伏した俺は、次いで凍えるような眼差しを浴びせられて。別れの言葉は『男の子と付き合ってる』。九重先輩には既に恋人がいたらしい。

 それがあまりにもショックで、俺は三日三晩寝込んだ。立ち直れなかった。学校も休んだ。ぶたれた頬の痛みが引かなくて、やがて捉えどころのない恐怖心が形を変え、おかしな痺れを伴うようになった。それが、このケータの女性恐怖症のはじまり。

 正直、あとで思えば、俺もてんで失礼な男だった。今もあの人の内心なんて汲みようもないけれど、九重先輩はその印象以上に純粋で真面目な人だったのかもしれない。

 恋愛ゲームも、九重先輩との失恋もそこでキッパリと終わって、あの痺れだけが今も延々と尾を引いている。今現在も、異性に触れるのを、心が許しても肉体側が強い拒絶反応を示してしまう。

 俺に巻き起こっていたのは、そんな話。

 最後まで、キカ子は黙ってこちらの話に耳を傾けていた。


「――――と言う事で。じゃあ、元の姿になって、とっとと教室に戻ろう」


 手を軽く挙げて、停滞した時間をさっさと進めるよう促した。


「わかったけど……なんかヤだ。あんましたくなくなった」

「……は?」


 こいつ、また予想だにしない事を言い出した。


「さすがに『僕』の方だって傷付くんだ。たとえ大事な理由があっても、そんな簡単に誰かと唇を、その……重ねるだなんて。それも、ケータと、だよ?」


 その言葉遣いや声色自体には、特に皮肉めいたにおいはない。けれどもあえておのれの性を強調してくるあたり、演出がかっていると言うか。そこに何の意図を込められているのか、俺には皆目わからないけど。

 キカ子はそのまま言葉を続ける。


「だからね、責任。いっこだけ条件があるの。ケータに埋め合わせしてもらおう。男同士でチューの罰ゲームとして、今度の土曜日にお買い物につきあってもらおう」


 案外とちっぽけな要求に、俺の中で驚きよりも肩透かしの気持ちが勝った。


「…………奢れ、って? いや、まぁ、その程度の事ならお安いご用だけど」


 言いながら、キカ子のもたれる壁の、ちょうど肩の上あたりに両手を付いて、抵抗しようとしない彼女にゆっくりと迫った。


「でも、お前が自主的に買い物だなんて珍しい。一体何を買うつもりなんだ?」


 今更気付かされたのだが、俺が女の子とキスするのは、なかなか困難を極めるようだ。過去の二回はどうやってうまく成功を遂げられたのか、我ながら謎過ぎる。

 何故かって、今の俺にとって、お相手の肩を抱く事も腰に手を回す事も許されないからだ。互いの鼻っ柱をぶつけないよう、宇宙ステーションとのドッキングミッションめいた精密操作で首の関節を調整するような感覚に、一種悟りの境地みたいな心境で、本質的には野郎同士の接吻である悲劇を一時でも忘れさせてくれる。これはただの作業、って。

 あと不思議な事に、俺の唇は金縛り現象の当たり判定から除外されているらしい。もしくは、唇同士が触れ合った瞬間に、もうキカ子はキカに戻っているから金縛りが起こらないという仕組みだとか。


「――服、だよ」


 服って、どうして今頃になって服なんか。まあいい。さあ、あともう数センチ、ちょっとだけ右に、やや傾けて。爪先立ちの青春にも似た、一世一代のランデブー。この困難さこそが、まさに儀式めいていて。

 その時だ。遠巻きに耳を打つ、鈍い金属音。それは屋上のドアが開け放たれた音だった。

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