第12話
俺達が学校にたどり着いた、その矢先の出来事だった。
坂薙と合流後、運良く誰にも悟られずに校舎内まで入り込めたまではよかった。
昇降口傍の階段の前で、おそらく上級生だろうか、生徒の一団が何やら用紙を配っている光景が目に留める。生徒会執行部達。この一団は生徒会活動の一環なのだろうか。
「……待ちなさい――そこの彼女も」
静かにさえずりの声が投げかけられた。それはどことなく耳に残る、低い女性の声。
瞬間、生徒会執行部の一団の視線が突然こちらへと向けられる。
始業前の校舎内を取り巻く喧騒の音はやや遠くに暈けて、対照的にこの場だけ異様に緊迫した空気に包まれていた。昇降口から続々と現れた登校者達も、この近寄りがたい雰囲気に気圧されたのだろう、困惑して足を止めるか小走りに通り抜けて行ってしまう
と、やけに演出めいた光景が目の前で起こった。生徒会執行部達の一段が左右に割れ、その中心からある見知った人物が俺達の前に姿を現したのだ。
さっきの声の主が一体何者なのか、俺はそこでようやく記憶が噛み合って、戦慄した。
声の主である彼女は、長い黒髪の似合う、小柄で華奢な女子だった。
病的に白く小さな顔付き。その輪郭を黒く削ぎ取るような、切り揃えられた髪の鋭利な線に、ほのかな和の情景を垣間見せられる。そんな一見して童のように幼く映った顔立ちは、鋭い瞳が切れ長の睫毛とともに左右へと走って、聡く理知的に齢を刻んだ猫の表情を醸し出している。
うしろで束ね腰のあたりまで伸ばされた黒く長い髪の毛に、白く透明な表情。そこに穿たれた瞳も白く陶器めいた表層に黒の輝きを映し出している。余り気味の袖からこぼれた指先は細く後ろ髪とのコントラストを描いて、対照的にスカートからさらけ出した脚の白は、太股の境界線まで黒の布地で見事隠蔽しており、一筋のぞく白に視線を奪われる。
制服の彩る臙脂色を忘れれば、さながらモノトーンだけで構成された人工少女にさえ見えた。
俺は彼女の事を知っていた。朧気で、儚げで、どこか虚ろな。どこまで知っているかなどと、それこそ俺自身の奢り以外の何者でもないのかもしれない。けれども、未だ忘れ得ぬ人だったのだ。それは、あの時から。
「――――
キカ子への対処を考えれば、今はこの人に関わっている場合などではなかったのに、思わずその名までもが口からこぼれ出てしまう。
九重ミュウネ。俺の知りうる限りでは、寡黙で物腰穏やかな、常に静謐な空気をまとう女性。三年特進理数のGクラス所属。化学部副部長。前生徒会長。
そして、この俺――佐村啓太の初恋相手、転じて失恋の痛く深い傷を負う結果になった、少々複雑な関係の人だった。
「ね、それ、染めてきた?」
九重先輩は、何故か俺自身に対して、そう問いかけてきた。
「え……はい?」
「キミのうしろ。日月さん。髪の毛、染めてきたの?」
普段から口数が少なく断片的な言い回ししかしない人なので、今ひとつ意図が掴めない。だが、九重先輩の言葉はどうやらキカの髪の毛が黒い事を指しているらしい。先日生徒会執行部に指摘された、キカの髪の毛の一件との関係を蒸し返されているのだろうか。
つまり、九重先輩は面識のないはずの日月キカの容姿を知っており、ぱっと見は容姿が違うはずのキカ子を、何故か日月キカ本人だと認識している。まずい状況だ。
と、俺が怯んでいる間、九重先輩は何の躊躇いもなくゆらりと近付いてきて、背後に縮こまったままのキカ子をジッとのぞき込んだ。
「あの、九重先輩。こいつは――」
「――佐村さんに聞いてない。キミ本人に聞いてる」
ぴしゃりと遮られてしまった。俺の体質的な弱点を知ってか知らずか、彼女はあまりに危う過ぎる距離を取っている。振り向きざまに揺らぐ髪の毛が残した香りにあてられて、俺はついに微塵にも動けなくなってしまっていた。
「あの……元からこんなですけれど、わたしは」
要領を得ない言葉が、九重先輩に詰め寄られたキカ子の喉先から紡がれる。剥き出しの警戒感。トートバッグをきゅっと抱きしめ、必死に胸元を隠している様だけが見て取れる。
それを意に介せず、白く細っこい指先でキカ子の髪の毛の房に触れ、手繰り寄せて、においを嗅ぐように品定めをはじめた。
「ん。――ありゃ、キミ、女の子」
抑揚のない九重先輩の声に、キカ子の肩が露骨に跳ね上がった。女の勘のようなもので嗅ぎ取られでもしたのだろうか、傍らの俺までも、心臓をその手に握られたような悪寒に襲われてしまう。
九重先輩にはキカ子の正体がバレているのだろうか。でなければ、強引にでも誤魔化し通すべきか。どちらにしろ、髪や瞳の色なら何とかなるが、胸はさすがに釈明できない。
と、九重先輩の言葉に、キカ子を庇って黙していた坂薙が恐ろしい剣幕で切り返した。
「言わせてもらいますが、
いつの間にか坂薙が九重先輩のすぐ横に立っていた。彼女の
一方の九重先輩。眠たそうな瞳の目尻だけ細め、横目にチラと坂薙をうかがうのみ。憤る彼女に動じた素振りすら見せない。
二人の女の視線がぶつかり合う。一触即発。だが、こんな緊急事態なのに、俺は無力にもこれを止める術を持たない。彼女らが彼女らであるがために、俺の体質が立ち向かう意志を阻害してしまうからだ。
真相を伝えたところで、俺達以外の部外者に理など通らない。キカを守ろうとする坂薙の憤りも、今まで以上に理解できる。かたや九重先輩の事も、俺自身嫌ってしまったわけではない。今は意図が掴めないのと、何か誤解があるってだけで。
さあ、どうすればいい。どうすれば。
「――九重先輩! こいつは俺の連れの――
開口一番、全力で滑った感に苛まれる俺。果たしてこんなので何の説明がつくのか。
くそう、どうにでもなってしまえ。言葉を繋げ。凍てつき折れそうな意志をはやし立てて、この空気を打破すべく、力技で状況の捏造を試みろ。
「きっか、さん……へえ。見ない顔。今度来るって聞いてた転入組の子かしら」
「佐村、お前……そんな余計な――」
何か口を挟まれる前にと、先制して目線で坂薙に釘を刺すと、俺は怯まずに続けた。
「ええ、そうなんです! とにかく九重先輩、髪の毛染めるも何も、最初からこいつはこんな見てくれなんで。真面目な奴なんで安心してください!」
正直、先輩を説得するつもりなんてなかった。こんなのバレバレの嘘だ。それでも、昔知り合ったよしみで、この場だけでも見過ごしてもらえないかと、その熱意さえ伝われば。
それでは失礼します、さあ行くぞ吉川、坂薙。にこやかな作り笑顔でそう言葉にしかけた俺の唇は、九重先輩の予想外の台詞にかき消されてしまう。
「――佐村さん。私の事、まだ忘れられてない」
ひとりごとの呟きにも似た、感情のにおいのしない、抑揚の抜け落ちた声。そんな台詞が、俺だけに聞こえるように、そっと耳元に残される。
長い髪を手ぐしで流すと、九重先輩はそれだけここに置き去りにして――
「ま、いいや、行こう。じゃ、引き継ぎの続きは放課後の役員会で――」
――執行部達をぞろぞろと引き連れて、職員室の方へと立ち去って行ってしまった。
あまりに肩透かしな去り際で、取り残された俺はしばらく言葉もなかった。
私の事、まだ忘れられてないの?
口数が少ないのは、俺がこの学校に来て彼女の存在を知った時からずっとそうだった。
けれど、振る舞いもその口調と同じ静かなもので、かの九重ミュウネはそんな思わせ振りな行動を取る人ではなかったはずだ。なのに、どうしてなのだろう。彼女は、あれから少し変わってしまったのだろうか。
俺はキカ子の問いかけも耳に入らず、無心に彼女の後ろ姿を追っていた。
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