第11話

 この夜は、酷く疲れていたはずなのに、深い眠りの澱みの果てに久しぶりの夢を見た。

 夢はとても不鮮明で、あとで意識しても具体的な内容の実感すら朧気なものだった。なのに強い引っかかりがあって、だからこそ強く胸に残ったのだろう。

 うまく言葉にできないけれど、その夢の中に何故か俺はいなくて、キカだけがひとり立ち尽くしていた。夢の中で佇むキカは、男と女、果たしてどちらのキカだったか、はっきりとは思い出せない。

 どうしてかって、その夢の中で世界を眺めているのは、キカ自身だったからだ。

 キカの瞳。キカの視線。俺はそれを介して、その場所に存在した。

 だからそこでは自分が何者なのか見る事はできないし、やっぱり俺もいない。自分がいないのに世の中が見えるだなんて、深淵もまたお前をのぞいているのだ、みたいに哲学めいて、ピリリと皮肉がきいている。

 本当、夢なんてふざけている。


   * * * * *


 それは翌朝の出来事だった。

 一番朝が早い父親がまず先に慌てて出勤して行って、次に母親の番。二台分が空になったカーポートの下を、朝食を済ませた俺と妹の満月が潜り抜けて、学校を目指す通学路へと合流する。ちなみに年の離れた兄は就活とバイト以外で動く事が少ないので、大抵は留守番役を務めている。


「じゃあな、兄。今日は部活の練習試合あるから、その打ち上げで遅くなるやもやも。今朝方、母にそれ、言い忘れたので」


 俺と満月はそれぞれに連れ合いのグループが違うため、門戸を出てそこで別方向に分かれる。満月はそのまま二軒隣の友人宅に向かい、一方の俺は最寄りの駅までは単独行動。ホームで神納達グループと合流、というのが平常運行。

 そんな、繰り返される日常風景の一幕に、とある異物が混入した。


「――――おい」


 ブロック塀の角から、何者かが頭をひょっこりとのぞかせている。それだけでも露骨なまでに不審人物を主張しているが、何やらど派手な模様の付きニット帽を目深にかぶり、太いフレームにレンズがオレンジ色のこれまた目立つ眼鏡をかけて、何故か三奈鞍高指定のジャージ・冬仕様の上着だけ羽織っている。下は、あのチェック柄からして、男子のスラックスのままだろう。


「お前、ブレザーどこやったよ」


 色々と面倒くさそうだったので、手続きはすっぽかして、単刀直入にこちらから問い詰めてみた。おそらく派手趣味そうな母親の所持品から拝借しての、苦肉の変装なのだろう。

 と、これまた派手なプリントのトートバッグをスッと差し出してこちらに見せると、周囲の気配をやたらと気にしながら、落ちこぼれの忍者みたいな抜き足差し足でこっちまで疾走して――


「わひゃ――――」


 ――お約束事のようにつまずいた。ジッパーの閉じられていないジャージの内側、黒いTシャツ下に二つのふくよかな膨らみが加重移動に揉まれ弾むような、そんなスローモーションに全身を投じた日月キカ子(♀)は、全力のダイブ姿勢で俺目がけて突撃してきたのである。

 俺は、全力で横に避けてキカ子のすがる手をひらりかわしてやった。


「――――ぁぁぁああ、あれ?」


 行き場を失った両手をわきわきとさせると、転び損ねたキカ子が目をうるつかせて、こちらに懇願の眼差しを向けてくる。


「ひどくないからな、言っとくけど」


 今の姿で転んだお前を受け止めてたら、今度は俺自身がヤバかった、主に体質的に。そのあたりの生存本能からくる危機回避スキルには個人的に長けていた。だから悪く思うな。


「うぅ……なにか扱いが…………違う、かも」


 そんな風に口を尖らせて、キカ子は珍しく拗ねた素振りを見せてきた。


「それよりも説明しろ、一体何がどうなったらお前がその姿でここにいる事になる」


 よくよく考えてみれば、昨夜の時点でキカはまだ男だったはずだ。


「それは、その、なんでしょう……説明が、とてもむづかしい、ので……」


 確かにいつものキカに近しい男子の制服姿……の面影もゼロではないが、帽子に眼鏡で黒髪と赤い瞳とを誤魔化したつもりが、ありふれた登校風景においては、その不自然さで余計に彼の姿を目立たせてしまっている。おそらく、自分自身に面識のある人間に特定されるのを最優先で避けようとの思惑があったのだろう。


「大体、なんでジャージ」


 上着のブレザーを、あえて羽織らない理由。ああ、なるほど、その胸……ですか。


「いや、いい。なんでもなかった」


 俺の言葉に赤面みたいな面構えで俯かれてしまったので、こっちがドギマギさせられてしまう。男同士なのに、何という理不尽さ。


「あのね、ようするに……朝目が覚めたら、この格好になってました。わたし、ぜんぜん身に覚えがありません! どうしようケータ、こんな顔じゃわたし学校に行けない!!」


 眠っているうちに女体化してた、という事を言いたいのだろうか。昨日の議論で、こいつの変身の引き金は坂薙と俺とが握っているとの結論が出たはず。女体化の方であれば、つまるところ坂薙への吸血行為を伴わなければならない。


「じゃあ、だとして、あのあと何をどうやったら坂薙の血をゲットできた? 家が隣同士とは言え、さすがに深夜だぞ」

「あ、うん……あれから寝ちゃったので。何がどうなったのかぜんぜんわかんないの。サナギちゃんとも会えるはずないのに……何故か会ってた、といいますか……その……なんて説明したらいいのかわかんないぃ」


 そう言うと、キカ子はニット帽で顔を隠してしまった。は? それ、どういう事?


「おま……何故か会ってた……って、まさか夜ば――」


 俺が言及したかったのは、キカが深夜に無断で坂薙の部屋に侵入したという、あくまで想像上の可能性。つまり、夜這い。

 日常的に使う機会なんておおよそあり得ないそんな単語を口にしかけた、その直後の事である。ズボンのポケットに忍ばせた俺の携帯端末が微振動をはじめ、それを取り出してやると、今度はモニタが坂薙鈴乃なる人物からの通話着信をしきりに主張しはじめたのだ。

 キカ子の奴が今ここにいる時点で大体何の連絡か想像がついたが、とにもかくにも坂薙からの電話を取る事にした。


『――ああ、佐村! よかった、今朝からキカとの電話が繋がらなくてな。……あの男、もしやそっちに行ってないか?』


 そんな切り出し方の意図を掴みかね、「ああ、あいつ鈍くさいもんな」などと濁しつつ、横目にキカ子の顔をうかがってみる。当人、両手で罰点のジェスチャーでも描いてくるものかと思いきや、意外にも渋々頷いて見せた。なので、今ひとつ的を射ない事情の確認のためにも、ありのままの経緯を伝えた。

 そうしたら、こう返ってきた。


『今朝、目が覚めたら、女の方のキカが私の隣で眠っていた』


 あまりの事に驚愕した坂薙はおかんむり、そのままキカ子を家から追い出してしまったのだと言う。それに、かなりの高確率で朝帰りしてくる放蕩な母親とキカ子が鉢合わせする危険性もあったらしい。

 ああそうか、あの母親。坂薙のところも何気にキカと同じシングルの家庭だったのを、今更ながら思い出してしまった。

 時間的余裕も考えて、俺は坂薙と端末で話をしながら、そのまま通学ルートに沿って歩きはじめる。キカ子の方もこちらにならって、俺の背中にこそこそと隠れながらうしろを付いてきた。


『大体だな、吸血鬼だか何だか知らんが、年頃の乙女の寝室に土足で、それも深夜に無断で忍び込むとは! それに眠っている人様の血まで勝手に! 一体何を考えているのだあの男は! ……んじゃなくて、女!? ああっ、もぉややこしい!!』


「どこから入ったんだよあいつ」


 電話越しに素朴な疑問を投げ付けてみるが、窓からだろうとしか返ってこない。キカ子当人に問うても、記憶にないの一点張り。

 ちなみにキカの自宅は、坂薙宅の裏手に建つ小さなマンションの三階だ。どうあがいても、互いの部屋同士、窓をつたって――みたいなお約束の侵入劇は、現実的に無理がある。


「とりあえずさ、どうする。そのかっこで授業とか、とてもじゃないけど出れないだろ」


 俺は、両者に聞こえるようにそう伝える。キカが俺を頼ってここまで来たのは理解した。


『とにかく。私ももうあまり時間がない。校門前で落ち合おう。お前、朴念仁なら朴念仁らしく、公衆の面前でキカに余計な真似するなよ。対処は学校に着いてそれからだ。では、切るからな』


 せっかちな口振りで早口にまくし立てられると、坂薙との通話も打ち切られてしまった。

 俺は自分の端末のモニタが、苦悶の表情を映し返すのを眺め見てしまう。する、しかないのか。よもや、白昼堂々のこんな場所で。

 余計な真似はするなと釘は刺されたが、今なら辛うじて取り返しがつくはず。あの曲がり角を抜け大通りに出てしまったら、そこは同じ制服に身を包む生徒達が群れなすさなかだからだ。そうなっては、キカを元の姿へと戻す機会を損なってしまう。

 ええい、ままよ。一旦歩の足を止め、くだんのキカ子の方へと振り返る。すると。


「――――おー、兄。日月センパイも」


 などと。背後から忍び寄る、影。


「今朝はちんたらさんだね。ふふ、青春のボーイズ……素敵だ……」

「誰? 満月のお兄ちゃん?」


 満月とその友人らしき女子二人が、俺達の背後から近寄ってくるのが視界に入った。

 思えば、予測できた事態だった。満月は自宅から反対方向の友人宅に寄ったあと、戻って再び俺と同じ方向に向かうのだから。


「ああ、おはよ、う……」


 ボーイズ。非常に最悪な事に、満月はあの事件の、限定的ながらも目撃者だった。二人のキスの場面だけを切り取って見られていたので、キカとの関係について妙な捉え方で誤解されている。

 あのキスらしき接触については、確かに男同士での行為である事実を否定する材料をこちらも持ち合わせておらず、正直何と釈明してよいものか困り果ててしまっていた。なので、満月への対応は未だに有耶無耶のままだったりする。


「……おや、日月……センパイ……じゃない? どなたさん?」

「――――ぅうわやばい、朝練遅刻しちまう、走るぞキッ……キッカワさんっ!」


 って言うか誰だよ、キッカワさん。吉川さん? 誤魔化す必要性に駆られる状況に陥った暁には、そんな設定にしてみるのも有効手段たり得るだろうか。

 何にせよ、ここはやむを得まい。咄嗟に吐いた苦し紛れの嘘を置き去りに、俺はキカの背中をうしろから追い回すようにして、満月の前から全力離脱を実行したのだった。

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