第10話

 ほとぼりが冷めてから坂薙の部屋に戻った俺は、三人で作戦会議を行う事にした。

 廃部になった男子テニス部室で起こったあの事件から、実際はまだ半日と経っていない。

あれから放課後、坂薙宅へと集合した俺達。キカ自身に何が起こっているのか、身体がどうなってしまったのか、これから俺達はどうやっていけばいいのか。そのあたりをきちんと把握して今後の指針を決めておかないと、先程出くわした坂薙母とのやり取りで俺自身が思い知ったように、行き当たりばったりで自らの首を絞める羽目になりかねない。


「――――なあ……マジで、おんなのこ、だったのか?」


 そう、あらためて問う。


「あ、ああ、確かに女の子だったぞ」


 俺自身が自分の目で把握できたのは、そこにちょこんと座っているキカ子の、あくまで外見的な部分だけ。髪の毛などの雰囲気が豹変したのと、体型が大きく女性的に丸みを帯びたのと、あと顕著なのは、胸。それも氷山の一角だ。

 とは言えそれ以上男の目でキカ子のあれこれを詮索できるはずもなく、今思えば女性である坂薙がこの場にいてくれて助かったというか、なんといいますか、その……。


「……は、はえてなかった、よな?」


 直球過ぎた。言ってからマズったと後悔しつつ、勢い余ってずっと気になっていた疑問点を坂薙にぶつけてしまっていた。


「なっ、お! ……おとなだから、生えてて、その、当たり前……だろうが……朴念仁のくせに、何だよ……もぉ……」


 途端、ローテーブルを掴んでこちらに身を乗り出すと、急に勢いを削がれたように口ごもりながら坂薙はボソボソと反論してきた。

 坂薙はどうにも俺の言った言葉の意味を取り違えているらしい。とは言えこちらがその意図をきちんと説明しようにも直接的な表現になりかねないので、非常に反論に困ってしまう。それに彼女の表情に見て取れる露骨な頬の紅潮からして、こっちの生々しい話題は避けるべきだったようだ。


「すまん、わかった。それは理解した。じゃあ、現状把握できてる事実を念のため整理したいんだが――」


 そう切り出すと、俺はテーブルの上にキャンパスノートを広げて、シャープペンシルで簡単な図解をはじめる。

 ノートの一面に人型の輪郭を描き、中に『キカ』と文字を記入する。頭部の上に、記号の『♂』も付け足した。


「まず、日月キカは、理由はわからないが、性別を変える能力を持っていた」

「ケータ、お勉強できても意外と絵ゴコロが足りないですね」

「だまれ他人事か、渦中の問題児」

「あだでででで!」


 すかさず横から坂薙がキカ子の頬をつねる。涙目のキカ子が一瞬可哀想になるが、俺が余計な真似をすると拗らせるので、構わず話を続ける事にする。


「――キカの性別を変える能力。今になってそうなったきっかけはわからない。もしかしたら昔から無意識に変身していたのかもしれないけど、俺も坂薙もそれを見た記憶はない」

「ああ、幼馴染みの私だって、こんなやつ今まで一度も見た事ないぞ」

「わたしも、実感、ないかも」

「そうなのか?」

「はい。わたしじゃわたしの顔は鏡がないと見えないけれど、なんといいますか、ここが、その……こんなに重いだなんて知ったのははじめて、なので」


 キカ子が胸元を支えるような仕草をして見せる。坂薙が非常に複雑そうな表情を浮かび上がらせる様が味わい深いというか、哀愁を誘うというか。


「という事から、これは推測だけど、今日学校での変身がはじめてだったと仮定する。そして変身には、そのきっかけとなる……こう、スイッチみたいなものが必要らしい」


 図解に『♀』の記号を冠した人型を『キカ』の隣に描き加え、一方通行の矢印で結び付けた。


「それが血液……なのか。私の」


 そう返されて、『坂薙鈴乃の血』を男から女へと変身する矢印の上に付け足してみた。


「今のところ、そうだと思う。キカが最近ずっと悩んでいたのも、女装してしまったのも、ひょっとしたらお前の血を欲する衝動とか、女に変身したい衝動みたいなのを必死で抑えてたってのが真相なんじゃないかな」

「そう……なのかな。わたし、サナギちゃんの血が吸いたくて、ずっと我慢してたからあんなに苦しかったのかな……血を吸ったら女のからだになるから、あの日突然女の人の服を着てみたくなっちゃったのかな……わたし、ぜんぜんわかんないや」

「――――やっぱり、ヴァイパイア……つまり吸血鬼、なのか? お前は……」


 坂薙が単刀直入に、俺達の知識から引き出せる限りで最も今のキカの状況を例えるのに相応しいであろう固有名詞を口にした。

 途端、キカ子に浴びせられる俺達の視線。彼/彼女は戸惑いの表情を見せると、その疑問にこう答える。


「わたし、わかんない。でも血なんて、自分では全然おいしいって感じてないよ。本当。だって……おとぎ話のバンパイヤって、血を欲するから吸血しちゃうんじゃないの?」

 果たして坂薙以外の血でも同じ現象が起きうるのかと、ふとした疑問が湧いてくる。

「なるほど。キカは人間の血を欲しているわけではない。そもそも性転換と吸血鬼の伝承との間に何の因果関係があるのか、俺にも皆目わからないし」

「あ、サナギちゃん、それ、十字架……」

「うえっ!?」


 坂薙が首からぶら下げているネックレスに、十字架の意匠が使われているのにキカ子が気付いたらしい。慌てて坂薙はそれを覆い隠すが、キカ子はそれに怯む様子を見せない。


「そういえば今日のお弁当、レンジでチンするペペロンチーノが入ってました」

「なるほど、ニンニクたっぷりか。というかお前、そもそも日光……もろに浴びちまってるもんな」


 吸血鬼は鏡に映らない、なんて設定もあったように記憶している。


「では、杭ならどうだ? 心臓に杭を打つと吸血鬼をやっつけられるって聞いた事が」


 ギロ、と坂薙がドス黒い目付きでキカを睨む。


「普通に死ぬだろ」

「ひぃい! やめて!!」


 ……と、まあ。続々と浮き彫りになってきた矛盾点に、互いに目を見合わせてしまう羽目になるだけだった。


「ああ、あと――」


 今度は坂薙に関係がある話題なので、傍らで足を伸ばす彼女へと視線を傾ける。


「不思議な事に吸血した傷痕が……どうしてか残らないんだよな?」

「あ、うん、確かに」


 首筋に手を当ててなぞって見せる坂薙。先程の変身の時は本人が直接(鼻から)血を出してしまったので違ったけれど、最初の時は確かに噛んだ。あれはまさしく吸血鬼のイメージだった。俺はその血濡れの映像が今でもはっきりと目に焼きついている。


「親玉の吸血鬼に血を吸われた人間は、吸血鬼の仲間になる。本で読んだ事があるが、真祖と眷属、って奴か。坂薙がそうなった……とは考えにくいよな」

「私はあれから何ともないぞ、このとおりだ」


 何故かそこで誇らしげに薄い胸を張る坂薙である。そう口に出せばただじゃ済まさなそうだが、本当にそんな得意顔なので、何ともないのだと思いたい。


「私が思うに、キカのあれは変身と言うよりも……なんだろう、それ以前がなかった事にされたような感覚というか……うまく言えないのだが」


 坂薙の主張に、俺はうーんと首を傾げた。わからない事ずくめで、推測と憶測が妄想に変わりかねない勢いだ。今俺達に求められる、キカに対して持つべき適切な認識とは一体何だろう。その観点を見失わないようにと、あらためて心を落ち着かせる。

 図解した女キカの脇に『吸血鬼っぽい何か?』や『本人に自覚ナシ』などという曖昧な説明を追加し、他に何か変わった点はないかとキカを問い詰めてみる。


「よくわからないけど、何だか恥ずかしいけど嬉しいような、自信が満ちてくるような、爆発しそうな気分なの」

 ――などと意味不明だが興奮混じりの感想が返ってきた。

「要するに、平穏な人生を崩壊させかねないこの大きなトラブルをだな、お前というやつは、のほほんと気に入っているんだな」

 坂薙は傍らで頭を抱える。幼馴染みとして、あるいは想い人として、キカの事を心の底から心配しているのだろう。本人にほとんど深刻さが見られないのは、喜ぶべきか喜ばざるべきか、俺にはまだ判断付かない。

「お前はまあいい。あとは、今後私らがどういった身の振り方をしていけばいいのかだけどな……」

「正直、その姿を他人に見せるべきじゃないと俺は思う。何というか、誰かにこれを説明しようがない。俺達三人だけの秘密にするしかないんじゃないかな」

「同意。学校だけじゃなくて、おば様にも悟られないようにするんだぞ、キカ」

「ええっ!? でもわたし、あのぅ……どうやって元の姿に戻ればいいか、全然わかんないのだけど……」

「というか、それでは学校ではどうやって戻ったのだお前は」


 ついにというか、触れるべきでない、至極個人的に触れてほしくない話題がこの場に舞い降りてきた。


「では、キカが……どうやって元に戻るかの方法なんだけど」


 今日、突然変わってしまったキカについて、俺達が知りうる限りほぼ全ての情報をまとめ終えたはずだ。あとたった一つを残して。

 かなり気乗りしない推測の言葉を、今この二人に伝えるべきかと悩んでしまう。


「ケータ、何か知ってる……の? あっ」


 口元に手を当てびっくり顔をするキカ子。意外と勘がよく、あの時の顛末の点と線が繋がって、ようやくスイッチが何だったのか理解した様子だ。

 そうなると俺の方もどう行動すべきか頭を抱えるしかなく、テーブルに視線を落とす。すると坂薙は一人仲間外れにされたような表情で、互いをきょろきょろと見比べはじめた。


「何? 何だお前達? 何かあったのか!?」


 俺は図解に、今度は男キカへ戻る側の矢印を描き足してみる。何の誤魔化しにも気休めにもならない。避けて通れぬ道。


「――――そうか、キス、だったんだ」


 意外にも、の方から切り出してきた。自分自身で言葉にして、まるでそれを納得させるかのような。

 キカ子はすっくと立ち上がると、こちらに向けて一心の真剣な眼差しを向けてくる。


「えっ……何」

「――キス、だよ、サナギちゃん。わたしが前の姿に戻る、たった一つの引き金」


 言うや否や、キカ子はこちらにゆっくりと近寄ってくる。


「えっ? えっ!? ちょっとキカ、何を言って――」


 坂薙の動揺の言葉も耳に入らないのか、キカは気にせずグッと俺に迫ってきた。キカ子は俺の前に屈み込むと、四つん這いになって顔を近付ける。いつも自信なさげだった表情にはどこか確信めいた意志の色をよぎらせ、赤を灯した鮮烈な視線は真っ向から俺の瞳を捉えている。

 正直な気持ち、こいつがここまで積極的な行動を自分から起こしてくるなんて想像だにしていなかった。さっき吐露したこいつの「爆発しそうな自信」とやらが本当に作用しているような、そんな不可思議な気迫。

 こいつはキカに見えてキカではない? まるでそれはもはやキカとは別人のようでもあり、得体の知れなさに戦慄のような恐れを覚えてしまう。

 にじり寄ってくるキカ子。手を床に這わせて、肉食獣さながらに、少しずつ、少しずつ。

 俺はもう一つの恐怖心に苛まれはじめる。このまま迂闊にこいつに触れてしまったら、またあの女性恐怖症などと称した金縛り症状が発症してしまうからだ。


「ケータ、実験、しよう」


 呪文めいた言葉に、キカ子の輪郭が不思議な淡い光を帯びはじめたように見えた。俺は後ずさろうとするが、うまく抵抗できない。既に彼女との距離は近付き過ぎていて、ピリピリと全身の肌が張り詰め、思うように身体を制御できなくなってきているのだ。


「馬鹿! お前ら、そんな不埒な事を私の部屋で――」


 坂薙の怒声が、やけに遠い。抵抗の素振りも見えない。何故だろう。

 吸血鬼になぞらえるのであれば、魅了の力で俺と坂薙は身体と精神の自由を奪われ、たるキカ子に隷属させられている、という解釈もできよう。もしや、あの部室での時のように、キカ子を中心として、俺と坂薙を巻き込んだ不思議な磁場と引力が働いているのだろうか。


「ぐっ……マジで……なのか……」


 俺は、そのまま吸い寄せられるようにして、キカ子の唇を再び奪っていた。


 今までに三度垣間見た、世界が歪むあの感覚。ともに揺らいだ像が再び元通りのキカの形をなして、俺と坂薙の前に姿を現した。


「あ……ら? わたし……」


 女言葉なのは元からなので変わらないが、まごう事なき男の子のキカ、である。

 今更はっきりと気付いたのは、この『世界が歪む感覚』というのが、キカ自身に変化が起きたと例えるよりは、俺達三人を中心とした周りの世界の有様が変わる――なんていう形容の方が相応しいんじゃないか、という点。

 具体的に原理をうまく説明できないけれども、特撮か何かの変身ヒーローみたいなロジックでキカの性転換現象が行われていると説明してしまうのは、何だか着眼点がズレている気がした。勿論、こんなの単に俺の推測で、碌な根拠なんて持ち合わせていない。

(私が思うに、キカのあれは変身と言うよりも……なんだろう、それ以前がなかった事にされたような感覚というか……うまく言えないのだが)

 なるほど、そう考えると、先程の坂薙の主張にも一理あるのかもしれないな。


「ナニ貴様は真剣な面構えをしているか。いいからさっさと離れろ、野郎同士で」


 つっけんどんな言い草を浴びせ、坂薙はキカの首根っこを掴んで俺から引き剥がした。


「うわ、うわー。キス……わたし……うわー、ファースト……キス」


 口調自体はいつもながらに穏やかなキカも、口元を抑えつつ、動揺やら困惑やらでわけがわからなくなっているような、どうにも可哀想なあんばいになっているのが目に見えてわかった。顔面真っ赤だ。


「厳密には、二回目、という事か。そうだな佐村?」

「ああ、残念ながら、たぶん」


 俺の方もようやく正気へと引き戻され、素敵な夢と悪夢から同時に目覚めさせられたような、残念な気持ちと罪悪感とでメンタルを蝕まれるのをひしひしと感じている。


「ねえねえサナギちゃん! これ、どう受け止めたらいいのわたし、わけわかんない!? チューしたタイミングで解釈して、清く正しく不純異性交遊ですか? それともオチが男なので不純同性交遊になっちゃうの? どっち? うわ、あたまグルグルしてきた、はわわわ……」

「……なんか、ムカつく」


 パニクっているキカは放置して、坂薙は口調に棘を生やしながら、テーブルの上に転がったシャープペンシルを手にする。


「超ムカつく」


 それをくるんと指先で器用に一回転させて見せると、まだ傍らでテンパったまま「あうあう」などとのたまっているキカのズボンを、空いている方の手でおもむろにズドンと引き下ろした。


「どうだ?」


 坂薙は意図的にかそちらには全く目もくれず、視線は一心にノートを見つめたまま。


「いや、あの……確かに、生えてる、けど……」


 一体何と感想を言えと。あまり喜んで見たくもないものがぶら下がる光景に思わず目を覆うと同時に、キカもそっちを覆ってから坂薙への非難の言葉を投げ付けはじめる。

 それを適当にあしらいながら、はぁ、などと大仰なため息をこぼして、ノートに図解された矢印、キカの『♀』から『♂』へと一直線に目指すそれに、坂薙は汚い字で『ケータからのキス』などと書き殴ったのだった。

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