第二章 上書きされる日常、だからどうしてキッカなの、って。
第9話
白いレースカーテンが閉められた室内は、漏れ入る外光が淡い陰影を落とし、その二人を相応のムードへと掻き立ててる演出に一躍買っていた。
ショコラ色に白のパイプベッド。マホガニー調にしつらえられた
思春期の少女のねぐらにしては幾分シックな色合いで統一された室内。気になるものを挙げるなら、テーブル下に散らばる料理雑誌の山と、壁際を塞ぐように鎮座する、やや大仰なワードローブ。確かに、それほど目立つ方ではないけれど、日頃から地味にファッションへのこだわりを持っている子だとは感じていた。
さて、極力シンプルな生活空間を望んでの空間設計なのか定かではないが、そんな部屋の住人である少女――坂薙鈴乃は、先程からベッドの上に座り込んだままジッと待ち受けている。
いつだったか、彼女の存在を知ったその日からの事だ。男っぽい口調にさばさばとした性格、どことなく中性的な雰囲気とを併せ持ちながら、長い髪の毛に凝った編み込みやアクセサリーを飾ってみたりと、妙に女の子っぽい容姿が織りなすコントラストが鮮烈なまでに琴線に触れてくれて、いつの間にかこちらから後ろ姿を追っていた。
そんな坂薙鈴乃が、ベッドの上で、頬をほんのりと赤らめながら、更に続く行為を待ち受けている様子。目を頑なに閉じ、情感を醸すその姿。彼女が普段からあまり見せる表情ではなく、ただならぬ状況に心かき乱されるのだ。
素足の膝を折り、着替えたばかりの私服のスカートがプリーツの重なりをやや乱して、徐々に皺をもよおす。彼女はそれも気に留めない。
「――――はやく」
ぎし……とコイルが悲鳴を上げ、マットレスがたわんで揺らぐ。覚悟を決めたのか、もう片方の人物がベッドに上がり込んだのだ。
その少年――日月キカは、求めるべき坂薙の傍へとゆっくりにじり寄っていく。目を閉じたままの坂薙。浅く割られた両者の膝が重なり合い、もっと近くまで、紅潮した頬に鼻筋を寄せてゆく。
「ごめん、やっぱ怖い!」
突然、拒んだ。トンと両手で突き飛ばされたキカは背中からベッドに倒れ込んでしまい、そこで逆に坂薙が彼を馬乗りにする。華奢な肩を両手でベッドに押さえ付けると――
「――――ねえ、痛くしないで、ね?」
――お願いだから。目元潤ませ、懇願の表情。
「痛くなるのは私だ、馬鹿」
やや棘を含んだ囁きを坂薙が返す。
「……キカ」
熱を帯びた手を愛おしげにその頬に添えると、うっとりと瞼を閉じ、坂薙は目の前のキカへと更に更に顔を近付け「――あああっ!? ちょ、うわわわわザナギちゃんん出てるぅ血ぃ――――」
――豪快に鼻血を垂れ流していた。
「おや?」
電光石火の一撃のもとに、先程までの危うい高揚感を絶ってしまった。なんと、坂薙の鼻から流れ出る紅の液体が、キカの顔面目がけてぽたぽたとこぼれ落ちているではないか。
あくまで冷静を装いつつ、血みどろの惨状となり果てたキカの顔から目を一旦背けると、俺――佐村啓太は、セレブな趣の高級ティッシュを一枚ひっこ抜いた。
シュッ、とシュールな音が部屋に響いた、その直後。キカを取り巻く空間がぐるんと像を歪め、緩やかに巻き起こった風がベッドのシーツをはためかせはじめた。
「これは――――」
坂薙は枕を抱きしめベッドにしがみつくが、キカを中心に沸き起こった見えざる力で押し出され、床で尻餅をついてしまう。
ベッドの上では、上体を起こしたキカが虚ろな表情のまま、屈折した光の束の本流に飲まれてゆく様が繰り広げられていた。
やがてキカを在り方を構成する全てが解体され、歪められ、編み直され、上書きされるかのように、服の中から彼の輪郭を彼女へと変えてゆく。
「……こんな、一体……キカに何が……」
坂薙はお尻をさすりながら起き上がると、変わりゆくキカの姿を目の当たりにして、ショックを隠さない。鼻血、出たまんまで。
俺は、やけに冷静に客観的にそれを眺めると、もう一度シュッと引き出しておもむろに坂薙へと手渡し――
「「あ……」」
――存外間の抜けたユニゾンを葬送曲に、触れ合った指先から感電して気絶した。
数秒間の意識断絶。頭を抱えながら、ぐったりとよみがえってみると、くだんのあいつが、まさに我々人類の目の前に顕現していやがったのである。あまりに堂々とその存在を露わにしていたため、安直な夢とか辛い現実とかを超越して、思わず素っ頓狂な笑いが漏れてしまう。
ちなみに開口一番の台詞は、こうだ。
「うえ……のん……じゃった、かも」
字面そのまんまだと、何気に淫靡な印象である。女性の肉体を介して吐かれてしまえばなおの事。
血の味がするのかしないのか、ベッドの上に腰掛けたままのそいつは、舌をペロッと出し、謎のアピールをはじめた。あの瞬間に自分が一体どうなったのか、自身自身でもまるで自覚がないだけなのかもしれないが。
「そっ、そんな言い方されたら、まるで私の血が穢れているみたいじゃないか!」
「いや、鼻血は仕方ないだろ」
背後で拗ねている奴に、すかさず低めのトーンで突っ込みを入れておく。
しかし坂薙、鼻血とは、よっぽど興奮していたのだろうか。キカの身体に起こった異変を再現し検証すると言う、今俺達三人だけに課せられた重要かつ秘匿されるべき目的があったとはいえ、いささか過激なシチュエーションに坂薙自身が耐えられなかった、とか。
「おい、お前。記憶とか飛んでない、よな? お前は日月キカと同一人物……で合ってるよな? 俺や坂薙の事もわかるよな?」
「そ、そうだ。貴様、まず名を……名を名乗れッ!」
警戒感剥き出しでそう怒鳴りつける坂薙は、目の前で堂々としている幼馴染みそっくりなアレに、どうやらおっかなびっくりらしい。
「え……そんな。わたし、だよ?」
かくん、と小首を傾げる仕草。それはまさにあいつそのものなのだが、それにすら確証が持てない事態が主に外見上巻き起こっているため、滅茶苦茶にややこしい事態になっているのである。
「……坂薙。悪いがその、近い」
「えっ、あ……しまった、ごめん」
そんな調子で、俺の背後に隠れながらこそこそと強がるという体たらくだ。
「じゃあ、次の質問だ。お前の正体は吸血鬼かなんかの仲間か?」
「……わかんない。違うかも、です」
「ヴァンパイアの眷属としての記憶みたいなのは? 私と出会った頃からずっと言い出せなくて隠してて、本当はそうだった……のか?」
「…………うー、そんなの隠してないよ。わたしはわたし、だもの」
「人間の血を吸いたいとか、危害を加えたいとか、そういうの……さすがにないよな?」
「――ふっふっふっ……おろかで下等なニンゲンどもめ! みたいな?」
などと、リボンの解けた長い髪をかき上げて見せ、いきなり芝居じみた仕草をし出した。見かけが見かけだけあって恐ろしく様になっているが、棒読みの声が致命的に駄目だ。
うしろにいた坂薙は何を決心をしたのか突然立ちがるとベッドへと上がり込み、そいつの手を強引に引く。そのまま連れ出して、肩を強引に押しドレッサーの前に腰掛けさせた。
「見ろ!」
ドレッサーの三面鏡に映し出されたご尊顔が、そいつの驚愕の色でみるみると染まってゆく。置き去りの意識に、口をぽかんとさせたまんま。
「――――うわ、誰ッ!?」
「お前だ、日月キカ」
やはりキカ子自身に自覚がないのだろうか。肉体が女性化した実感も、どんな理屈でそうなるのかも、あるいはそうなる事の記憶と意味や、そうなってしまった経緯すらも。
「これ…………わた……し」
自らの髪に触れる指先。それを一房絡め取ると、細く柔らかに波打つような髪質は変わらないまでも、亜麻色と形容できたはずのそれは今や黒く塗りつぶされていた。陽が暮れを経て陰をなすような、神秘的なまでの逆転現象だ。
「お前、そういえば目も……」
「わあっ」
坂薙は両手でキカ子の頬を挟むと、急に至近距離まで引き寄せた。
赤らんだ色彩を放つ結晶の封入された瞳。睫毛の色も髪の色に応じて濃く闇色めき、遠巻きに見てさえも、キカと似ているようで異質な表情を醸し出させている。
「髪の毛も目も、自分じゃ全然気付かなかった……こんなの、わたしがわたしじゃないみたい」
カッと見開かれたその目に、キカ子の戦慄く心境がありありと映し出す。
「奇跡だ。これは奇跡」
驚嘆の言葉が坂薙の口から漏れる。
「……あの、ええと、それで……わたしこうなってから、どうすればいいのでしょう?」
坂薙の妙な反応に、キカの動揺が見える。頬に添えられた指先は、そのまま輪郭をなぞりながらゆっくりと下降をはじめた。二人ともにそれ以上何も言葉を発さず、なぞる指先と視線とが顔から徐々に下へと沿って落ちてゆき、間もなくして異物へとぶつかった。
「奇跡、だ……」
軌跡などと呼ばれた異物を、坂薙はわずかな戸惑いも配慮も忘却して、好奇心の衝動と本能の赴くままに、背後から鷲掴みにした。
「わ………………きゃあっ!?」
「なんだこれは」
もみもみもみ。
「なんでこんな理不尽が」
ふにゅふにゅふにゅ。
「ちょっと、サナギちゃ……ひゃあっ!?」
まことけしからん事に、擬音以外にその光景を描写する事叶わず、というとてつもなくクレイジーな状況が、今まさに眼前で繰り広げられている。
「ぐぬぬぬっ……一体何がどう間違ったらこんな乳牛みたいなチチが男のお前に生えるのか! ええいっ、理不尽を確かめてやる、さあ脱げっ! その中はどうなっている!」
「サナ……やめッ」
「うわっ、ノーブラかっ!? ってそれは当たり前だな、ブラごと生えてきたら怖いしな」
「やぁぁ」
好奇の色に染まりゆく坂薙の目付き。最初はキカに起こった変化についての検証らしき口振りだったはずが、何かのスイッチがオンになって、目に見えてキャラ崩壊をはじめエスカレートする坂薙の姿に、俺は一抹の動揺を抑えきれなくなっていた。
もしかしたら、部室での一件でもこんなやり取りがあったのかもしれない。そう考えると、ますます彼女に対する認識の混乱に拍車がかかってしまう。
「うわっ、見ろおい、本当に乳房がある! 皮膚もちゃんと繋がっているじゃないか。それに暖かい……これは一体どういう仕組みでこうなって……」
「痛い、ちょ、くすぐったいよサナギちゃ――ぷっ……くくっ、はっ、くすぐっ――――」
あの、お前ら。
「うむむ、カップにアンダー、手算目算でアバウトに八十代後半、EかFか……はぁ」
おい。もしもし?
「キカ、貴様……乙女の第二次性徴なめてるだろ。何だかムカついてきた。下も脱げ」
「いやぁ! むりむりむり無理、やめなさーーーーーーーーいッ!!!!」
おいコラ聞けよ。
「ちょっ、暴れるなこの、おとなしく脱げ――――」
どうやらカオティックな状況が留めるべき
「だからお前らハナシ聞けって言ってるんじゃあぁッッ――――!!!!」
いい加減キレた俺は奇声を上げ、坂薙目がけてフルスイングに枕を投げ付けていた。
* * * * *
俺は部外者だから出てく、勝手に二人でやってろ。そんな、反論の余地もない一言を投げ付けてやると、坂薙の部屋から飛び出してきてしまった。
とは言えどこに行く事もできず、ドアの前で胡坐をかき、一人途方に暮れているのが、今の俺という顛末。
ドア越しに漏れ伝わってくる「ありえん」「恥ずかしいやめて」「仕組みがわからん」「自分でもわかんないよ」「どうしてこうなった」「人生滅茶苦茶だ」などの混迷極める阿鼻叫喚絵図から察するに、どたりばたりと繰り広げられているあの二人の騒乱が終わりを迎えるのには、まだもう少し時間がかかるのだろう。
「――――なぁに? 修羅場?」
飛び上がるほど驚くという形容のし方は、まさにこういう場合に使うものなのだろうか。
突然第三者から、それもえらく呆気からんとした口調の声をかけられてしまい、隙だらけだった俺は飛び上がるほど驚いてしまった。
いつの間にか見知らぬ妙齢のご婦人が、階段脇から顔をこちらにのぞかせていたのだ。
「あいつがキカ君以外の男の子呼ぶだなんて、めっずらしいわねぇ……へへえ」
言いながら、ジト目視線を一身に浴びせてくる。
坂薙の家族の方だろうか。ストレートの茶髪にデザイナーズっぽい派手目な眼鏡、ふくらはぎを大きく露出したパンツスタイル。ネイルの鮮やかな手には、同じくビビッドな色使いの携帯端末が握りしめられている。
いかにもギャル然とした風体ながら、姉にしてはやや年が離れているように見えた。だからおそらく坂薙鈴乃の母親なのだろうなと俺は思った。
「あの、い、いえ違い……ますので」
慌てて否定。今入ってこられると、俺達の置かれた状況が余計に悪化するのが目に浮かんでしまったからだ。
「二人とも喧嘩の方は大丈夫そうなんで……あの、絶対」
「……そう? いいけど、あたし出かけるからって娘に言っておいてもらえる?」
こちらの返事を待たず、パタパタと下りて行ってしまわれた。
しかし、階段を上がってきた足音にも気配にも全然気付かなかったのは、こちらの意識が余程散漫だったせいなのだろうか。
キカ当人でない俺が苦悩するものでもないが、渦中に置かれた一人として、まだ考えを整理するには遠い事だけあらためて思い知るのだった。
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