第8話

 瞬きをして、目をカッと見開いてしまった。否、そもそも直前まで自分が目を閉じていたかどうかだって怪しいものだ。開いていた瞼を、正確な現実を前にあらためて開き直したような。夢の中で落ちた眠りから覚めて、現実に帰り血の通う目を開ける、あの感覚。

 正確な現実などと形容するなら、その前に、やけにリアリティのある映像を体験した。俺達のいた日常は、何も変わっていない。何一つ変わってなどいない。

 床に座り込んだままの坂薙鈴乃。あいつのすねにもたれてかかって、目を閉じ眠りこけている。その首筋には、血の印も何の痕跡も見当たらない。吸血鬼だなんて非現実的な、今時そんな馬鹿げた物語の渦中になど、俺達三人はいない。

 視線を上げる。キカがそこに立って――――――――

 俺の目の前に立ち尽くしていたのは、男子の体操着を着た、日月キカだ。

 そのはずだ。着る服もであれば、背格好も同じ。長く伸ばされた、ふわりぽわぽわとウェーブがかって広がる淡い色合いの髪が――――

 ――――否、髪の毛が、真っ黒かった。濡れ烏のように艶やかに、帯びた鋭利な光沢がその先端までぎんと鞘走っている。

 あまりの事に動揺を隠せない目線は漫然とその上体を見過ごして、そのままそいつの顔をしかと受け止める事になる。

 啜って見せた血の色にどことなく似た紅の紋様を灯す、二粒の丸く大きな瞳。それが髪の毛の闇色から凛とのぞき輝いて、眉と瞼とに無為の感情を装いながら、こちらをジッと眺め見ていた。

 半開きのままの口。小さく薄い、淡い桃をさした唇。それにあらためて女性の気色を嗅ぎ取り、胸元で強靭なまでに主張する膨らみをようやく知る事になる。

 彼――否、には、大きな乳房があった。襟首と袖口に深緑色のアクセントのついた、白い半袖の体操着。それの表面がパンと張ってはち切れんばかりの、おのれの肉体を持て余すかのごとき膨らみ。

 その顔には確かに、日月キカを証明するものがあった。伸ばした後ろ髪を留める、あの黒いリボン。そしてまなじりのほくろが、俺の最後の現実にとどめを刺す。

 そうか、彼女は、キカだ。キカがおかしくなった。おかしな事になった。キカが女に変わってしまった。夢なら、それが未だに終わってくれない。


「あー、あのぅ……ケータ?」


 ぽそりと、そいつが呟く。キカよりも数段高い声質で、キカスタイルに則った俺の名を、かくもはっきりと呼んでくれのだ。

 ぽかんととした顔のままの彼女。ああ、キカか。彼? キカ子? どっちだっていい。先程までの虚ろで死にそうだった顔がいつものあいつに戻ったのなら、それは喜ばしい事じゃないか。あんな辛そうなあいつの顔、やっぱり夢だったんだ。よかった。


「あの……え……あれ……わたし……ええっ!?」


 珍しいのか、自分の両肘で挟んでぶるぶるやったり、手のひらでおっかなびっくり包んでみたりしている。


「……お、おっぱ……い……」


 自らの口でそう言語化して、彼女……らしきそいつは、そのままふつりと糸が切れるように膝を折り、ぐったりと目を回してしてしまった。


「…………すまない、私……あまりの事に思考が及ばなくて、本当に言葉が出てこない」


 坂薙の見せた動揺は、それはそれは拍子抜けするものだった。

 部室の床で、キカらしき物体が目を回して横たわっている。キカらしき物体は、傍目には日月キカを構成し形作っていた要素の表層的ないくつかを継承しているようにも見えるけれど、あとは何をどう間違ったのか、女だ。乳がデカい。体操着胸部の許容量を明らかに超過しているのが、健全青年男子の目に毒ですらある。


「坂薙、首……痛まないか? 何となく貧血気味とかじゃないか?」

「ああ、そう言えば……あれっ?」


 俺が手渡した上着に袖を通したあと、坂薙は首筋に手を当てて確かめる。先程見た限りでは、確かにそこにあったはずの吸血の痕跡は何故か見当たらない。


「ん……ない? えと、鏡……はないか。あの、佐村ちょっとここ……」

「大丈夫だよ。跡も残ってないし。夢、かもしれないな」


 けれどもあの一連の光景は白昼夢などではなかった。そうでない何よりの証拠が、今まさに目の前で寝息を立てているのだから。

 先に意識を取り戻した坂薙にも、しっかりとあれの記憶が残されていたらしい。どういう経緯でキカとああなったのか、詳細は気まずくて聞けなかったが、どうもキカのまどろっこしい胸の内の告白に早とちりで逆切れし、ボタンをかけ違えた愛の実力行使に出てしまった。あれは失恋なのか、それとも単なる勘違いレースだったのか。教えろ佐村!

 ……みたいな解説が彼女の口から吐露されたのが、ついさっきの話。


「と、ととととにかく、とにかく、だな……ええと、あれだ」


 床で眠るキカ子の姿に表情を引きつらせた坂薙は、だだ漏れの動揺に翻弄されまくりの挙動で、抜けた腰を落ち着けていたはずのパイプ椅子から突然立ち上がった。


「――まずな! あれだ、保健室!」

「おい、転んで膝小僧を擦りむいたとかみたいにサラッと言う話ではないだろう……」

「キカはすごく具合が悪い。見ろこの表情……まるで悪い病魔に全身を冒されているようではないか! 一刻も早く処置しないと、こいつの将来が取り返しがつかない事に!」

「だから坂薙、もう取り返しがつかなくなってるからこんな事にだな」

「いいか、私が保健室の先生を呼んできます! だから啓太はここにッ!」


 言うや否や、脱兎のごとき機転と俊敏さとで、部室から全力疾走して去って行った。

 いや、あれは現実から目を背けて逃げたのではなかろうか。しかも、また下の名前で呼び捨てられた気がする。

 確かに、想像だにしなかった異常な現実に直面させられる羽目になったのが、現在進行形の俺達の置かれた状況。あの現象の原理はオカルトかファンタジーか。まあそれはどちらだって構わない、とにもかくにも、日月キカ女体化という世界変革が、今まさに我々の眼前において実現されてしまったわけだ。

 文字通りにネイキッドな好意の感情をぶつけた異性が、直後に同性へと変化した。それは恋愛可能性の消滅に等しい袋小路入り。そんな荒唐無稽にして驚天動地の展開に置かれてしまったとしたら、自分も正気でいられる自信はない。


「全く……どうしろっていうんだ、こんな状況」


 俺はあらためて頭を抱えると、寝息のキカ子の傍らにしゃがみ込む。見ると、首の座りが少々妙な格好になっていて、手を伸ばしかけて、しまった、と思った。

 俺自身に彼を抱き起こす事は、おそらく不可能だろう。勿論、彼がまさかの彼女になってしまったからという理由からだ。キカ子の事を便宜上彼女と表現するが、彼女に指一本でも触れれば、俺はあの電流のような金縛りの感覚を再び味わう羽目になる。


「……どうすればいいんだよ、俺も、お前も……」


 気絶したまま目を覚まさないキカ子。キカと同じようで、キカなのに、どことなく違う。同じで違う。異同同居の、ハイブリッドな存在。

 唐突ではあるが、日月キカは、男だ。男だったはずなんだ。更に唐突だが、日月キカは滅茶苦茶可愛い。

 滅茶苦茶可愛くて、男だったなんて思っていたら、何の因果か、突然女になりやがった。それって、一体全体どんなマジックだ。


「誰なんだ、お前は」


 その綺麗に整った睫毛の並ぶ瞼や、緩く閉じられたピンク色の唇に、俺は思わず視線を奪われてしまう。

 その瞼に薄く切れ目が入る。彼とは異質の、赤い光を帯びた瞳が俺をのぞいて、目覚めの気怠げな色と情感とを映して見せる。


「……ケー……タ……」


 俺を呼ぶ、かすれる声。近くに感じる吐息。彼女は、何という不思議な色の視線をするのだろう。

 キカ子は何故か上体を起こして、更に顔を俺へと近付けてくる。血濡れの瞳に、血濡れの口唇。そんなビジョンを幻視する。

 そんな。まるで、俺は吸い寄せられるかのように。これは、〈魅了〉だろうか。魔法めいた意味での。

 俺は、ごく自然に彼女に覆い被さるようにして、唇を触れて、重ねて、合わせていた。疎ましい金縛りの呪詛に邪魔されないよう、触れないように、唇同士だけ、互いに。

 感触を確かめた。背中に手を回し、両手で抱いて、引いて手繰り寄せた。

 これは、キスだ。

 他人と気持ちを交換し合う行為。はじめての行為。肩に腰に、再度抱きしめる。丸く、柔らかな感触。

 夢中だった。舌の絡まりに気付いた時、ふと思い出して、カッと目を見開いた。びっくりしてしまい、少し離れる。舌に残った彼女のにおい。混乱の渦に巡り巡る感情。


「……ん………………けー……た……」


 俺は、一体何をしてしまったのだろう。何て事をしてしまったのだろう。


「――――――――あ」


 とてつもない異物が、何故かこのタイミングで、この尋常じゃなくなってしまった世界を、どうしてなのか再変革してくれた。

 今の「あ」は、キカ子の声じゃない。ぎこちない数ノッチ分の挙動で、カチリ、カチリ、ゆっくりと顔を上げ視線を向けると。

 キカ子の顔面で死角になっていたそのうしろから、口を半開きにしたまま棒立ち茫然の、佐村満月の姿。

 その手に握りしめていた紙切れか何かが、地面にぽとりと落ちた。

 手紙? 俺のあまり万能ではない想像力がそれをキカに渡すであろう満月のラブレターへと繋ぎ合わせるのに、大体十数秒の遅延が発生する。ラブレターとは、何と原始的な。

 しかしその十数秒の間、俺は満月の古典ラブロマンスよりも重大にして重体な現実に打ちのめされ、社会的死を迎えかねないダメージを負う結末に直面するのだ。

 俺の目の前にいるはずのキカが、いつものキカだった。嗚呼、何といういつものキカ。生まれたまんまの。男の。


「――――まっ……まさかの  B  L  展  開   !  ?  」


 誤解の傷口を全身全霊をもって広げてくれる満月のそんな台詞に、鷲掴みされた心臓の感触というファンタジーを思わずリアルに感じてしまった。


「いや、それはちが――」


 しかし、男同士で抱き合ったままの体勢。男同士で熱く深く重ね終えた唇を名残惜しそうに離し、男同士で頬赤らめ見つめ合ったという情事の直後。

 男同士ごときが、カレシ居ない歴イコール年齢・未だに処女(自称)な我が妹に一体何をどう釈明できようか。


「わ、うわぁ!」


 思わずキカの事を引き剥がしてしまう。やや乱暴な突き放しにも、キカは未だ上気した頬を伴って、ぽかんと思考停止したままの表情だ。

 何故こいつは元の姿に戻っているのだろうか。いや、もしかしてもしかすると、そもそもキスする前までが全部夢まぼろしだったとか。マジでそんな超展開ありなのか。


「そ、そうか、ごめん、兄よ。この妹には話せない事情……いや、情事だったね」


 満月は手前勝手に切なげな失恋の表情を顔に浮かばせて、露骨な演技くささで涙ぐみはじめる。その演出がおのれ自身の失恋を誤魔化すためなのならまだ許せるが、俺とキカの関係を勘違いしてのものだったら、エクストリームに誤解され過ぎだ。


「あたし大どんでん返し。ラスボスはまさかの、兄。嗚呼、愛しの日月センパイ……」


 そのまま満月は落としたラブレターを後ろ手に拾うと、露骨に悲しげな表情を見せながらじりじり後ずさりをはじめ――


「二人とも、お幸せにッ!!」


 ――脱兎のごとく走り去って行った。

 坂薙が開け放って行ったドアの向こう側へと、我が妹、今世紀最大と思われる全力疾走で。

 俺という小さな人間は、深淵なる事件が起こったこの部室の中心で、声続く限りの断末魔を絶叫した。

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