第7話

 体育館を駆けずり回る同級生達の姿を無心に眺めていた。きびすを返すたびに上履きのゴム底がきゅっと甲高い音を立てて、残響とその跳ね返りとが方々へと鳴いては消えて。光沢のギラつく床に複雑な影を落とす者達が、俺の前を何人も走り去ってゆく。

 何かの競技に耽っているわけではない。本時限は昨日にあらかじめ自習の旨を伝えられており、予想通りのフリーダム溢れる空間が、日頃の学校教育より解き放たれたクラスメート達によって形成されているだけだ。

 ずさんな学校である。お目付け役の教育者など、この場に一人もいやがらない。ま、こちらにとってはかえって好都合だ。

 チラと視線を巡らせる。くだんの坂薙は、何やら談笑に湧く女子連中の輪に取り囲まれており、近寄りがたい陣形の渦中といった印象だ。

 一方のキカ。こちらが先んじて伝えておいたタイミングで、キカは集まりを抜けてこちらへとやってきた。


「――――来たけど、ケータ。用事って、何かな?」

「……ああ」


 まだこちらからは何も説明していないので、キカの小首は疑問符の重みでちょっぴり傾いてしまう。

 とりあえず面子は片方だけ揃った。坂薙の方は後追いでどうにかやるしかないだろう。

 さあ、作戦開始だ。


「あのさ、昨日話した事についてなんだけどな。今いいか?」


 キカは事情がよくわからないなりに、こちらがの醸し出している迫真性を真に受けてくれたのか、ただ黙って頷いてくれた。


 妹の事など、すっかり脳裏から消え失せてしまっていた。俺の至極プライベートな問題事項の序列的に。

 目下にぶら下がるのが、今まさに俺の目の前にいる、日月キカ当人の抱える問題。転じて、坂薙鈴乃の問題であり、彼女がはじめて俺に託した問題でもある。

 本音を隠さずにおけば、彼に対するどこか気持ちの悪い感情が胸の奥底でわだかまるのを覚えていた。これは偏見だ。今更否定しようもなく、また自分の内心から真っ先に淘汰されるべき、汚れた感情。

 彼が女性的に見える一瞬と、能動的に女性たろうとするのは全く別の概念なのだと、俺自身の感覚がそう告げた結果なのだろう。キカは容姿が整っているからこそ、その気持ち悪さに向けられる意識が削がれてはいるが、それは自分自身が本質から目を背けているだけなのかもしれない。

 だから俺はこの時、これは間違いだ、と何故か思ってしまったのだ。キカが女性になろうとするのは間違いで、彼の何かの勘違いで、それは正さねばならない。正さねば、正しさだなんて、何の根拠も権限も持たないのに、愚かしくもそう思ってしまったのだ。

 でも、何て声をかけてやればいいかわからなかった。俺自身の抱える問題じゃないから、何もアドバイスしてやれない。男らしくしろとか、女っぽいから女になれとか、ただ煽る事にしかならない、って思ってしまって。

 たった一つだけ、光があった。キカはただずっと宙ぶらりん、ふらついたままだけなんだと思った。ならば、あるべき鞘へと収まるべきなのだ。男だ女だの問題の前に、関係性の一片としての彼がより確かであるために。

 そうじゃなきゃ、嘘だろう。


 俺が昨日頑張って脳裏に描いた作戦とは、こうだ。

 第一フェーズ。あらかじめ把握していた体育の自習授業を機会として利用し、キカと坂薙をそれぞれ別々に連れ出す。

 第二フェーズ。二人を体育倉庫に押し込め、二人きりの状態にする。

 最終フェーズ。それは……どうなるのだろう、どうあるべきなのだろう。

 キカと坂薙は、恋人同士として互いにちゃんと付き合うべきだ。俺はそう考えた。そうなる事で、ふわふわとしたキカも地に足が付くに違いない。確かなパートナーを得れば、あらためて自己の確立に至るのではないか。それは合わせ鏡のように、二人並び立つ事でしか得られないもの。

 このアイディアは、先日満月が言った「二人きりにさせろ」「レースに参加させろ」という暴論から拝借したものだ。機会をこちらからお膳立てして、このレースに終止符を打ってやる。圧倒的な大団円で締めくくってやろうじゃないか。

 日月キカと坂薙鈴乃が晴れて男女交際を結ぶ関係に相なれば、カレは自身のあやふやさな性差を昇華させる一縷の光を見い出せるかもしれないし、カノジョも実存を得ない恋愛連鎖の罠から解き放たれるに違いない。

 何よりそうなる事で、自分自身が――佐村啓太が二人の単なる近しい友人である現実をはっきりと突き付けられたかった。三角関係なんていう不確かな関係性の水面に、俺はいつまでも浮かんでいたくはなかった。俺も坂薙の相手がキカなら、辛いが納得できる。


「彼女に嘘偽りない気持ちを……ちゃんとサナギちゃんが好きだって伝えろ」


 キカには、そう強く迫るつもりだった。


   * * * * *


 中庭を抜けた先に、コンクリート製の旧クラブハウス棟が建ち並ぶ一角がある。その並びの一室、男子テニス部室の前に俺とキカは立ち、ポケットから取り出した鍵を使って入口のドアを開け放った。鍵は、実は念のためと前もって準備していたものだ。


「男子テニス部はな、実は俺が一時期、興味本位で所属していたんだ」

「え……ケータ、テニスやれるひとだったの?」

「まさか。だから興味本位だよ、興味本位。ウォームアップとボール拾いとばっかで、肝心のテニスなんて碌にわからないまま終わった。因みに男子は部員減で昨年廃部」

「ええっ、知らなかった! さわやかに意外性……」

「やかましい」


 俺がこんな場所で一体何をしでかしはじめるものかと、若干不安げな顔をして立ったままのキカ。

 おそらく半年以上は使用されていなかった部室の中はすこぶる埃っぽいにおいの空気で充満している。無骨に組み上げられた金属棚には、持ち主不在のシューズの片っ方、結局使われなかったストリングに、破れたバッグやらが無造作に置き去りにされたまま。

 まず一度窓を開け換気しようかと考えたが、そんな余裕もないようだった。

 気配の変化にふと振り向くと、いつの間にか体操着姿の坂薙が、軽く呼吸を荒げて入口の前に立ち尽くしていた。俺達二人が同時に授業からエスケープしたので、不審に思って追ってきたのだろう。こちらとしても呼びに戻る手間が省けて好都合だ。

 坂薙は表情をやや強ばらせているようにも見えるが、何も言わない。俺の方があまり動じていないのに含みを感じ取ったからかもしれない。


「……坂薙も、入って」


 招き入れる。俺はキカの肩をトンと押し――


「坂薙に、ちゃんと話せ。本気で、お前の気持ちを伝える。彼女に。全部。好きだって」


 ――そんな俺の低い耳打ちに、キカはハッと目を見開いたのがわかった。

 無言に向き合う二人を置き去りに、俺は部室を去った。


   * * * * *


 これでよかったんだと自分自身を納得させるのに、わずか数分。納得させたはずの結論に心揺らぐのに、更に数分。

 みっともない逡巡を十数ループほどリピートさせた頃、そんな不毛さを断ち切ったのは、授業終了を告げるチャイムの電子音だった。

 しかし、遅い。あまりにも遅過ぎる。あれから既に十五分以上は経っているはずだ。にもかかわらず、少なくとも部室の外から観察し続けた限りでは、あの二人は何の動きも見せていない。

 お互いにうまく言いたい事を切り出せず、ぎこちない会話のやり取りがなされているのかもしれない。確かに彼らの事、そんな画を想像するのは容易だ。

 ただ、休み時間に入ってしまったとなると、事情がそれを許さなくなるだろう。

 反対側の校舎棟にもたれ屈み込んだままだった俺は、おもむろに立ち上がって部室のドアの前へと戻った。

 物音や話声は……ドア越しには特に聴こえてこない。やむを得いだろう。二度ノックして、二人に呼びかけてみる。


「おーい、チャイム鳴ったぞ。どうした?」


 反応は、何故か返ってこない。


「…………キカ? 坂薙?」


 無意識にドアノブを手にして、すぐさま違和感に気付く事になった。中から施錠されている。ほんのわずかに力を加えただけで、ノブの不自然な強ばりが手に伝わってきた。

 どうして、何の理由で? そこまで話を邪魔されたくないのか。

 クラブハウスの周辺にも休み時間のざわつきが聴こえはじめていた。あまり目立つ行動を取れば、いかに人の気配が薄いエリアとはいえ不信がられる可能性だってある。

 ポケットから部室の鍵を取り出し、慎重にそれを鍵穴へと挿し込んだところで、俺に一瞬の躊躇が生まれてしまった。

 そこで不意打ちを食らう事になる。何か大きな物体をひっくり返したような、鈍い物音。続いて、床にラケットを散らばらせたらしき状況が、ドア一枚またいで伝わってきた。

 急激に湧いた焦りが躊躇いを振り切って、俺はそのままシリンダーをひねるが、錠は不自然に硬く、わずかにも回す事を拒んでくる。

 もしかして、中で二人に何かあったのか。いや、それ以前の問題として、解錠できなくなった理屈がおかしい。接着剤で埋めるでもして、内部構造的に解錠不能にでもしたのだろうか? どうやって? そんな馬鹿げた展開があり得るものか。

 胸騒ぎの鼓動に、全身が熱を帯びはじめるのを感じた。こうなったらドアを乱暴に蹴破ってでも強行突破する他ないのではないか、などと結論を出しかけた直後、こちらの背後に生徒達が通り過ぎてゆく気配を感じ取ってしまった。

 ええい、畜生。舌打ちして、俺は裏手に走ってまわった。

 クラブハウス棟の裏手からは、やや高い位置にある窓が目に入る。換気のためか運良く窓が開け放たれていた。一方、背後にはコンクリートの高い塀がそびえ、両者の間に植えられた更に背丈のある樹木が、木陰をまばらに落としている。

 無茶を通すしかないのか、とぼやいた。俺は一旦後ずさると、うしろの塀を蹴っ飛ばすように助走をつけ、跳躍のため大股気味に疾走した。クラブハウス棟のザラついた壁面を靴底で捉えると、助走で余った勢いを追い風に、壁面側に上体を張り付かせ、軸足を蹴って更に高く駆け上がる。

 たった一度の挑戦でうまく窓枠を掴む事ができたのも、幸運が味方したのかもしれない。

 あとは両肘で窓のサッシにくさびを穿つようにしがみついて、


「――ぬぅうおぉぉぉぉぉぉっ――――――」


 硬質なサッシに当てられ胸やあちこちが痛むのもなんのその、火事場の何とやらでよじ登ってゆき――


「――――キャァアアアアアアッッ!!」

「ぬ、うおわッ――――――」


 ――女性……坂薙の……悲鳴!?

 咄嗟の事に気を取られたのが災いして、体勢を崩した俺は部室側に転落してしまった。


   * * * * *


「………………い……っ……っててて………………」


 ちょうど落下地点に配置されていた木製の長机に上半身から落ちバウンドして、たどり着いた果ての、床。人体とは実はこうも跳ねるものなのだなと、立ちのぼる土埃のにおいを嗅ぎながら。そんな悠長に状況分析する余裕などなく、死ぬほどの恐怖をほんの一瞬味わったのちに、それすら上回る驚愕を体験して――


「――――なっ」


 ――俺は硬直した。


「なななななななな…………は? えっ!?」


 言ってから魚類の真似事のごとく上下の口唇をパクパクと、しかしこれは前衛的なギャグでも何でもなく、正気でいるのすら困難なほどの超現実を目の当たりにした、所謂アレルギー反応みたいなものだ。

 テニス部室の中で繰り広げられていた、あまりにあまりのあまりある有様に、俺という小さき人間の明け透けな自我は、さながら幽体離脱みたいな、とにかく制御不能のヤバい領域の地平まですっ飛んで行ってしまった。

 部室の真ん中に、坂薙鈴乃がぽつんと立ち尽くしている。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――半裸で。

 アンダーの白い半袖シャツが片っ方だけ脱げて、裏返って左手首に引っかかり、だらしなくぶら下がったまんま地面の埃に汚れていた。

 露わにされた坂薙の肌に、肩から臍に至るまで、うっすらと総毛立つ毛穴。白地にピンク色のステッチの施されたブラの半割れから、いたく女性的な双丘のがのぞいている。そんな状態なのに、彼女はそれを覆い隠そうともしない。

 坂薙の目線は、黒く虚ろに、しかしひたむきに、ジッと注がれる。ただただ一点へと。

 その向かう先――壁の棚際に、日月キカが尻餅をついていた。言葉なく静かに、涙で頬を濡らしながら、生気の抜け落ちた瞳を面にはめ、頭を抱えたまま。


「…………お前……キカ……お……い?」


 ようやく絞り出した言葉は、大して要領を得ない。どういう状況なのだろう、これは。キカが坂薙に乱暴を……先程の悲鳴……そういう事なのだろうか。

 正直、彼に限って言えば、想像だにできない行動だ。以前彼は自らの性欲について俺に言及した事だってあった。彼も普通の思春期の男の子だ。けれども、あいつはここまで歯止めを知らぬはずではない。


「――――泣きたいのはッ!」


 坂薙が、突然声を荒らげた。そのまま手首に引っかかったままだった体操着を掴んで、キカ目がけて乱暴に投げ付ける。それは小さく丸められなかったためにか、的を射ない軌道を描いてキカの足下にかかってしまった。


「泣きたいのはこっちだ馬鹿ぁッ!!」


 両手をぎゅっと強ばらせ、坂薙が今までに見せた事もないような程に本能的な感情をぶつける。そのまま顔をぐしゃぐしゃに崩して、それは隠さずもただ声だけ、グッと嗚咽をこらえはじめた。


「…………あんな……あんな……女みたい……な……悲鳴……あげ……やがって……うっ…………どうして……なんでなんだよぅ……私いったい……どうしたら……いいんだよぅ……ぐすっ」


 悲鳴は、あれは……キカの……ものだって?

 キカの方に視線を戻す。最初に見た時と変わらぬ茫然とした表情のままで、焦点を失い、地に伏せられた瞳。余程のショックを受けたようで、そこで微動だにしない。


「お、おい、キカ、大丈夫なのか……」


 俺はキカの傍らに駆け寄り、肩に触れ、ゆっくりと揺する。


「坂薙も、大丈夫……なのか?」


 体操着を拾い上げて埃を叩き、あちらを振り返らぬよう、背中越しに彼女をうかがう。


「……………………うん……」


 湿りきった鼻の鳴る音と、さわと肌ずりの音。だが坂薙はその場をまだ動こうとはしないようで、この状況で上着を手渡すのは困難か。


「…………ごめん……私……。なんて酷い女……」


 予想とは真逆の釈明が、何故か彼女の方から返ってきた。未だ声は震えるようにして、坂薙はただ「私は大丈夫、喧嘩しただけ」と付け足す。

 まさか、実際は坂薙側からキカに迫ったと言いたいのだろうか。服も自ら脱いで。そうまでさせた坂薙をキカは悲鳴を上げて拒絶し、彼女は破れた恋と失意のどん底に今、打ちひしがれている、と。

 そんな推察は、両者の立つ関係の上では、自然と筋が通った。

 ドクン。ソレを知って、心臓が脈打った。高く、ひときわ高く。

 これは悲劇だ。そう、悲劇。そうだとして、これを仕向けたのは、他ならぬ俺だ。

 ドクン。血。血の気が、厭に手足にざわめいて、自身を支える確かさがふらついてくる。

 キカの肩に手を置き、俺もこいつの前に屈み込む。


「……キ…………カ…………?」


 トン、とキカの手のひらが、そっと俺を押し退けた。俺は何故か自然によろめいてしまい、抗えず地面に突っ伏してしまう。

 起き上がったキカが、早歩きで坂薙の元へと駆け寄っていく。力強い足取り、程度のものではない。意志に欠けていたはずの瞳はより濃い血液を得たように爛然と輝いて、差し伸ばされた手が坂薙の両頬を捉える。

 そっと手繰り寄せられる唇と、坂薙の感情。

 いつの間にかキカは坂薙の肩を抱いて。近く抱き寄せて。坂薙も見初められ、吸い込まれるように。

 俺も坂薙も、誰もキカには抵抗しない。抵抗できない。

 違う。これは、違う。異質な光景、何かの罠かあるいは夢だとようやく気付き、抗いの意識がくすぶりはじめた。

 坂薙の喉が軽くわななき、目は驚愕の色をなして見開かれている。キカは彼女の喉笛に、確かめるように鼻筋を沿わせたあと、浅く口づけて、脇に舌をわずかに這わせ。

 その皮膚を甘噛みして、歯で薄く切り裂き、剥き出しした犬歯をそこに埋めてゆく。

 坂薙鈴乃を深く浅く愛でるように、赤い血を啜り。暖かに彼女の内に息づくものを、ちろと嘗め取っていった。


 俺の眼前に突如繰り広げられた、グロテスクな映像。受けたあまりの衝撃に、自分自身の意識からあるべき手綱が離れてしまう。

 キカ。そう唇を動かす事を、この力場が許さない。

 口元を手の甲で拭うと、キカがこちらを振り返る。キカに抱き留められていた坂薙は朦朧とした目付きのまま力尽きくずおれて、地面にへたり込んでしまった。首筋にうっすらと、傷痕と血の赤が軌跡を辿らせている。夢だとして、鮮烈なまでのあの赤は、夢であるはずもない。

 ドクン。

 像が、歪んだ。ブレる輪郭と、キカと俺達の境界と。

 ブン……と、世界が震える。大気に触れる皮膚がぞくりと粟立ち、何もかもの有様が変わる瞬間を、空気の変質を警告していた。

 覆る。何かが、それは音もなく。

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