第5話

 帰宅部のキカを先に帰し、坂薙はまだ保健室に居残っていた。

 夕方に淡く照らされる世界に二人、いいムード。実際はそういう状況でない事を、俺もあらかじめ理解している。坂薙がわざわざここに居残った理由が何なのか、大体予測できてしまっているからだ。坂薙自身も、こういう状況になるのをあえて待っていたのだ。


「……あのな佐村、相談事、があるんだ。話していいか?」


 言葉にはせず、ゆっくり頷いて返す。意志を確かめ合うように。


「昨日。キカと、喧嘩した」


 端的に、そう切り出した。ああ、と雑念なく返す。


「たださ、喧嘩はな……喧嘩そのものは日常茶飯事だし、この際どうだっていいんだ。今回は、喧嘩になった理由の方が問題でさ」

「そう。どういう?」


 坂薙は目を閉じ胸元に手を置いて、すうと深呼吸してみせる。儀礼的な動作。


「いやな、どう話してよいものやら。佐村のような朴念仁にこの私が相談する羽目になるだなんて……ふふ、さすがにの私も困り果てている」


 笑顔ではない。ともすれば自嘲的な、坂薙にしては珍しい姿を目の当たりにしている。

 前髪を留めている、坂薙の赤い髪留め。それをパチンと外す。手のひらに乗っけて、俺に差し出して見せる。くれるという意味ではないと感じ、代わりに視線を寄越してやった。


「これはな、キカの母親から譲り受けたものだ」


 髪留めをきゅっと握りしめ、それを見つめる坂薙の表情は、憂いのものだろうか。

 そのまま丸椅子に腰掛けて、ベッドの俺に背を向ける。


「あいつはな。生まれる前に父親となるはずの男をなくした……のだそうだ。死別、という意味ではないらしい。まあ、私らが知る権利はない事だから、それはいい」


 髪留めをぐりぐりといじくり回す。


「あいつは小さい頃、母親と二人で外国に住んでいたらしい。母親はハーフだから、いたのはおばあちゃん側の祖国なんだそうな。母親はそこで、女手一つでキカを育ててきた。七歳くらいの頃に結局日本に戻ってきて、そのあと私と出会った」

「そう……だったんだ」

「キカにとってさ、あの母親が全てだったんだ。あいつの言葉遣いがああなのは母親譲りだからだって、お前にも話した事、あったっけか?」

「ああ、直接じゃないけど、なんとなくわかってた」


 断片的な情報から、自然とそういうものだと理解していた。


「キカのたどたどしい女言葉は、元々日本語が達者でない母親と二人きりの実生活が長かった経緯から獲得したものだ。でも言葉だけじゃない。価値観もそう。おば様は小説家をやっておられるのだけど、なかなかに不思議な女性でね」


 俺自身はキカの母親がいかなる人物かを知らない。彼の自宅に立ち寄った経験もなく、全ては坂薙からの伝聞に頼るのみだ。おそらく坂薙が言うように、強くそして不思議な魅力を持った女性なのだろう。キカの姿を見ていると、色々とレールから外れてはいても、少なくとも間違った育て方をされてきたようには思えないからだ。


「あの人は、綺麗な女性だ。明るくて、愛嬌があって、洒落っ気があって。服やアクセサリーを部屋いっぱい持っていて、実はこれも彼女からいただいてしまったものなんだ」


 そう言って坂薙は髪留めを再び髪の毛に咲かせて見せる。とても嬉しそうだ。素直に、そんな坂薙を素敵だと思った。


「なかなか可愛いだろう? キカのあの黒いリボンだってそうなんだ。あれはな、実はキカが勝手に拝借したんだって。あいつ、あれが相当欲しかったらしい。お母さんっ子だったから、母親が身に付けているものが自分にも欲しかったんだろうな。で、おば様はあとで知って仰天してた。あれワタシのだーかえせー、って」


 その口真似らしきものを少しだけ披露し、直後、坂薙は表情を変えて結論を伝えた。


「――――あのな、キカが女装に目覚めた」


 坂薙の説明によれば、大まかな経緯はこうだった。

 昨日、キカは学校を休んだ。これは風邪による病欠だ。夕方、坂薙が予告なしにキカの自宅マンションへと立ち寄って、そのまま母親に上がらせてもらったらしい。そこでキカの部屋に入ったが、肝心の本人の姿が見当たらない。

 母親のクローゼットで、母親の服を着飾ったキカと対面する事になった。勿論、母親の目を盗んでの行為だった。

 坂薙はその事を母親には秘密にし、キカをあれこれ問い質したらしいが、キカは口をつぐみ、何一つ釈明しなかったのだという。

 一時の気まぐれや冗談の類ではない。その時の彼の姿はそれは女らしいもので、笑って見過ごせない、より深刻な問題をはらんでいるのだと、坂薙は憂慮しているのだ。

 でも、それを幼馴染みの自分には一言も相談してくれない。今までに、一言さえも相談してくれなかった。それが悔しくて許せなくて、その時はキカを怒鳴りつけて、何の問題も解決させずに一人逃げ帰ってきてしまった。そういう話だった。

 元からやや女性寄りだったキカが、ついに女装にまで手を出した。その姿が皆にバレるようになれば、また昔みたいに周りの人間達から奇異の目を向けられ、いじめれられてしまうのではないか。

 その不安に耐えられず、男友達が他にいない坂薙は俺に相談した。幼馴染みとの微妙な距離に、彼女は今思い詰めているのだ。

 どうか、あいつの助けになってやってくれないか。頼む。

 異性としての限界を吐露し、同性である俺に、キカの助けになってやってほしい。そういう願い。

 淡々と耳を傾け続けた俺は笑いも憤りも感じず、空虚感のみを胸の内に引きずったまま、重い足取りで自宅へと帰る事になった。

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