第4話

 天井を見上げていた。いつから意識があったのか定かではない。超広角レンズを彷彿させる、歪んだ球状に映し出されている視野。全身がロボットのようで、軋む関節の動かし方をすぐには思い出せずにいる。甚だしい違和。

 そんなこちらをのぞき込んでいる連中の顔ぶれが果たして何者なのか、わずかとは言いにくい間を置いて、ようやく思考を巡らせるに至った。

 あまり清潔そうに感じられないシーツの肌触り。汗。開け放たれたままの窓に、重なり合いはためく薄茶け褪せた色のカーテン。靴下が両方とも脱げてしまっている。

 風のにおいに、ふわり髪の毛の束が流れて混じる。黒いリボン。それは確か母親から譲り受けたものらしい。透き通る程に白い肌には、青い瞳が二つと長い睫毛、左の目元のほくろ。

 キカが心配げな表情を張り付かせて、こちらをのぞき込んできた。


「「――――じょ、女性恐怖症!?」」


 滅多にないハーモニーを目の前で聞かされてしまった。


「保健室で大声」


 しぃ、と人差し指を口元に立てて、豆鉄砲で撃ち抜かれたみたいに驚天動地な面構えの二人をいさめておく。どうか穏便にこの状況を把握していただけると幸いだ、個人的に。

 消毒薬の臭気を気付け代わりに、反発力のはっきりしないベッドから上体を起こす。まだ全身の感覚からは、他人事のような空々しさが抜けきっていない。制服も皺くちゃで、そこには坂薙の胸に抱かれた幸福の残りものなど跡形もなし。

 気絶して保健室で目覚めるなんて状況は、さすがに我が人生十七年の中でもはじめての経験だった。

 階段で足を踏み外して転落しかけた俺。背後にいた坂薙が間一髪のフォローをしてくれたものの、実はこの俺、そのような状況には不的確な体質を抱えていたのである。


「まあ、なんだ。女性恐怖症ってのはほんとは正確な表現じゃないんだけど、女の人の事が……直感的に怖いのかな、要するに」


 女性恐怖症。異性自体は好きだけど身体の方がそれを受け付けなくて、女の人に近付かれたり裸を見てしまったりすると、急に気分が悪くなったり鼻血を出して倒れてしまうような、よく大げさに設定付けられるアレの事だ。

 そしてそれだと不正確と言ったが、ワンフレーズで的確に自分の抱える症状を説明するとなると、大体そのような表現に落ち着かざるを得ない。


「そうか……あの私、ごめん」


 言葉を詰まらせ、坂薙が急にめそめそしはじめる。


「…………でもあの時は私……どうしようもなかった……んだ」


 彼女の突然の変化を汲み取れず、面食らってしまった。そこまでショックだったのか。


「いや、坂薙わかったから! 気にしないでくれ。きちんと話しておかなかった俺が、その……悪いんだよ」

「なんか啓太……様子おかしくて……急に力抜けて……重たいし……私ちから弱くて全然支えられないし……ぐすっ……動かなくなって、びっくりして心臓麻痺でも起こしたのかと……ふえぇぇ」


 いきなり下の名前で呼ばれ、思わずドキッとさせられてしまう。そんな彼女への愛情のような気持ちが沸き上がってきて、何とか慰めてやれないかと坂薙の頭を撫でてやりたい衝動に駆られてしまった。


「サナギちゃん」


 勿論そうするのは、この俺には無理だった。代わりにキカが彼女を傍から撫でてやってくれて、あらためて理解する事になる。

 これが俺と彼女、お互いの、限界すれすれの距離感なのだと思う。それを現実的に見せ付けられると、一層胸が重く苦しい。


「ところでケータ、なぜ? なぜなぜ? 人体のふしぎ!」


 キカの目が好奇の色を帯び、ベッドを軋ませて、ずずいっと俺の顔に迫ってくる。あんな事があったのに、こいつは。っていうか近い。


「怖いっても、異性の見た目が怖いとか、苦手なわけじゃない。異性に極端に近付かれたり、ちょっと触られたりすると……なんか心臓がビクッとして、電撃が走って、頭がくらくらしてくるんだ。金縛りの一種、って俺は思ってる」


 結局これは、精神的な病だ。接する相手に対する自分自身の気の持ち様が、症状に強く作用しているのだろう。だから、このあたりは話がややこしくなるため、あえて坂薙達には伏せておく。

 要するに俺は、坂薙鈴乃という異性の存在が気になっているのだろう。


「――――トラウマ……とか」


 いつの間にか落ち着きを取り戻していた坂薙は顎に手を置いて、何故か冷静に状況分析めいた真似をやりはじめた。キカはともかく坂薙には金縛りの事を絶対不自然に思われるかと身構えていたのだが、彼女の目付きは不思議とマジでやはり面食らわされる。


「トラウマ……恐怖……女」


 そのままベッドの傍らをうろうろ往復する。思考するロボットのように、ぐるぐると。


「トラウマ、恐怖、女、朴念仁、トラウマ、朴念――――うわっ、すまない!」

「れっつデリカシー、サナギちゃん? ひゃうっ」


 謎のガッツポーズ、続く事わずか一秒。直後、音速とも思える俊敏さで背後にまわった坂薙による制裁の膝蹴りが、キカの尻の谷間へとめり込んだ。


「場を面白くすな!」


 キカは悶絶の声を発し、そのまま脱力して俺の胸板にすがり、上半身からしな垂れかかってくる。


「にゅ、ぐにゃあ……」


 呻く。近い。飾り気なく中性的な、人間の髪の毛のにおい。


「ああ、ちなみにお前にはぜんっぜん反応しねえよ」


 乙女チックに瞳をウルつかせるキカをあしらい、淡々と賢者のごとく、重要な解説を補足しておいた。

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