第一章 瞬く世界、日月キカは変わりました

第3話

 事件は、休み時間中に起こった。昼下がりの授業を平穏無事に一つ乗り越え、睡魔上限値の峠を過ぎ去った頃合い。

 元々の経緯はこうだ。出席名簿順の〈サ行〉繋がりで日直当番が回ってきた佐村啓太ことこの俺と坂薙にキカが同行して、プリント束を三等分し、二階の教室へと運ぶ道中の事。

 階段で先を進むキカが束を崩しそうになって、俺が横からフォローしていた。


「――――おーい、何もたついてるんだ、さっさと行け。うしろ、つかえてるだろ――」


 背後の方から当の坂薙が、ほんのりと苛立ち混じりの声を浴びせてくる。背中に向け伸ばされる彼女の手の気配を感じ取り、俺は反射的に振り返っていた。さる個人的な事情があって、俺は彼女に触れられるのを極端に恐れていたからだ。


「な……何だ佐村、そこまで驚かなくてもいいのに。失礼な奴だな」


 三人が上る階段の左側をぞろぞろと体操着姿の女子集団が下ってゆく。俺達がこんな場所で立ち止まったせいで、通行を邪魔している格好になっていた。


「ああ、すまん。殴られるかと思った」

「さり気なく人を暴力女みたいに言うな」


 彼女の日頃の言動を踏まえた俺のボケに対する的確なツッコミ――と言うより本気で怒ったらしい。けど、まあいい。彼女はそのうちケロリと忘れてくれるだろう。

 階段を上り終え二階にたどり着いた瞬間、少々面倒な集団が俺とキカの視界に入った。


「――――あれっ? ちょっと、そこの君」


 こちらに背を向け校内掲示板の張り紙に何かを書き加えていた上級生の一人が、振り向きざまに俺達の姿を目撃するや否や、慌ててそんな台詞を吐き出してきた。

 おそらく、生徒会の先輩方。彼らのあとにつき添う同級生に二三見覚えのある顔ぶれが混じっていたので、雰囲気的にそうだとわかった。

 キカは上級生の声の大きさにビクッと肩を震わせ、抱きかかえていたプリント束を一部散らばらせてしまう。偶然的に、第三者の手で開け放たれた廊下の窓から吹き抜ける秋風。プリントは風圧にそよいで舞い上がり、階下まで降ってゆく。


「ねえ君、ちょっといいかな。男子がそんな髪の毛ってさ、校則的にどうかと思うよ?」


 その上級生は、好青年そうな顔付きにきわめて事務的な表情を張り付かせ、体格のよさそうな胸板を張りながら、キカの元へとゆっくり詰め寄ってくる。


「あのう……」


 キカは何て受け答えればよいものか気が回らず、たちまち口ごもってしまった。こういう状況に追い詰められた時のキカは、決して俺や坂薙の方を見ようとしない。頼ったり、助けを請おうとせず、心の余裕を失って塞ぎ込んでしまう。


「色、染めてるよね? いや抜いているのかな。まあどっちでもいいけど、そこまで堂々と髪の毛キンキラさせてると、さすがに我々としても見過ごすわけにはいかないかな。自由な校風というのも自制心あってのものだって、始業式で校長先生が仰っていたの、覚えていないかな?」


 相手は上級生だし、あちらなりに正当な理由も持っている。俺がキカの前に割って入って抗議する事が得策だとして、穏便にやりこめるためのバックアップが欲しいところだ。

 厭な空気を肌に感じ取り、俺は背後の坂薙にも助力を求めようと振り返った、その瞬間の事だった。


「それに、こんな女みたいに髪伸ばしてさ――」


 言いながら上級生は俯いたままのキカの傍らにまわり、黒いリボンで束ねた後ろ髪に手を伸ばした。キカはそれに驚いて、キッと上級生の方に振り返ってしまう。

 一方の坂薙は、散らばったプリントをいつの間にか拾い集めてくれて、下の踊り場の方からこちらに上がってくるところだった。


「あれ……君、ひょっとして……女の子?」


 それは、無意識からのものだったのかもしれない。キカの腕か肩でも掴もうとしたのだろうか、再び伸ばされた手。拒絶反応をもよおし、じりと後ずさってしまうキカ。

 彼を支えていた踵は突然在り処をなくし、上階側からうしろに倒れ込むように階段を踏み外す様。ぐらりと体勢が揺らぐ、早回しのスローモーション。ひゃ、とキカの喉が空振りの音を立てる。

 幸運という魔法めいた現象が働くのは、大抵は咄嗟の体験に対しての場合が多い。

 背後にいた俺が、運良くキカの身体を支えていた。上階側からは上級生の方も、瞬時の判断でキカの手首を握りしめている。

 ただ、運良く、というのは半分だけ誤りだった。それがキカに限定してのものだと気付いたのは、その直後の事。


「――――――――――うわ」


 キカの全体重を受け止めた反動に俺自身が階段を踏み外し、誰にも支えられる事なく、転げ落ちる事態と相なったのである。

 こんなの、冗談じゃない。走馬燈すら回らない。階段の上じゃ、受け身の体勢なんて何の意味もない。大怪我だけで済むか、否か。

 二度目の幸運と不幸が同時に押し寄せたのは、更にその一秒後。手すりも何もない宙にむなしくも手を伸ばし、片足のつま先だけでつんのめるように体勢を維持しようと踏ん張って、手をぐるぐるとかくイメージを脳裏に浮かべ、それらが脆くも徒労に終わったその先の、ついえてしまうかもしれない直近の未来。


「!? おい――――――」


 運命の女神、坂薙鈴乃その人が背後から俺の全身を抱き留めてくれたのだ。

 しかし、俺にとっての運命の女神という存在があったとするなら、彼女は死神も兼任するのだろう。そんな究極的結末。


「――――――――ッ!!??」


 坂薙が俺に触れた瞬間、そこを接点に、電流のような衝撃が俺の全身くまなくほとばしった。悲鳴を出すために声帯が機能するのすら、麻痺によって阻止されてしまう。


「ふぅ……危なかった。佐村、お前こんな場所で転んだら、下手したら大怪我だけじゃ済まな――」


 坂薙の心配と安堵とが入り交じった声も、他人事のように俺の鼓膜を震わせるだけ。


「――おい、啓……ちょっ、重っ……わあぁ――――」


 転倒しかけた俺を踏ん張って前方に押し戻してくれたところで、相手の身に起こった異変を察知したのだろう。

 だらりと手足の力が抜け落ちて、そのまま体重のほとんどを彼女の身体に預けてしまう。坂薙は両腕と胸と片膝まで駆使し、足場も危うい階段のさなかで、くずおれる俺を必死に受け止めている。


「――おいどうした啓太ぁっ――――――!?」


 気が遠くなってきた。周囲から神納か誰かが走り寄ってくるような気配も感じたけれども、声もうまく聞き取れない。意識がけむに白んで、おのれが地平に立つ角度すら把握できなくなってくる。

 そうして、俺の意識が途絶えた。それは何の音も伴わず、ただしんと役目を止めた。

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