第2話

 正午を刻んだ時計の針先が、そのまま緩やかに傾きはじめた頃合い。

 俺達いつもの三人組は各々の弁当に箸を付け、口をもごつかせている。本日は、持ち込んでいたシートの上に皆で腰を下ろすスタイル。校舎中庭の芝生は、残暑の照り付けるような熱気を幾分か残している。けれども、のんびりと胃を満たすのに何ら不都合のない、清々しいまでのランチ日和だ。


「――して、佐村啓太さむらけいたよ」


 やけに神妙なニュアンスを声色に帯びさせて、赤い髪留めの彼女――坂薙鈴乃さかなぎすずのが俺にそう切り出してきた。


「お前はクラスで、その……どういう扱いを受けているかの自覚はあるのか?」


 口調からうかがい知れるのは、どことなく苛立ちめいた彼女の心境だった。別に俺自身に対して怒っているというわけではないのだろう。いや、是非そうであってほしい。


「どういう、というのは、こいつとお前の交友関係が周りにどういう目で見られてるか、の話だ」


 そんなかしこまった口振りの割に、ぶきっちょに握り揃えたカラフルな箸。くいとその頭で、傍らに座り菓子パンにまごつくキカを示し、おのれが何を言わんとするのか曇りない目力で念押しまでしてくれる。


「なあ佐村。あえて包み隠さずに言ってしまうが――」


 少々下品な事に、箸を歯で咥えながら、ペットボトルの蓋をねじる。


「――私の今のところの理解はこうだ。お前という男は気が回るのか鈍感なのか皆目わからん。超わからん」


 ……理解されてなかった。


「いや、坂薙、前からお前はキカにもひどいけど、なにか最近俺にも結構言うようになってきているよな。それとも俺の単なる勘違いなのか」


 この坂薙鈴乃という女子は、俺のクラスメートで、そしてより明快に説明するならば日月キカの幼馴染みだ。

 サバサバした性格にボーイッシュな独特の口調、なのに容姿は綺麗で、どことなく清潔なにおいがあって、何より妙に愛らしい。くりくりと波打つウェーブヘアーや、凛と高い周波数の声だってそう。その不可思議なギャップに、どこか強く惹かれるものがあって。

 そうしていつの間にやら歯に衣着せぬ話もできる間柄になれていた。ただし、彼女はあらゆる面でちょいとズレてもいた。


「お前が朴念仁に過ぎるからだ。そもそもな、女である私に男どもの脳みその中身などそうやすやすわかってたまるものか。だからこうして聞いている」


 反論する代わりに座った目で睨んでやると、坂薙は急に叱られた子供のような表情を一瞬見せたあと、慌てて平静を装い視線を逸らしてしまった。

 彼女、やたらと気が強く手や口が早い癖に、毎度俺に言い負かされる小物っぷりがどうにも玉に瑕ではある。ことある事に俺を朴念仁呼ばわりするのは、まあ慣れたが。


「キカ……か。俺もクラスの空気くらいはわかってはいるが。今のクラスになって半年以上過ぎてるし、さすがに、な」


 そう、キカは可愛い。キカは可愛いけれども、物心付いた頃から女子にチヤホヤされ続けて、逆に男友達が滅法少なく、かと言って女子グループとの友情が芽生えたなんて逆説的展開が待ち受けていたはずもなく、ずっとずっと宙ぶらりん。

 二年生になってキカと出会った俺は、とても奇遇な事にこの二人とつるむ関係になった。だから、それを面白がる男子女子が一人や十人現れるのは、何となく皮膚感覚でわかってしまう。同様にキカとつるんでいる坂薙に、あえて言葉で指摘されなくとも。


「本当に、私のあずかり知らぬ場面で、連中に何かひどい事を言われたりしてないのか? いじめだとか、そういう深刻な状況でないにしても、やれ女っぽい! ナヨってるんじゃねえよ! とか、いっぺん服脱いで男である証拠見せてみろよ! とか――」


 謎の熱意が坂薙の台詞に入りはじめ、食事を続けるのも失念し、俺目がけて唾まで飛ばす始末。その背後でキカがまんまるい瞳を白目にさせ、目に見えるような冷や汗をほとばしらせている。一体どんな関係を歩んできたんだお前ら。


「実はキカちゃん啓太クンと超ラブラブでデキてる! とか、今後の人生におけるお前自身の青春謳歌が修復不可能になりかねないレベルで悲惨な事、言われたりしてないか?」

「……まったく、何だよ、それ」

「佐村啓太少年の恋愛可能性についての、深刻な袋小路入りを懸念し、先行きに憂いているのだ。異性側の代表者として、そして日月キカの幼少期からの隣人として、な」


 遂に俺までも頭を抱える羽目になる。ところで坂薙の本題は果たして何だったのか。


「とにかく。キカには手を出すなよ、手を出したらお前でも悪夢を見る事になるだろう。何せこいつはまごう事なき男子だ。私も小さい頃から幾度となく、入念に、直接確認済みだからな!」


 言ったあとで気付いたような目の泳がせ方して、顔まで赤らめやがった。

 勿論、俺だってそんな事は重々承知していた。キカとつるみはじめてまだ一年にも満たないけれど、それでも体育の授業などの機会に、彼が嘘偽りのない同性である現実を、幾度となく目の当たりにしてきたからだ。


「わかったわかった、気にしておくから。っていうか最初から気にかけてるから、ちゃんと」


 まあ、一部は私なりの冗談だがな。坂薙はそう不敵に笑う。その笑顔が、不思議と俺を安らがせた。


「まあ、でも、いいんじゃないか」


 そう曖昧にかわしながら、実際に自分とキカがつるんでいるのを揶揄するクラス連中の思惑に気を傾けてみる。

 こと校内行動においては、俺と坂薙にくだんのキカ含めた三人ワンセットが、標準行動のパターンに組み込まれつつある。仲がいいのは、より誰かに言及されやすくもあるという事も意味するのだろうか。


「あいつらからあんな風に茶化されてる分、クラスの他の奴らからも愛されてるんじゃないかな、キカって」

「でも私は気にくわない」


 納得いかない、という口振り。坂薙はキカを取り巻く問題に対して少々神経質に過ぎるきらいがある。

 それも致し方ない。根源的な事を口にするなら、日月キカの幼馴染みであるところの坂薙鈴乃は、傍でそんな光景に長い間立ち会ってきた存在なのだから、なおの事だろう。


「――ちゃん、ケータ。だいじょぶ、わたし、みんなを悪くなんて思ってないから」


 自分の空腹解消に夢中かと思われたキカが、いきなり会話に割って入る。

 サナギちゃん。キカ語で坂薙の愛称。サカナギがサナギに。幼馴染み。おさな、なじみ。


「…………どしたんケータ?」


 キカは俺達それぞれの心配など知らぬ顔で、どことなく小動物じみた微笑みを返してくる。小首まで傾げて。

 キカが場の空気をあまり気にしないのは知り合った当時からのものだし、坂薙が付き合いの長い彼を尻に敷いているのも元から構築済みのものだ。

 けれども今朝からは特に、坂薙の態度に苛立ちの色が見えていた。そういう時は大抵、この二人が喧嘩でもしたのだと俺は認識していた。

 坂薙はそのまま箸を置いて――


「大体悪気の有無とかそういう問題じゃないもん」


 ――彼女流儀のユーモア演出なのだろうが、不器用に口元をすぼめブツブツと呟きながら、そそくさ弁当を片付けはじめてしまう。斬り捨て終えた抜き身の太刀を鞘に収めるがごとく、パチンと箸箱をスライドさせて。


「――そうそう、今日は先に帰るから。ちょっと親の急用でな」


 やや低いトーンで要件のみキカに伝える。坂薙の思考パターンから推察するに、親の急用なんてのは方便だろう。おそらく今回のいくさ、禍根の根はそれなりに深そうだ。

 とどめに、ふうと声帯から漏れるようなため息。香り立つガムか何かの甘ったるい芳香が鼻腔をかすめて消えてゆく。彼女も同じく、気怠げに澱む午後の到来を待つのだ。誰知らぬ胸の内側に、何かしらの想いを忍ばせて。


   * * * * *


 佐村啓太という一高校生男子がこの場所で体験する事になった日常は、決して平凡や退屈などという言葉だけでひとくくりにできる類のものではなかった。

 それは日常と非日常の境界線上に横たわる断崖絶壁とそこに穿たれた無数の扉のようでもあり、それぞれに仕組みの違う錠前を解き放ってその先に至る鍵は、俺達三人がそれぞれ一つずつだけ手にしている。

 三つの群像達の手のひらに舞い降りた鍵はそのどれもがいびつな形で、互いに駆け引きを繰り返し、交換し合ったり、時には欺いて奪い、または信頼を示し肌触れ身を寄せ合って、狭い扉を迷い確かめながら、どこかしこへと行き来してゆくものなのだろう。

 その向こう側、まだ見果てぬ世界というのも、単に自分達が知らない何かが待ち受けるだけのような、一種の通過儀礼のようなものでしかないのかもしれない。

 意識的にか無意識的にか、俺はこの頃から既にそんな何かを認識していたのだと思う。

 違和感は、あった。なのに、それを手放せない。ふと手を差し伸べて、すくい取った手の平、指先の隙間からそれをこぼしてしまうと、まるで奇跡か何かのようにささやかで力ある可能性までも、そのままかなぐり捨ててしまうのではないか。

 そんな恐れが、胸の奥底で厭にくすぶり続けているのだ。

 だからこそ、偶然手にしたものだけでも、せめて守って、ずっとずっと大切にしよう。

 そう願ったのだ。

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