第三話 顕現概念

 「動くな」


 カルマが一声、近づいてきた黒スーツを制止する。その声に圧はなく、冷静な彼の透き通った声が殺意のこもったカフェに響くだけ。

 ただ、それだけ。なのに黒スーツの大男たちが一斉に動きを止める。強制でも嘆願でもないカルマの声が黒服たちを抑制する。

 動きたくても動けないのだろう、黒服たちの額から一斉に汗が噴き出した。男たちの顔だけ見ても、体を動かしたくても恐怖で足がすくみ動けない様子が見てとれる。

 リリアが敵対者へ向けていた注意をカルマに向けなおした。

 彼の顔を見たリリアが息を呑む音が聞こえてくる。カルマは己の表情をよく知っていた。今なお、彼は微笑んでいる。

 だが彼の瞳からは、色という色が欠落していた。彼の眼窩に浮かんでいるのは目ではなく、黒と白の輪郭線で色分けされた「絶望」と「無」。

 黒き絶望がカルマに仇名す敵を探し、純白の無が痩身の男に色亡き殺意を向ける。


 「死にたくなければ、この場から退け」


 カルマの一言に、ただ一人痩身の男は満足そうな笑みを浮かべた。それでも彼も、カルマの圧を感じたのだろう。額の汗を隠さず、痩身の男が睨み合う両者の輪に歩み始めた。

 痩身の男がゆっくりと近づき、巨躯の男たちの肩を叩く。

 カルマが力を弱めたせいもあるが、それだけで痩身の男は巨躯の男たちをカルマの能力から解放して見せた。

 「行きますよ。収穫はありました」

 痩身の男が最後に、カルマの目の前に一枚の名刺を投げつけた。

 リリアの掴もうとする手をすり抜けてカルマの前に転がり込んだその名刺に、「特務機関」と「斎藤」の文字だけが浮かんでいる。

 「我々もまた正義を求道する者です。どうか、ご一考を」

 痩身はその言葉と共に、空いた喫茶店を後にした。沈黙が、三度喫茶店を包む。

 カルマは目の前に並んだ二つの名刺を見比べる。そして斎藤の名刺を手にし、粉々に破いた。

 「諍いは嫌いだ」

 その言葉と、カルマの行動に。リリアは静かに胸を撫で下ろして席に着く。喫茶店はがらんどうのまま静かさを再開する。

 「……なぜ、いや……いいわ。今は」

 リリアが何かを聞こうとして、口を閉ざす。なにを聞きたかったのか、或いは問い質したかったのか。なんにせよ、その時間に彼女から何らかの言葉が出てくることはなかった。


 襲撃紛いのことがあったためか、日を改めてリリアがカルマの家に迎えに行くことになった。カルマは一人住まいの賃貸へと帰宅し、何もない部屋をじっと見つめる。

 そう、何もない。

 家具も寝具も、或いは高校生らしい遊興に使うものも。

 唯一あるのは近所のバイト先で使う制服と、僅かながら衣装が詰め込まれた衣装ケースのみ。この空間を「部屋」と呼ぶのはあまりに難しく、健康で文化的な最低限度の生活を歩んでいるとはとても思えない空間。

 ただカルマが発する殺気だけが部屋の壁に反響する。果たしてここは部屋か、家賃を払って間借りしている刑務所か。

 制服を脱ぎ、一張羅の寝巻に着替えて胡坐を組む。そのまま目を閉じ、手を膝に置いて瞑想を始めた。

 今日の事、リリアの事、あるいは斎藤と名乗った敵対者の事。どれもがカルマの心に反響していくが、全て木霊する剣戟と銃声に吸い込まれていく。

 やがてすべての音が溶け合い、聞こえてくるのは無辜の民の絶叫。

 あるいは今の戦争で犠牲になった民草の足掻き、魂の叫びなのかもしれない。

 真相を確かめるすべは、ない。だがその怨嗟の声が叫ぶ。

 「死ね」、と。


 (僕の身体に戦争が宿っているなんて、分かり切ったことだったのに)


 事実リリアには明確に嘘をついた。己が戦争に汚濁されていること、生まれた時から気が付いていた。

 それが「どの」戦争であるか、なんてことも理解している。それが単一の戦争ならどれほど優しかっただろうか。

 ──カルマの体に宿った戦争は、対象を指定する優しいものではない。

 今現在進行している「全て」の戦争を、カルマは体に宿している。リリアはそれも言及していたが、カルマもまた理解していた。

 だからこそ放っておいてほしかった。誰も己に関与させず平穏に暮らし、そのまま平穏に消えたかった。

 だがそれを善意と悪意が赦さないのならば、カルマはどうすればいいのだろうか。

 善意への迎合は簡単だ、だが善意は一側面として善を名乗っているに過ぎない。

 カルマのためになるかはともかく、どこかで組織としての私欲がカルマを縛る。

 だが悪に興じるのはカルマはいやだ。カルマの力を解放しようとする悪が、カルマの平穏に付け入るスキを与えたくなかった。悪は悪たらしめる非道をカルマに働く。

 それには耐えられない、生存している一個体として耐えられない。

 だとすれば、どうするのか。


 カルマの応えは一つだけだ。

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