第2話

 どうやら、生まれてすぐ眠っている間に両親に捨てられたようだ。

 えぇ……(困惑)


 普通、生まれたての赤子を川に流すような事はしないだろう。何かしらの理由があるはずだ。


 生まれたての赤子をわざわざ捨てる理由など数少ない。中世と呼ばれる時代、西にも東にも存在した赤子殺しの動機の多くは、飢餓からくる口減らし。或いは宗教的な儀式に関連するものと相場が決まっている。


 とは言え、真意を探ることは最早叶わないだろう。なんせ、籠のうえでただ流されるだけの流浪の身となってしまったのだから。どんぶらこ、どんぶらこ。


 空は雲一つもない快晴だなぁ。背中が少し冷たくなってきた。水が染み込んできているのだろうか? 身じろぎ一つするにも踏ん張らなければならないこの身、放っておけば待つのは死のみ……とはいえ、どうしようもない事もまた事実。


 ……ん?


 なんだあの爺さん、顔に傷だらけでこえーな。川岸に座り込んで……釣りでもしているのか? なんとか気づいてもらえないか……あ、声を出せば良いじゃん。


「お」

「おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ!」


 声帯か舌がまだ出来上がっていないのか、普通に喋ることは難しそうだったので、喉と腹から出せるめいいっぱいの声を張り上げた。


 爺さんは声に気付いたようで、チラとこっちを見て……あ、無視しようとしてやがる! ふざけんな! かわいい赤子が川を流れているんだぞ!?


「おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ!」


 お前だ! お前に呼びかけてるんだ、ジジイ!


 あっ、舌打ちした。……よっこらせとこれ見よがしに立ち上がったジジイは、億劫そうに籠を川から拾い上げ、俺の顔を見る。こっわ。何人も殺してきましたみたいな眼光の鋭さをしてやがる。


 相変わらず何を言っているのかわからない言語で語りかけたかと思うと、爺さんは俺を抱えて森の中へと入っていった。


 ……え、街に行かないの?


 黒黒としたいびつな葉を付ける大木が、まるで太陽から世界を覆い隠すように悠然と並び立つその森は、ひどく暗く、足の踏み場など見えるはずもなかった。


 だというのに、この爺さんはスタスタと何にも遮られることなく先へ先へと進んでいく。


 小一時間は歩いたと思えば、ふと同心円状に切り開かれた不自然な領域と、その中心に組まれた質素な木小屋が目に入った。


 おそらくは、爺さんの住まいなのだろう。


 葉と獣の毛皮で作られたベッドのようなものに俺を置いたかと思うと、爺さんは何も言わずに小屋から消えていった。


 彼が返ってくるまでの数時間、俺は天井を見続ける事しか出来なかった。


 知らない天井だ。


 005


 爺さんは必要最低限の世話を焼いてくれた。赤子のうちは穀物をすり潰し水に溶かした粥のようなものを与えてくれ、大きくなるにつれて獣の肉や果実を増やしてくれた。

 小屋の貯蓄が少なくなればどこぞに消えて、半日のうちにたっぷりと獲物を抱えて戻ってくるのだ。


 会話は少なかったが、言葉も教えてくれた。木の棒で地面に文字を書いては、それが何という文字なのかを教えてくれる。主要な言葉を覚えてからは、古ぼけた絵本や何かの写本(英雄譚や神話の類が多かった)を与えてくれた。


 どうやらこの国、或いはこの世界の言葉は、日本語と同じく表音文字と表意文字の組み合わせで出来上がっているらしい。こういう言葉はまず覚えるまでのハードルが非常に高いように思えたが、何故か俺は一度見た文字と音の対応は、その一度だけで覚える事ができた。所謂、完全記憶能力というやつなのだろう。


 その代償かはわからないが、存在しているはずの前世の記憶――“俺”という自我の記憶は、全くと言っていいほど思い出せなくなっていた。21世紀の日本に生きた男性で、二十代のうちに死んでしまったということ。

社会規範や義務教育など、通年的なものについては思い出せるが、個人的な体験や経験といったものについては思い出せない。


 思い出せないどころか、思いを馳せただけで、あの恐ろしき伏魔殿。冒涜的な力の大聖堂が脳裏に過ぎり、胃の内容物がせり上がってくるものだから、時と共に自分自身の過去を詮索するのはやめていった。


「おい」


 爺さんは俺のことを「おい」とか「小僧」としか呼ばない。必然、俺に名前らしきものはない。俺も、ジジイに相当する言葉を習ってからは、それでしか呼んでいない。一度パパと呼んでみたことがあったが、手ひどく殴られたので二度と呼んでいない。


「なんだよ、ジジイ」


「風の通り方が変わった。植人アルライアドどもが目覚めたのだろう。“侵蝕ローカス”の律が広がる……準備を手伝え」


「もうそんな時期か。今回の蟲害は控えめだと良いんだけど」


「ふんっ、語るほど経験しておるまい」


「もう五回は経験したさ、それに全部覚えてる」


「相変わらず気色の悪いガキだ」


「こんなところで暮らしてるアンタが言えたもんか」


 季節は五度めぐり、俺は多分五歳になった。豪雨が過ぎた快晴の広がる日に俺を拾ったらしいから、日本で言うところの梅雨明けが来るたびに、俺は自分の歳に一を加算することにしているのだ。誕生日がわからんからな。


 爺さんとの暮らしももう手慣れた。


 どうやらこの世界には“律神アルコーン”と呼ばれる神々が実在しており、季節なんかの変遷はその神々の権能が発露しているらしい。だから、地域によって巡りは異なるし、神が代替わりを起こせば季節の形相も大きく変わるのだとか。


 異世界といえばの魔術についても、律神の権能――と呼ばれる象徴と、それに付随する存在の在り方を人々が歩むことで、律神の力を少しだけ間借り出来るという理屈で成り立っているらしい。つまり神を信仰して、その教義を全うすれば、その神に関連した魔術が使えるというわけだ。


 まぁ、単に信仰しただけで使えるような魔術は数も少なく、力も弱い。戦闘で使うような魔術――魔術ロゴスは、一朝一夕で身につくものではないらしいとは教本の談。


 爺さんが何の神を信仰しているかについては、決して教えてくれなかった。


 草木で編んだ蚊帳のような網に、灰と黒い鉱石を混ぜた塗布物を振りまいていく。こいつは“侵蝕の律神ローカス”の創造物である【蟲】が嫌う香りを放つため、侵蝕の律が満ちる季節の対策としてまず真っ先にやるべきことだ。これを怠れば、視界中がペットボトル程もある巨大な蟲で覆い尽くされることになる。あんな酷い光景は二度とごめんだ。


「ジジイ、こっちは済んだよ」


「あぁ」


 半日をかけて、居住区全体に蚊帳を網掛けしていく。広さも高さも十分あるため、これだけでも重労働だ。五歳の男児にはいささか酷というものだが、そうも言っていられない。


 一段落ついたころにはすっかり夕暮れに近い刻となり、爺さんと俺はいそいそと小屋にもどっていった。


「しばらく外は出歩けないね。侵蝕の律は草木も異常に増やすから」


「そうだな」


「なぁ、爺さん。家にいたってすることないだろ? いい加減に剣術を俺に教えてくれよ」


「知ってどうする」


「俺も狩りをするさ」


「ふん。小僧が、その体躯なりで何が出来る。足手まといになるだけだ」


「ぐぬぬ……」


「黙って言われたことだけやってればいい」


「ふん! 嫌だね! 拾ってもらったことには感謝してるけど、いい加減この狭い場所には飽き飽きしてきた。ここにある本だって読み尽くしてしまったし、稽古の一つや二つ減るもんでもないだろ!」


「……」


「そんなに教えたくないってんなら、賭けをしようぜ、賭けをさ」


「賭けだと?」


「あぁ。明日の朝、俺と決闘をしてくれ! とは言っても勝てるとまでは思い上がっちゃいない。一太刀、たったの一太刀でもアンタに浴びせられたら、すぐに俺に剣術を教えてくれよ」


 爺さんはしばらく黙り。そして頷いた。


「わかった。それでお前が静かになるなら、乗ってやる」


 ぶすぶすといった様子で、爺さんが首肯する。


「よっしゃ! 約束だぞ!」


 ふふん、計画通り。爺さんは俺をただ物覚えの良いガキだと思っているだろうが、俺は毎朝アンタが棒を振るのを五年間見続けてきたんだ。見稽古なんて言葉があるように、見続けるのも立派な稽古。


ましてや何故か完全記憶能力を得た俺は、五年間の記録が一秒たりとも欠けずに頭の中に残ってる。


 たった一太刀くらいなら……勝算は十分にある!


「約束してやるから、今日はもう黙って静かにしていろ」


「わかったよ」


 せっかく異世界に転生して、こんな稀有な境遇になったんだ。


 いっちょ最強とやらを目指してやろうじゃないの



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