第一一話 猛獣を剥ぐ

「沖平君。おはよ」


 駅のホームで黙々と本を読んでいると、溌剌とした明るい秋山の声が向けられた。

 隣のベンチに置いていた鞄を膝の上に抱え、本を閉じて視線を彼女へ向けた。


 そこに居たのは当然秋山だったのだが、その格好は普段とはひと味違っていた。

 緩く巻かれた髪は無造作に下ろされていて自慢のサイドテールはもうない。

 普段は掛けていないはずの赤い丸眼鏡が目を惹いて、珍しく学校指定の鞄を肩に掛けていた。


「どうしたんですか。その格好」


 放った第一声は、恐らく教室に入った途端に全員から浴びせられるものだった。

 普段から秋山と交流深いグループの生徒ならば尚更だろう。校則に辛うじて抵触しないように巧妙に髪を染め制服を着崩している彼らならば、その日の秋山の格好を見ただけで「地味」と揶揄するのは容易に想像できた。


「酷いな。なにひとつ校則を破ってない、完全完璧校則遵守の格好なんですけど」


 言って、くるくる回って見せる秋山。

 香水の甘い香りが鼻腔に触れて、昨日とは一変して上機嫌らしい秋山を一瞥すると澄んだ空気に満ちた朝を仰いで呟いた。


「雪でも降るのかも知れませんね」


 ———


 秋山が教室に入ると案の定、クラスの大半の生徒が彼女の容姿の変化に仰天し、彼女への質問攻めは昼休みになるまで続いた。

 ある生徒は彼氏ができたのだと騒ぎ立て、ある生徒は頭を打ってしまったのだと騒ぎ立てる。またある生徒は単なるイメチェンだろうと薄い反応を示していた。


「分かった! 今週誕生日だからとか⁉ なんかこう、大人っぽくてエロいし、その格好! 彼氏作ろうとしてるんでしょ⁉」


「だからそんなんじゃないって、もぅ」


 昼休みの終わり間際に向けられた質問を、秋山は呆れ加減に笑って誤魔化していた。

 午後の授業の準備を隣で始めていた幸洋は、知らず二人の会話に聞き耳を立てている。あくまで手元の本へと視線は向けながら、意識だけを秋山たちの会話へ傾けていた。


「そうだ。誕生日何か欲しいものある? 凛」

 問われて、秋山は首を傾げる。

「欲しいものねぇ。新しい香水は、ちょっと欲しいかも」

 その要求が、昼休みの始めから秋山を質問攻めにしているようだった女子生徒の好奇心に火を付けてしまう。

「香水⁉ やっぱ男じゃん……! ちょ、それ何組の人⁉ うちのクラス⁉ 他の学校の人⁉ 絶対言わないから教えて! 私、こういう時は口固いからさ!」

 最後の一言さえなければ信用できたろうに。

 秋山も同じことを考えたのだろう。暫時思考した後で、

「ほんとに違うって。もう二年生なんだし、少しは落ち着いた格好しないとなって思っただけだよ」

 と、明らかに校則違反に抵触している髪色と髪型の女子生徒に秋山が告げると見計らったかのように五限の予鈴が鳴った。


 予鈴と共に秋山は腰かけていた最後列の席を離れて自分の席に戻っていった。はずだったのだが、突然踵を返してこちらに歩み寄ってきて、


「ね、沖平君」


 突然、声をかけてきた。

 辺りの生徒の視線が、一挙に秋山との間に注がれる気配がした。

 しかしそんな視線などなんのその。秋山はなくなったサイドテールの代わりに、肩から下ろした髪のひと房を指先で回しつつ言った。


「今日の放課後、ちょっとバド部の部室に来てくれない?」


 ———


 秋山の呼び出された通りにバドミントン部の部室に向かう幸洋だったが、その胸中は億劫と憂鬱と忌避で支配されて到底純粋無垢な高校生のものとは思えない黒い感情が渦巻いていた。


 我が物顔で廊下を歩いていたサッカー部の生徒とすれ違い、今度は廊下を走り去る野球部の生徒と紙一重ですれ違う。卓球部、バレー部、ラグビー部——普段は決して訪れない部室棟を奥へ進む度、幸洋はこんな場所に呼び出した秋山への恨みを積もらせていた。


 重たい足取りのまま進んだ部室棟の最奥。

『バドミントン部』の表札をようやく見つけて歩み寄ると、ちょうど扉が開いて中から秋山が出てきた。


「良かった。来てくれたんだ。なかなか来ないから帰ったのかと思ったよ」


「部室棟なんて入ったこともないから部室を探すのにも一苦労したんですよ。それで、その荷物は何ですか?」


 言及したのは、秋山が肩にかけているラケットとシューズだ。両手で抱えられた段ボールの中にこれでもかと詰め込まれたシャトルと部のユニフォームだった。

 これだけの大荷物を持って部室から秋山が出てきたのだ。その時点で行動の理由を察することは出来たが、暗黙の了解としてではなく彼女の口から答えを聞かなければいけない気がした。

 問うと、秋山は綺麗に畳んで収められたユニフォームを見つめて言った。


「部活辞めちゃった」


 扉を開けたままだった部室を振り返り、秋山は過ぎ去った時間を惜しむように言った。


「バドミントン部にはね、クラスの子に誘われて入ったんだ。松陰寺さんっているでしょ? 私がよく話してる。あの子が誘ってくれたんだ」


 けれど合わなかった。

 活発で明るい生徒の多い部の空気に馴染めなかったわけではない。練習にも充分追いつけていたし、仲間との関係も表面上は良好だった。


「でもね、ふとした瞬間に疲れちゃう時があったんだ。本当にこのままでいいのかな。このまま人に選択を任せて。明るくて活発な誰もが憧れる『秋山凛』を演じて高校生活送っていくのかなって不安になる時があって。だからね、前々から部活も離れようって考えてはいたんだ」


 でも、それができなかった。


「怖かったんだ。独りになるのが。中学の頃みたいに、教室の隅で本を読むしか選択肢がなくなるのがすごく怖かった。だから、部活を辞めようって何度も思ってもなかなか踏み切れなくてさ」


 やがて秋山は部室の扉を閉めて、幸洋に視線を向けた。


「だから昨日、沖平君がああ言ってくれてすごく嬉しかった。部活を辞めても私は私のままでいられるんだって、認めてもらえた気がしたんだ。だからさ——



 ——ありがとう。幸洋君」



 夕陽の差し込む部室棟の最奥。

 彼女の浮かべた屈託のない笑顔は、渦巻いていた黒い感情の何もかもを払拭してしまうほどに眩しく輝いていて。


 人知れず小さく鼓動が跳ねた理由を自覚しながら、凛の笑顔をただじっと見つめていた。


 ———


[まだ起きてる?]


 そんなメールが凛から送られてきたのは、日付が変わってしまう数秒前で。

[もう寝てます⎜ ]

 らしくなく冗談で返答しようと返信を打ち込んでいる内に、時刻は進み日付が静かに切り替わった。

 返信して、幸洋は開いていた本を閉じてベッドに倒れ込む。

 幾ばくの間もなく、次のメールが返ってきた。

[うそつき。怒るよ( •᷄ὤ•᷅)]

[なんですか。こんな夜中に]

 部屋の照明を消して、体を横に向ける。もう季節外れのシーツを持ち上げて体に掛けていると、すかさずメールが届いた。

[話したい]

 端的な返信だった。

 時刻は既に午前○時を過ぎているし、明日の一限目は幸洋が最も苦手な数学だ。居眠りでもしてしまったら最後、次の期末テストでは赤点を取りかねない。

 けれど、


『……もしもし』


 気が付くと凛の声が携帯から聞こえていた。声を聞くのと同時に、心の奥底にあった感情の正体を理解してしまう。

 底なしの安堵を覚えつつ、平然を装って声を返した。


「話したいって何ですか。こんな夜中に」


 訊ねると、凛は一瞬口を噤んだようだった。一拍置いてまごまごと口を開いた声がして、きっとまた髪を指先で回しているんだろう。何か誤魔化したことがあるときの彼女の悪癖を想像しながら、その声を聞いていた。


『特に何も用はないって言ったら怒る……?』


 何を今さら。


「怒りませんよ。……僕だって、特に何もないんですから」


 ベッドで横になっている事実を付け加えると、凛は『私もベッドで寝てるだけ』と囁くように答えた。


「……」


『……』


 寄り添うような沈黙が流れる。

 声を発することすら野暮に思える沈黙だったが、それでは電話を繋いだ意味がない。

 静けさを惜しむように息を継いで言った。


「借りてた本。もうすぐ読み終わりますよ」


『うん』


「読み終わったら返しますね」


『うん』


 会話は続かない。続ける無理に必要もない気がして、幸洋は彼女の短い返答を言及することもなくあるがままを受け入れていた。


 これがきっと『秋山凛』という一人の少女の本来の姿なのだ。

 底抜けの明るさも。真っ直ぐ一途な前向きな姿勢も。忙しなく思える感情の起伏も。今の彼女には感じられない。

 繋いだ電話の向こうにいるのは、明るいくせに悲観的で、真っ直ぐに見えて蛇行だらけで、忙しなさとは対極な穏やかさを抱えた少女だった。


『ねぇ、沖平君』


 声がひと際近づいて、ほとんど肉声に近くなった。

 細く熱を帯びた呼吸を挟んで。

 凛は、まどろみの底に落ちていくような甘い声で囁いた。


『明日の放課後。一緒に本買いに行きたい』

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