第一二話 未だ向日葵は咲いている

 母以外の他人とショッピングセンターに訪れる日が来るなんて、一週間前の幸洋には到底想像できない未来だった。

 それも、クラスで最も苦手としていたはずの人物と二人きりでだ。

 もっとも今となってはその人物は、クラスで唯一無二の信頼できる人物なってしまっていたのだが。


「ねぇ、この眼鏡どう? 似合う?」


 言いながら、凛が髪を揺らして振り返った。

 昨日から掛けている赤い丸眼鏡とは一変して、いわゆる縁なしリムレス眼鏡だった。

 元の顔立ちが整っているばかりに、彼女は大抵の眼鏡が似合ってしまうらしい。もう二〇分は店頭に並んでいる眼鏡をかけてみては感想を求めてきていた。


「沖平君も何か掛けてみてよ」


「え? いや、僕は……」


「いいからいいから。これとかどう? ゴールドとか案外似合うかも」


 抵抗する間もなく眼鏡を外される。

 視界がぼやけて、鮮明だったはずの凛の表情も曖昧になる。替えの眼鏡を掛けられたが視界がクリアになるはずがなくて、近くの鏡に歩み寄って目を細めて凝視した。


「似合ってるんですか? これ。僕、裸眼だとあまり良く見えないんですよ」


「似合ってるよ。少しいつもより大人っぽいかも。沖平君、身長も高いし大学生とか社会人に見えちゃうよ」


「お世辞で言ってます?」


「まさか。沖平君には噓つかないって」


 どの口が言っているのやら。

 鏡越しに視線を送るが、凛は眼鏡を吟味するのに夢中な様子で気づいていない。……いや、見ていることがバレるのは非常に気恥ずかしいので好都合なのだが。


 僅かばかりの切なさと共に掛けさせられた眼鏡を外し、放課後のバスの中でのやり取りを思い出した。



「今日、近くのショッピングセンターでいい? 書店は小さいけど、色々時間を潰せるし。あ、夕飯もそこの近くのカフェで済ませちゃおうよ。昨日ちょうどお小遣い日だったから私少し余裕あるし」


「……予定変わってませんか?」


「そんなことないよ。学校から最寄りの書店だし、いいでしょ?」


 ね、と。有無を言わせぬ勢いで詰め寄って来られては、断りようがなかった。

 軽い財布であと二週間は凌ぎきらなければならない身としては、なんとか書店だけで用を済ませて帰宅したかったのだが、凛の頼みとあっては断ることができなかった。


 結果的に渋々ながら着いてきたのだが、凛が楽しんでくれているのならそれで良かった。


 その後もマネキンのように眼鏡をとっかえひっかえされ、はじめの金縁が似合っていたという結論に至って二人はショッピングセンターを二階から三階に移動した。


 三階に到着するや否や凛はエスカレーターの先にあったブティックを見て、


「あの服、沖平君似合いそうじゃない? ちょっと見ていこうよ」


 そう言って制止する間もなくブティックに飛び込んでいった。

 凛の後を追っていくと、彼女は店の奥にあったデニムジャケットを手に取って辺りを見回している。

 パンツを探していたようで、近くに居合わせた店員に声をかけられると軽く会話を交わしていた。やがて二人の視線が一斉にこちらに向けられた。


「な、なんですか」


「沖平君、ちょっとこの服着てみようか」


「は?」


 抵抗する間もなく凛の持っていたジャケットと、店員が抱えてきたボトムスが三本ほど一斉に手渡される。

 これから何が始まるのか。悪寒を感じた。だが感じた頃には時すでに遅く、試着室の中に問答無用で押し込まれてしまった——。


「……これで最後にしてくださいよ」


 流れに抗うこともできないまま最後のパンツに履き替えて試着室から出ると、携帯に撮った写真を眺めてご満悦だった凛と店員の視線が注がれた。

 デニムジャケットは変えないまま、インナーには真っ白いシャツを着込んで、パンツから一貫して黒一色だ。外したかった眼鏡も凛の希望でそのまま掛けさせられていた。


「今までで一番いいかも。沖平君、似合ってるよ」


「……そうですか? 眼鏡さえなければ多少はマシだと思うんですけど」


 言って眼鏡を外そうとしたが、凛に待ったをかけられてしまう。

 不服な視線を凛に向けていると、険悪な雰囲気が広がり始めたと感じたのか店員が何か勘違いしながら割って入ってきた。


「眼鏡もよくお似合いですよ……! あの、女性のお客様も良ければご試着されてみますか?」


「え? いや私は……」


「いえいえ、せっかくですから……!」


 そうして抵抗する間もなく、今度は凛が幸洋の隣の試着室に放り込まれた。すかさず店員はレディースの服をかき集めて来て、試着室に押し込んでいく。中から凛の羞恥に染まった声が漏れていたが、どんな服を渡されたのかは皆目見当も付かなかった。

 制服に着替えて試着室を出ると、近くの棚で幸洋の試着した服を整理していた店員が声をかけてきた。


「何かお気に召すものはありましたか? このジャケット、よくお似合いでしたよ」


「……ありがとうございます」


 会釈しつつジャケットを返却すると、店員は困ったような笑みを浮かべると遠慮がちに口を開いた。


「本当によくお似合いでしたよ。彼女さん、すごく真剣に似合う服がないか店内を何周もされていましたから。……最終的な判断はお客様次第ですが、同じ女性として好きな人が自分の選んだ服を着ていてくれるのはこれ以上ない幸福ですから。彼女さん、大切にしてくださ——」


「……あの、彼女じゃないです」


「へ?」


 店員の盛大な勘違いに突っ込むと、大人の女性としてのアドバイスを熱弁していた店員は情けない声と共に硬直した。

 言葉の意味を反芻して飲み込んで、店員はみるみる顔を赤くして赤べこも鹿威しも仰天の勢いで深々と頭を下げ続けた。


「す、すみません! こんなお節介をするつもりは決して……あ、いや、そんなつもりでした! 本当に申し訳ございません……!」


「ちょ、そんなに謝るようなことじゃないですって。それにあの服も気に入らなかったわけじゃないですから」


「そうなんですか? なら……どうして」


 予算がないとは正直に言えなかった。

 とはいえ、あのジャケットが気に入っているのは事実であったし、予算さえあれば手に入れたい気持ちは山々だ。

 しかしそればかりが、あのジャケットを買わない理由ではなかった。


「……嫌いなんですよ。ああいう服を着ている自分が。……服そのものは好きになれても、それを着た自分が好きになれないんです。僕にとってのおしゃれは、僕にとって『自己嫌悪』を着てるのと同義なんです」


「は、はぁ……」


 全くもって哲学じみた言葉を理解できていない様子だが、先程の失礼もあってか無理矢理飲み込もうとしているようだった。折れてしまいそうな角度にまで首を傾げているくせに、無理矢理首を縦に振っている。

 やがて彼女なりの解釈で意味を理解できたのだろう。長かった沈黙の後で、店員は手を打った。


「つまり服に似合う人間になる為に自己研鑽を重ねろ、ということですね。素晴らしい心意気ですね……!」


 もうそういうことでいい。

 呆れ加減に相槌を打っていると、ちょうど試着室のカーテンがわずかに捲られた。


「あ、あの……この服、ちょっとライン出過ぎじゃないですか?」


 言いつつ、やっと凛が試着室から出てきた。

 深緑のフレアスカートが目を惹き、真っ白いタートルネックのニットが華奢な体をより細く見せている。上品さを補強する為にハイヒールを履いているようだったが、当の本人が履き慣れていないのかぎこちなく試着室から歩み寄ってきた。


「ど、どうかな……似合ってる?」


 髪をいじりながら問いかけてくる凛。

 幸洋はと言えば、制服姿からは雰囲気の一変した凛を前にして完全に言葉を失ってしまっていた。

 なんとか言葉をひねり出さねば、と固まった脳を絞って精一杯の感想を口にする。


「綺麗だと、大人っぽいなと、思いました」


「なんで過去形かつ五七五⁉ しかも字余りしてる!」


 そんな二人の間にやり取りを見守っていた店員は、柔和に微笑んでいる。

 凛の服をお世辞でも何でもなく褒めると、店員は服の総額を凛に耳打ちしていた。赤かった顔を一気に青くする凛だったが、店員が何やらいたずらな笑みと共にもう一度耳打ちするとしばらく葛藤した後で服の購入を決心したようだった。


 ———


 ブティックと同じフロアにあった書店に到着した幸洋たちは、引き寄せられるように文庫本の棚へと足を運んでいて、思い思いの本を手に取っては会話することもなく本の吟味を始めていた。

 せっかく二人で書店に来ているのになんの会話もないのでは少し惜しい。本のページを捲りながら、隣で真剣な表情で本を読んでいた凛に問いかけた。


「そういえば、あの日の写真どうしたんですか」


「写真?」


 横目に視線が返ってくる。

 すかさず本に意識を戻しながら補足した。


「ほら、マックで会った時の。消してほしいって僕が頼んだ写真です」


 そこまで言うと、凛は合点がいったようで読んでいた本を閉じて棚に戻してから答えた。


「……もう消したよ。沖平君、本当に嫌そうだったから」


「そうですか……」


 何故か返答は陰っていた。

 自問する余裕さえなく幸洋は握っていた本を閉じ凛に習って棚に返す。本棚の裏に回り込んでいった凛の後を追いかけた。


 望んでいたことのはずだった。

 誰にも見られたくない姿のはずだった。

 だというのにいざ彼女の口から「消してしまった」と告げられて、心のどこかでは落胆している自分が居ることを今さらになって自覚させられた。


「どうして消したんですか?」


 訊ねながら本棚の向こうに居た凛に問いかける。

 しかしその声は凛には届いていないようで、見れば彼女は陳列されていたブックカバーをじっと見つめて本を探す手を止めていた。


「秋山さん?」


 もう一度声をかけてみる。


「え? なになに? ごめん、全然聞いてなかった……!」


 慌てて取り繕う凛だったが、どうやら視線の先にあったブックカバーが気になっているようだった。思えば図書館向かいのカフェで見た彼女のブックカバーは、もう何年も使い込まれた形跡があってとうの昔に替え時を過ぎている様子だった。


 結局その日は何の収穫もなく、帰路に着いた。

 目ぼしい本を見つけられなかったのを帰りの電車の中で凛は嘆いていたが、また次の機会があるだろうと過ぎた楽観で胸中を満たしていた。


 ———


「また噓ついちゃったぁぁぁ! このあんぽんたん!」


 帰宅して早々に凛は自室のベッドに飛び込んで、待ち構えていた虎に顔を突っ込んで悲鳴を上げていた。

 虎に顔を埋めたまま携帯を手に取り、画像を送っていく。

 やがて日付を遡っていくと一週間前の日曜日に撮った写真を見つけて、凛は深い溜め息を虎に向かって吐いた。


 携帯には幸洋に消したのかと訊ねられた写真が表示されていた。


 訊ねられて咄嗟に、残していると嫌われるのでは、と保身に走った自分を責めた。

 昔からこうだ。咄嗟に人の顔色を気にしてしまって嘘をついてしまう。後で辻褄を合わせるのに苦労することは分かりきっているのに、未だに消えない悪癖だった。


「……どう説明しよう」


 呟いて、メールを打ち込んでみる。

 ——でもそうなると消さないといけなくなるかな……。それはやだな。


 思って、結局画像を消す勇気も幸洋に真実を告げることもしないまま、凛は突然落ちてきた瞼を受け入れてまどろみの底に沈んでいった。

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