第一三話 まごつく距離感
教室がざわついていた。
受験のプレッシャーからはまだ程遠く、入学から一年が過ぎて校風にも慣れてきた二年生の教室は他の学年の教室に比べて騒がしい。
しかしその日の騒がしさはどこか異質だった。
朝から職員室に用があると言っていた凛よりも一足先に幸洋が教室に足を運ぶと、遠巻きな視線と小声の会話が教室のそこここで湧き上がった。
——……?
何か怪しい。
普段は決して幸洋に見向きもしないサッカー部の男子生徒や凛とよく親しげに話しているバドミントン部の生徒の視線が何故か幸洋に注がれている。
幸洋がその正体に気づけるはずがなく。
普段通り幸洋は、人目などまるで気にする素振りもなく鞄から取り出した本に意識の全てを傾けた。
———
昼休み。
購買部の裏にあるベンチからの景色はお世辞にも美しいものではないが、中庭の桜の木の枝葉の隙間から注ぐ木漏れ日が温かくて心地いい。
松陰寺と昼食を摂っていた凛は、
「凛。あんた、沖平君と付き合ってるの?」
「んっ、ごッ……⁉ そんあわへ——」
そんな何の前触れもなく突然振られた話題に、咥えていたあんパンを喉に詰まらせた。
牛乳で一気に流し込んで事なきを得て、空になった牛乳パックをベンチに置くともうひとつ置かれていた——昼食は摂らない主義だという幸洋のために買った——牛乳パックを徐に見つめた。
幸洋のために買ったはずの牛乳パックが昼休みの真っ只中のこの時間になってもまだ手元にあるのは、一重に幸洋が校内では頑なに距離を置こうとしているからだ。
牛乳パックを持って昼食を誘っても一蹴され、撃沈しているところに松陰寺が訪れて今に至る。やはり持つべきは昼食を共にしてくれる親友だった。
思いながら背面のストローを剝がして、パックに突き刺そうとしたのだが——、
「凛? それ、あんぱんだけど」
「え? ……あ」
気づいた頃には時すでに遅し。脳髄を吸い上げるような深さまで突き刺さったストローは、見事あんパンの中心に到達していた。
顔が首から赤くなるのを自覚しながらストローを抜き取って、仕切り直して今度こそ牛乳パックに突き刺す。ちゅぅ、と一口吸い上げると、牛乳からはほんのりとこしあんの味がした。悪くはないがお互いに主張が激しく、美味とも言えないざらついた味がした。
「そんなに動揺しなくてもいいじゃん……。てか、その反応まじなんだ。以外だね。あんたあんな地味なのが好きなんだ」
「ち、違うよ? 誤解誤解。別に沖平君のことは好きとかそんなんじゃないし……」
「ほんとにぃ? じゃ、これな~んだ」
そう言って向けられたのは、二人でショッピングセンターを散策している凛と幸洋の姿だった。
仲睦まじく眼鏡屋で眼鏡を掛け合って、ブティックでは鏡の前で服を重ね、本屋では肩を並べて真剣に本を選んでいる。その後もカフェに立ち寄り、最後は最寄り駅に向かうバスに乗り込む姿までしっかりと撮影されていた。
「その写真、どうやって……」
「隣のクラスの子がくれたの。部活急に辞めるなんて言い出すから何事かと思ったら、やっぱり男だったか。全く、あんたも沖平君も隅に置けないね」
「だっ、だから違うんだだって……! 偶然会って、私が連れまわしてただけだよ……!」
必死に否定するが松陰寺が聞く耳を持つことはない。右から左へ頭を通り抜けていく言葉を追い掛けることもなく、いたずらな笑みを貼り付けていた。「なのにこんな乙女な顔するんだぁ」悪魔的な笑みと共に向けられた写真には、歩きながら幸洋の横顔を見つめて微笑している自分の姿がばっちり写っていた。
「ぁぁぁ……!」
言葉にならない声で悶えて両手で顔を覆い隠す。
ぼふんっぼふんっ、と人間の頭からは発生してはいけない湯気が吹き出していた。
松陰寺が言う。
「ごめんて。もうからかわないからさ。本当のこと言いなよ。沖平君とはどういう関係? 私が思うに、あんたらまだ付き合ってすらないよね?」
確信を突いていた問いに、目を点にして松陰寺を見返した。何故、と本心を隠せていない困惑した表情をしていたのだろう。松陰寺は悟った様子で、
「女の勘ってやつ? 根拠はないけど、そんな気がした。どう? 合ってた?」
「……そうだけど」
食い気味な問いかけに、むすっと頬を膨らませて返答する。しかし質問の落とし穴に気づけず、また上手く松陰寺の掌の上で転がされた。
「じゃあまだ付き合ってないだけで、そういう関係になりたいとは思ってるってことなんだぁ」
「んなっ⁉ ち、違うって……! ほんとにそんなんじゃないって……!」
これまでよりも一段と強く否定して、昼休みの始めから悶々と胸中を渦巻いていた感情と向き合い始めた。
幸洋に渡すはずだった牛乳を両手で握って、弱弱しい声で入学以来の友人にはじめて己の内に潜んでいた獣の本性を露わにした。
「多分、沖平君には迷惑なんだよ。私に気持ち。……さっきだってお昼一緒に食べようって言ったのに断られたし。ウザかったんだよ……きっと」
「……だから違うの? 沖平君のことは好きでも何でもないってことにしとく?」
「それは……」
意地の悪い質問だった。
返す言葉を凛が必死に脳裏でかき集めては並び替え、誤解を生まないようにと急ごしらえで用意していると、突然。
「ぷはっ、なにその困った顔……! ウケる……!」
松陰寺が吹き出して、中庭に響く声量で細い腹を抱えて笑い出した。
何事かと凛が怪訝な視線を向けていると、松陰寺は目尻に浮かんだ涙を拭いながら言った。
「いやいや、今の落ち込み方はらしくなさすぎるでしょ……! 不意打ち過ぎて冗談かと思ったらまじ凹みだったんだ」
「……ごめん」
唇を尖らせて謝罪する。
そんな彼女の様子を横目に見ながら松陰寺は、屈託のない笑みを浮かべた。一度意地悪くほくそ笑むとこちらの頬を両手でつまんで、ニッと笑う。
「何言ってんの。前に言ったじゃん。あんたは怖いくらいに人が出来てるって。そういう人間臭いとこ見せてくれた方が、あたしは嬉しいよ」
言われて静かに目を見張った。
怖かったのだ。
自分が心の奥底に飼っている羞恥心と恐怖心を人に知られるのが。
だから明るく振舞って、陽気を演じて誤魔化していた。
気味の悪いほどの人当たりの良さも。得体の知れない前向きな心も。
もう必要ないのだと思うと、何故か目頭が熱を帯び始めてきた。
———
猫の刺繡の入った藍色のブックカバーを手に、幸洋は昨日も訪れた書店のレジに並んでいた。
もう一度記憶を遡り、握っているブックカバーを確かめる。
——これで合ってるよな……。
昨日凛が見つめていたのはこのブックカバーだったろうか。それとも隣にあったフクロウの刺繡の緑色のものだったろうか。はたまた全面に文鳥の描かれていた前衛的なものだったろうか。
曖昧だった記憶を手繰り寄せたが、その結果が握りしめた猫のブックカバーだった。
そしてもうひとつ。ブックカバーとは別に握っていた一冊の本を眺めていると、レジが空いて幸洋は歩を進めた。
ブックカバーと、その日に発売されたばかりの恋愛小説をレジに置いた。
「ラッピングお願いします」
「かしこまりました。ブックカバーはいかがいたしましょうか」
「そのブックカバーを使ってください。同じ人へのプレゼントなので」
答えると、手際よく会計が進められて慣れた手つきで店員はブックカバーを本に被せてラッピングを始めた。
程なくして紙袋がレジに置かれ、受け取って中身を一瞥すると書店を後にした。
凛の誕生日が明日だと知ったのは、五限目の休み時間だった。
読書に夢中になっていると、いつも凛と親しげにしている女子生徒がそんなことを口にしていたのが幸いした。
何も言わずに先に学校を出てしまったことを、凛は腹を立てているだろうか。
明日の朝にはしっかりと謝ろう。
貯まった通知を一瞥してから、携帯をポケットの奥にしまって、久方ぶりに一人の帰路を満喫した。
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