第一四話 ︎︎虎にもなれない小心者
「今日の四限、文化祭の出し物決めるらしいよ」
一限を終えた休み時間のことだった。
どこかで仕入れてきた情報を一人の女子生徒が教室中に言って周っていた。
じきに九月も半ばに差し掛かる。文化祭と言えば十月の後半に二学期最大の催しとして開催されるのだが、どうやら今年は例年よりも遅く開催されるようだった。
女子生徒から情報を受け取った生徒たちは口々に己の願望を呟いていて、ある者はメイド喫茶、ある者はお化け屋敷、またある者は自主映画を作りたいと語っていた。
「……」
——……関係ないよな。
クラスの中心となっている生徒たちが決めるだろう。
特になんの希望もなかった幸洋は場の空気感にすべてを委ねることを決めて、凛から借りていた本の残り数ページの読書を再開した。
———
かりかり、と黒板に歪な文字で催しの候補が上がっていく。
露骨に女子生徒から不評だったメイド喫茶。逆に男子生徒から不評だったお化け屋敷。誰からも賛同も得られなかった自主制作映画。他にはボードゲーム大会やeスポーツ大会も候補にあったが、居合わせた担任は現実的ではないと首を横に振って候補から外していた。
「他にはなにかありますか? なければ、五分後に決をとります」
司会として教卓に立っていた委員長が言う。
すると一部の女子生徒が妙にそわそわと私語を交わし始め、視線を凛の席へと向けた。
何も意見を用意していなかったのだろう。こういった発言の場で珍しく一言も発していなかった凛は、向けられた視線の数々を感じ取ると首を横に振り、何も引き出しがないことを示していた。
「秋山さん、何かあるんですか?」
そんなやり取りを目撃していた委員長が凛に問いかける。
「えっ、いや……」
「絶対盛り上がるイベント思いついたって言ってたじゃん、凛」
凛の否定を遮る形で、頬杖を突きながら呟いたのはよく凛と行動を共にしている女子生徒だった。
教室中の視線が凛へと集中する。
間違いなくクラスの中心にいる凛の意見だ。さぞ期待を寄せても良いものなのだろう。そう視線を向ける全ての生徒が期待していた。
注目が集まるなかで凛は、
「未成年の主張……とか、どうかな」
その一言が真っ二つに意見の割れていた生徒たちの意見をまとめた。
多数決の結果、大規模な準備の必要もなければ必要最低限の人員で運営も成り立つことが票を集めたようで、ほとんど満場一致でひと月後の文化祭の催しは、未成年の主張に決まった。
賛同しなかったのは、話し合いに参加する気が毛頭なかった幸洋くらいのもので。
凛の提案が周りに流された結果絞り出された苦し紛れの案であったのを唯一察していた幸洋は、人知れず凛を見つめていた。
着々と意見がまとまり形になっていく中。
引き出しの奥に置いていた文庫本を手に取って、授業終わりのチャイムが鳴るのを待っていた。
———
胸の奥に得体の知れない感情がとぐろを巻いて居座っていた。
図書室の一角。いつもの特等席に腰かけて本を読んでいると、幸洋は胸の奥にそんな黒い何かが居座っていることに気がついた。残り六ぺージあまりで読了できるはずの本を閉じて、重たい溜め息を独り吐き出した。
吹き抜けの図書室の天井を仰いで、思考の最奥にいるはずの内なる感情を見つめようと静かに瞼を閉じた。
黙々と瞑想して浮かんだのは、四限目の——教室の空気に流されて本心を言えずにその場を凌いでいた凛の苦しそうな表情で。
明るく振舞っている彼女の胸中の葛藤を想像すると、胸の奥にあった黒い感情はひと際複雑に絡まり合った。
何故彼女は唐突なむちゃぶりを断ろうとしなかったのか。
思考の内で思い描いた凛に問いかけてみても、答えが返ってくることは当然ありえなくて。
ほどく余地を残さぬまま絡まった感情の正体には辿り着けないまま、閉じていた瞼を持ち上げて五限目の開始の迫る教室へと向かった。
———
帰りの電車を待つ駅のホームで肩を並べて待っていると、昨日からの予報通りぱらぱらと音の軽い小雨が降り始めた。
鞄の中に入れておいた折りたたみ傘を手に持って、雨に備えておく幸洋。見習ってか隣でそれを見ていた凜も、同じように折りたたみ傘を手に取った。
凜の手には、学校指定の鞄とはまた別に幾らか紙袋が握り締められていた。帰り際に友人たちに呼び止め贈られた誕生日プレゼントだった。
開いた鞄のなかを覗き込み、凜の握る紙袋を一瞥する。鞄の中には、昨日用意して手渡す機会をことごとく逃した本が未だに入っていた。
——結局まだ渡せてないな……。
朝出会って一番に渡そうと意気込んでいたはずが、朝から紙袋を持って登校すれば贈り主は誰だと凜への事情聴取が教室で始まるのは容易に想像できて憚られた。
校内では変わらず会話もろくに交わすこともなく時間が過ぎ、無為の時間を過ごし何の成果も出せないまま、この駅のホームにまで辿り着いてしまっていた。
「あの、秋山さん」
矮小な勇気を振り絞って、彼女を呼ぶ。
返答は視線だけ。
言葉を待つ凛と、彼女にプレゼントを渡す勇気を振り絞っている間に、瞬間沈黙が腰を下ろした。言いさして口を噤んでしまう。見かねてか、凛が小首を傾げた。
「なに? どうかした?」
「あ、いや。……未成年の主張がやりたいって話、本当に前々から考えてたんですか?」
問うと、凛は小さく肩を竦めて笑った。
「まさか。ノリで言ってみただけだよ。あんなに好評だとは思わなかったけどね」
「そうですか。羨ましいですよ。ああいう無茶ぶりに上手く答えられるのは」
「そう? 今まで日常茶飯事だったから慣れちゃったのかも。それにしても今日は少し素直だね、沖平君」
「いつもはそうじゃないみたいに言わないでください。心外です」
他愛ない会話だった。心を許せた言葉を交し合っていた。
気づけば、握り締めていた勇気はもう必要なくなってる。
しとしととアスファルトに弾ける雨のように、胸中は穏やかで凪いでいた。
今ならばきっと手渡せる。
思いきって鞄の中の紙袋を握った。
「もうすぐ電車を来るかな。今日良かったらまた書店に行かない? 昨日好きな作家の新作出たんだよね。早く読みたいんだ」
言いながら凛が携帯の画面を弾いていた。目当てだという本の表紙の画像の探しているのだろう。保存している画像を順に送っている様子だった。
その中に見つけてしまった。
もう彼女の携帯にあってはならないはずの、あのファストフード店での写真を。
いつかの夕暮れに凛が無理やり二人で撮った写真を、凛はもう削除したと言っていたはずだ。幸洋が嫌がるからだと。
それは言い換えれば、写真がなくとも幸洋が凛の本質を言いふらすような人間ではないと信用してくれた証拠なのだと。そう解釈していた。
降っていた雨の雨脚がひと際強くなった気がした。
「秋山さん。……噓ついたんですね」
「……え? なに、何のこと?」
零した悲嘆の矛先に、凛は見当もついていない様子だった。
怪訝な視線で見返してくる彼女の無神経さに腹の底で何かが裏返る。ふつふつと込み上げてきた感情の正体は、感じたことのない悲憤だった。
「その写真、もう消したって言ってたじゃないですか」
そこまで言って、ようやく凛はこちらの言わんとしていることに気が付いたようだった。
「いやこれは……消そうと思ってたんだよ? でも、消せなくて……。い、今消すから……!」
「そういう問題じゃないでしょ。消せばなんとかなるとか、そういう話を僕はしたいんじゃないんです。なんで嘘をついたのかを聞いてるんです」
言い放つと、凛は露骨に口を噤んだ。
だんまりを決め込んで顔を伏せ、足元に言い訳を探し求めている。
「……それは」
「何で下を見るんですか。僕を見て言ってくださいよ。それとも、何かこの期に及んでまだ言えないことがあるんですか?」
「——」
図星だった凛は言葉を失った。
胸の奥にあった想いが息苦しさに豹変していくのを確かに感じ取りながら凛がなんと言葉を返そうとしていると、沈黙の意味を読み取った途端に喉の奥から何かが這い出た。
「僕のこと、影では馬鹿にしてたんですよね。クラスの連中と」
「……何言って」
「分かってますよ。自分がクラスで浮いてることくらい。でも、だからといってそれを不幸だと思ったことはないし、誰かに笑われるようなことだとも思ってませんよ。少なくとも他人の陰口を平気で吐くような連中にそう思われるほど僕は僕が落ちぶれた人間だとは思ってないですよ」
毒が口から零れていく。
吐かれた毒は凛の耳から脳に達し、彼女の脳裏にあった淡い想いの何もかもを一瞬にして犯していった。
「放課後に僕にまとわりついて来たのだって、僕を馬鹿にして笑いものにする為ですよね。本がないと死ぬのかって、どうせ影ではそう言ってるんですよね。変に読書家を演じていたのも、僕の信用を得るためにだったんですか」
「……だから何言って」
「はっきり言って気色が悪かったんですよ。これまで何の接点もなかった秋山さんが僕に突然話しかけてくるようになるなんて。……良かったですね、嫌だった部活を辞めることも出来て。これで放課後は遊び放題ですね」
「……」
「人の心を弄ぶ気分はどうでしたか。秋山さ——」
ぱしっ。
乾いた音がして、眼鏡が足元に転がった。
「私のこと、そんな風に思ってたの。噓つきは君の方でしょ」
「……これじゃ子どもの癇癪ですね」
左の頬に広がる痛みを自覚しながら眼鏡を拾い上げる。
かけ直して凛を見やると、彼女は目尻に涙を浮かべながら苦渋を嚙み殺そうとしていた。
走った亀裂を広げるように電車がホームに到着する。
鞄を肩にかけ直して、凛には何も言わずに彼女を置いて一人で電車に乗り込んだ。
なんとか気を紛らわせたくて、電車の中で本を手に取った。
読了までの残りのページはもう数えるまでもないほどに迫っている。
電車が二つ先の駅に到着するまでには読了できるだろう。
確信と共に本を開いたが、開いた途端に脳裏に何故か凛の姿が過った。
「なんで……」
頬の痛みは引いたはずなのに、実態のない痛みが波のように押し寄せた。
痛みから逃れるように。本を閉じて、車窓の向こうを見やった。
夕立の降る空の隙間に残されていた一筋の夕陽が、雲に飲まれて見えなくなる。
空に残ったのは冷たい雨と晴れることのない曇天だけ。
深い陰の落ちる夕陽のなかで挟んだ栞はまるで進歩しないまま。
凛とは一言も話すこともなく、文化祭当日を迎えた。
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