第一五話 小心者の本音

 あの日以来凛とは一言も交わさないまま、時間だけが過ぎていった。

 

 朝を迎える度に考える。

 これでもう二日も何も話していないな、と。

 週が変わる度に思う。

 あるべき日常が戻っただけだ。味気ないと感じてもこれが正しい平穏なんだ、と。


 そんな日々を過ごしているうちに月日は流れ、四季に折り目をつけるような肌寒さを引き連れた晩秋が訪れた。


 朝霧のなか。

 幸洋は駅の空いていたベンチに腰かけて、事務的に開いた本の文字列を目線でなぞっていた。

 凛から借りていた本は、もうとっくに読了していた。いま読み進めているのは普段から愛読しているSF作家の最新作だ。

 あれ以来恋愛小説を読むことは一度だってありはしなかった。

 金輪際読むこともしないだろう。きっとページを捲る度、胸の奥が軋む音がして読書どころではなくなってしまうから。


『間もなく二番線に電車が参ります。黄色い線の——』


 案内が聞こえて、本を閉じる。定刻通り。乗り慣れた時間の電車には、いつも決まって同じ駅で乗り降りする人物がいる。

 同じ高校の制服。肩までおろした艶やかな髪の毛先は緩くカールしていて、到着した電車が引き連れてきた風に弄ばれる。髪を抑えた横顔は冷たくて、もういつかの秋山凛がそこにはいないことを知らしめるようだった。

 ——……今日も同じ時間か。

 閑散とした朝の駅に電車が止まる。凛は迷わず眼前の扉から車両に乗り込んだ。

 彼女の背中を追いかけることはない。

 幸洋は同じ車両の端の扉へと足早に向かって乗り込んで、鞄から本を取り出した。

 文化祭で騒がしい一日を校内のどこで過ごすべきか。

 

 計画しながら、幸洋は学校に到着するまでに道のりを凛と一言もはなすことなく電車に揺られていた。


 ———


 文化祭で騒がしい校内に、幸洋のような日陰者かつ友人もいない孤独な生徒を受け入れてくれる場所などひとつを残して存在しなかった。

 図書室二階の最奥。

 海外文学の棚に寄り添うように置かれたソファに腰を下して、幸洋はじきに正午を過ぎようとしている壁掛け時計を見やって、読了した文庫本を閉じた。

 ——次は何を読もう。

 思って、何気なく海外文学の棚に視線を向けた。

 並んでいるのはカフカ、ヘミングウェイ、ルイスキャロル、カミュ、シェイクスピア……自分を含め図書委員の仕事も杜撰なものだ。ジャンルも著者もお構いなしに棚に置かれている。

 時間は存分にあるのだし、並べ直しておくべきだろう。

 思い立って腰を持ち上げ、乱雑に置かれていた本を一冊ずつ丁寧に並べ始めた。

 手際よく本棚の整理を進めていくと、ふと視界に明らかに場違いな一冊を見つけて手に取った。


「『山月記』がなんでここに」


 誰がどう考えても日本文学の棚にあるべきだろう。きっと天国の中島敦も、この扱いには苦い表情を浮かべているに違いない。

 込み上げてきたため息を気兼ねなく零して、日本文学の棚へと足を運ぶ。

 だが、その歩みを呼び止めるように。

 握っていた山月記から、するり、と一枚のメモ用紙が床に落ちた。


「?」


 私物を挟んだまま本を返却した不届き者へ若干の嫌悪感を募らせて、渋々落ちたメモを拾い上げた。

 見れば、折り目のついていたメモの内側には何かが書かれている。

 何の気なしに、誰が書いたのかも知れないメモを開いた。


『君がただの虎ならば、この心は痛まなかったのに』


 書かれていたのは、たったそれだけ。

 誰がいつ、『君』に向けたものなのかも分からない。『虎』というのは山月記に挟んでいる辺り、李徴のことを指しているのだろう。ならばさながらこのメモは、袁傪が李徴に宛てたものだろうか。

 物思いに耽ってメモを本に戻そうとしていると、不意に図書室の一階から忙しない足音が響いた。二階から足音の正体を見やると、二人組の男子生徒が何かを血眼になって探しているようだった。


「なぁ。『虫と海に囲まれた最愛の虎へ』って、『変身』と『老人と海』に挟まれた『山月記』ってことだよな? 海外文学の棚ってどこにあったっけ」


「知るかよ。この図書室無駄にデカいからいちいち覚えてらんねぇよ」


「くっそ……! ミステリー研究会の威厳にかけてこの謎解きは絶対に負けられねぇ……! この『毒虫R』とかいう出題者、やってくれるじゃねぇか……!」


 やり取りのあとで二人は図書室にそれぞれ散っていく。

 生徒会主催の謎解きだろう。昨年好評だった企画だけに今年は気合いが入っているようで、全校生徒から出題する謎を募集していた。

 出題された謎を解いた生徒には景品が出ていたはずだ。今年は確か、購買部の割引券だったか。血眼になるのも納得できた。

 ——……毒虫。

 メモを見やって、『君』宛てのメモの差出人を自ずと理解した。


 ———


「言いたいことがあるっ~~~! 俺は、三年二組の斎藤先輩のことが好きだぁぁぁ!! 俺と、付き合ってくださぁぁぁいいい!!」


 クラスメートの一人が特別開放された屋上から愛を叫ぶと、眼下の中庭からは割れんばかりの黄色い歓声が上がっていた。名指しされたらしい女子生徒が涙ながらに頷いて、中庭を囲む校舎の聴衆からも祝福の声援が上がって、会場はその日一番の盛り上がりを見せていた。

 

 屋上に設営されたテントの影。

 参加者に配られた整理券をくしゃくしゃになるまで握りしめて、凛は不安と緊張で破裂しそうな心臓を抑えていた。


「ねぇ、凛。本当に沖平君来るの? どこにもいなかったけど」


 声をかけてきたのは松陰寺だ。校舎のなかを走って幸洋を探してきてくれたのだろう、頬は僅かに火照っていて吐息も熱を帯びていた。


「わかんない。約束とかしてないから」


 返した声は弱々しくて、これから屋上に立って思いの丈を叫ぶ人間のものには到底思えない頼りない声だった。

 彼とはもうひと月後近く何も話していない。

 一縷の望みにかけて彼がよく昼休みを過ごしている図書室の海外文学の棚にメモを置いてきたが、彼がその意図を察してくれるかどうかは別の話だ。第一、分かったところで一ヶ月もの間疎遠だった人間の話を聞きに来てくれるとは到底思えない。

 暗がりの思考を巡らせているうちに、主張を終えた生徒が清々しい表情で駆けてテントに戻ってきた。これから告白の届いた先輩と会うのだろう。足早に校舎に戻っていく背中は、眩しくて目が焼かれるような気分だった。 


「次は二年生二組のマドンナ! 秋山さんから主張があるそうです! 秋山さん! よろしくお願いします!」


「はっ、はい……!」


 司会の放送部の生徒に呼ばれて、テントから飛び出す。

 屋上から中庭を見下ろして、校舎と中庭から向けられる熱い視線を受け止めながらたった一人の人物の姿を探した。

 ——やっぱりいないよね……。

 中庭を見下ろしても、校舎の窓辺を見回しても。幸洋の姿はどこにもない。

 きっとあのメモには気づかなかったのだ。

 気づいたとしてもやはり来ないだろう。頬殴られた相手の顔など、いったい誰が見たがる。

 傲慢で、思い上がりで、自己中心的だった自分に嫌気がさしてため息を零した。

 ならばせめてこの想いを叫んでやろう。

 この瞬間視界に映る全ての人間に向かって、「私は皆が思っているよりずっと根暗です」と叫んでやればそれでいい。

 もっと他には叫びたいことはあったけれど、この腹の底に飼っている虎にはそんな叫びがお似合いだろう。


「言いたいことがあるっ~~~!」


 肺に取り込んだ空気の全部を吐き出して、宣誓の合図を言い放った。



 声がした。


「私、中学までは地味で根暗でオタクで冴えないヤツでした!」


 耳に届いた叫び声は、声の主を特定するには反響しすぎていた。廊下に溢れる人混みを掻き分け、囁かれる困惑を聞き流しながら行き慣れた教室へと彼女の姿を求めて向かう。


「でも高校になってから、色々頑張ってなんとか印象は変わったかなって思ってます——」


 廊下を抜け、階段を駆け下りて二階へ。二階にも溢れていた生徒たちの間を強引に突破しながら、未成年の主張の受付となっている二年生二組の教室へと走る。見れば、『未成年の主張の締め切り迄五分』と看板を掲げた生徒が扉の前に立っていた。


「あのっ、受付まだ間に合いますか⁉」


 教室に飛び込んで開口一番。

 言い放つと、彼のそんな息を荒げた台詞を始めて耳にした生徒たちは皆同様に固まっていた。

 肩を激しく上下させ、夏から飛び出して来たばかりのような汗を流しているのは、運の悪いことに図書室からは最も遠いこの教室まで走って来たからだった。途中何度も教師に注意を受けたが、それどころではなかった。


「えっ、……あ、うん。ちょうど締め切るとこ。ていうか、沖平君どうしたのその汗。なんか、キャラ違くない?」


「じゃあお願いします。僕にも言いたいことがあるので」


 受付当番だった女子生徒の疑問に答える余裕もなく、待ち時間の最後に名前を記入した。待ち時間は二時間。大とりだった。

 普段ならば拒否反応のひとつもも出てしまうところだったが、気にしている余裕はもうなかった。教室を見回して、彼女の姿を探す。今は受付当番ではないらしい。友人と他の教室でも周っているのだろうか。


「沖平君、メガホンいる? 希望する人にはメガホン貸し出してるけど……」


「お願いします。それより、秋山さんはどこに?」


 訊ねると、小首を傾げてから教室の外を見やる女子生徒。視線の先は屋上を向いているようだった。


「秋山さんならちょうど屋上にいるよ。未成年の主張に参加してるから」


 言われて、廊下に飛び出した。

 窓辺の人混みから屋上を見やる。身長が平均よりも高いことが幸いして、屋上にいる人物の姿は鮮明に瞳に映った。



「——でも変わったのは見た目だけで、中身はそんなに変わりませんでした!」


 本音と建前の混ざった主張を叫びながら、脳裏で己の諦めの悪さに嫌気がさしていた。


「だから今日はみんなにこの事を覚えて帰って欲しいなって思ってます! 私、秋山凛は地味で根暗なオタクです!」


 まだ彼のことを探している。

 まだ、まだ。もう少し、あと少し——長すぎるくらいの主張で、彼がこの咆哮を聞いてくれないかと願っている。

 けれどもう、それも限界だ。背後のテントで制限時間を計っていたタイマーの音がしている。

 これ以上はもう、


「だから明日からはもっと皆と仲良くなりたいです! 高校卒業するまでに、お前ら全員と友達になってや——」



「出来もしないこと言うなよ!」



 声は中庭から向けられた。

 皆、その叫びを耳にして騒然としている。

 困惑が冷淡になり、やがて嫌悪に変わっていく。会場の空気を水の泡にする負の波紋が広がっていく中心に居たのは、メガホンを持った幸洋だった。

 胸が破裂しそうなほど空気を肺に取り込んで、


「言いたいことがあるっ~~~!」


 中庭から屋上に向けて。

 メガホンの力など一切借りずに放たれた雄たけびは、正真正銘猛虎のそれだった。



「僕は……沖平幸洋は! 二年生二組出席番号一番、秋山凛のことがこの世で一番大っっっ嫌いだ!」



 灰色だった周囲の視線は、その一言で黒く染まった。

 嫌悪が伝播する。軽蔑が蔓延する。文化祭の空気を完全に破壊した者への、粛清を求める冷徹が広がっていった。


「……」


 幸洋の姿を認めて心臓が躍りそうだった凛だったが、心からの拒否を聞いて思考が真っ白になっていくのを感じていた。

 ——ばかだった。

 期待なんてしなければよかった。来てくれるかも、なんて考えなければよかった。

 思考が浮上できない暗闇に墜ちていく。


 その時だった。



「秋山さんは噓つきだ! 本当は小説が好きなくせに漫画が好きだとか噓をついて、本当は気弱なくせに気丈に明るく振舞ってるだろ! そこに秋山凛はいないじゃないか! そんな偽物のあなたを、僕は好きにはなりたくない!」



「……っ」


「僕は秋山さんのことが羨ましかった! 教室の誰とでも分け隔てなく話せて、誰からも慕われてるあなたのことが! だからそれが偽物だと知った時は相応にショックだった! けど、それと同じくらい嬉しかったんだ! この人も同じ悩みを抱えてるんだって、前よりずっと身近な人に思えたから——」


 受け取ったメモを凛に突き付けて、叫んだ。



「だったらそれを僕に見せてくださいよ! 僕の前では噓ひとつない自然体でいてほしかった! 僕には本音で話してくださいよ!」



 言いきって幸洋は、しんと静まり返った辺りを見回した。

 視線は冷たいままだった。

 これで居場所を失くした。確信して、もう決して自分に平穏な学校生活が訪れることがないことを受け入れていた。

 凛からの返答もない。

 全てを諦めて、踵を返そうとした。


「ま、まだ言いたいことがあるっ~~~!」


 震えながら絞り出された叫びだった。

 見返すと、屋上で凛が泣いていた。

 ぽろぽろ大粒の涙を地上に落としながら無理やり笑顔を作っている。普段の彼女からは想像できないほど不細工な泣き顔だった。鼻水だって垂れているし、顔は真っ赤に紅潮している。後ろから来たやってきた松陰寺が凛の肩を抱いていて、凛はすすり泣きながら口を開いた。


「明日。駅前で待ってるから」


 ———


 結局凛とは一言も交わせないまま、幸洋は午前〇時を迎える直前のベッドに横になった。

 凛とのメールのやり取りを見つめていた。最後の更新はちょうど一ヶ月前。それから時間が止まってしまったかのように連絡は途切れてしまっていた。

 今日の件があるとはいえ、そう簡単に再び学校連絡が来ることはないだろう。

 思っていると、不意に通知音が鳴った。

[ごめん。まだ起きてる?]

 凛からだった。どこか素っ気なくて遠慮がちな文面。

[はい。どうかしました?]

 返信する。

[文化祭お疲れ様。少し話したいんだけどいい?]

 すかさず答えが返ってきた。

 部屋の壁掛け時計を見やる。明日は週末で時間はいくらでもあった。

[僕も話したいです]

 返信すると間もなく久しく鳴らなかった着信音が部屋に響いた。


『……も、もしもし?』


 一ヶ月ぶりに向き合って聞いた彼女の声はほんの少し上ずっていた。

 嚙み締めるように声に浸って、返答する。


「久しぶりですね。こうして話すのは」


『うん。一ヶ月ぶり』


 互いに何か探っているようなぎこちない沈黙が落ちた。

 無理もない。昨日までは赤の他人のような希薄な関係が続いていたのだ。

 突然一ヶ月前のような関係に戻れるはずがなかった。

 まずやるべきこがあるのに気づいたのはほとんど同時で、


『ごめんなさ……ぁ』


 声は重なってしまって、譲り合うような沈黙がまた続いた。

 彼女に譲るべきだろうか。逡巡する。

 だが、先に彼女を心無い言葉で傷つけたのはこちらの方だ。思うと、口は意図せずに開かれた。


「あの時はすみませんでした。心ない言葉をかけてしまって。……秋山さんがあんなこと思ってるはずがないのに、自分の先入観だけで酷いことを」


 あの日凛に向けた言葉を後悔しない日はなかった。

 何度本を開いても、何度朝を迎えても。必ず脳裏で彼女の泣き崩れそうだった表情が浮かんでしまって、その度に猛獣の爪のような鋭い後悔で矮小な心を引っ搔いていた。


『ううん。私こそ。ごめんね。沖平君のこと、何も考えてなかった。……あの写真、もう消したよ。誰にも見せてない。もっと早くこうすればよかったね』


 声には彼女なりの後悔が含まれていた。

 自責よりも静謐な怒気が強く滲んだ声を聞いて、首を横に振って否定したがそれが凛に届くことはない。


『ねぇ、明日のことなんだけどさ。駅前、来てくれる?』


 だからせめて、続けられた祈りような問いには素直に答えた。


「当たり前じゃないですか。断る理由がないですよ」


『……ありがと』


 安堵と微笑の気配がして、天井を仰いだまま凛に明日の行き先を問いかけた。


『神保町だよ。沖平君と仲良くなってから、ずっと行きたかったんだ』

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