第一六話 あの夕景に挟んだ栞は、まだ一ページも進んでいない。

 南口前のミスタードーナツ。そこが彼女との待ち合わせ場所だった。


 ——……変な格好してないよな。

 硝子に映る自分の姿を一瞥した。

 ベージュのニットの上から羽織ったデニムジャケットは、凛と二人で行ったブティックで後日買ったものだ。パンツは黒い無地のジーンズで、スニーカーは合わなかったので革靴にした。

 唯一懸念があるとすれば普段休日は決して掛けない眼鏡を掛けていることくらいだが、以前凛に強く勧められた金縁の丸い眼鏡をかけたのは今日が初めてだった。

 腕時計に視線を落とし、時刻を確認する。集合時間まではまだ一〇分もある。流石に早く着き過ぎてしまった。

 妙に落ち着かない。店のなかで待っていても良かったが、ジャケットと眼鏡を買ったばかりで財布は異様に軽く、浪費することは当然出来なかった。


「沖平君? 早いね。まだ一〇分も前だよ?」


 突然向けられた声に幸洋は向き合って、思わず息を飲んだ。


 そこには、あの日のニットとフレアスカートに身を包んだ凛が居た。あれから研究を重ねたのだろう。スカートに合わせたショルダーバッグを肩に掛けていて、首にはアネモネのネックレスが赤く光っている。元より整っていた顔立ちを活かす薄いメイクで眼鏡は掛けていない。引かれた桃色の口紅は彼女の純真無垢な内面を映しているようで、吹いた風が緩く巻かれた髪を揺らして、甘いバニラの香りを運んだ。


 目を奪われたまま月並みな台詞で答えを返した。


「来たばかりですよ。秋山さんこそ、早いですね」


 言うと視線から何か感じ取ったのだろう。胸元を隠すように右腕を左へ回し、下がっていたショルダーバッグの肩紐を持ち上げて彼女は答えた。


「うん。……家でじっとしてられなくて、つい。少し早いけど、もう行っちゃう?」


 昨晩の電話越しのように、少し上ずった声で駅を指さす凛。


「そうですね。向こうに着いたらまずお昼にしましょう」


「うん。喫茶店でゆっくり話したいな」


 ———


 それから電車で一時間。快速電車に揺られている間、互いに会話はほとんどなかった。大手町で都営三田線に乗り換えて一駅だけ電車に揺られる。

 扉の前に二人で立っていると妙に体温が近く感じられて心臓がいつになくうるさかった。らしくなくどぎまぎしているのを悟られまいと、幸洋は本を手にして意識を凛から逸らし続けていた。


「んっ~! 外だぁ~!」


 凡そ一時間ぶりに地上の空気を肺に取り込んで、凛は大きく体を伸ばしていた。幸洋もならって隣で体を伸ばす。

 二人で揃って伸ばしたから力を抜くと、凛が突然屈託なく笑った。


「こうして二人で神保町に来るなんて、想像もしてなかったね」


「ですね。僕はここ初めてですけど、秋山さんはあるんですか?」


「うん。中学の頃はよく来てたよ。高校になってからは原宿と渋谷とが多くなったけど、私はここの方が好きかな。都心だけど静かで、時間の流れが緩やかな気がするよね」


 言われて、耳を澄ましてみた。

 鼓膜を揺さぶるのは、街を行き交う人々の談笑と道路を走り去っていく車たちの唸りくらいのものだ。雑踏と呼ぶには大袈裟でその物足りなさが心地よい街だった。

 鼓膜に馴染む営みの音を愉しんでいると、不意に左の手が引かれた。


「ねぇ、そこの喫茶店。パスタが美味しいんだ。少し並ぶけど、せっかくだし行こうよ」


「は、はい」


 凛に手を引かれたまま、すぐ近く喫茶店の列に並ぶ。店の前に並ぶ客層は大学生の男女が多い。僅かに疎外感を覚えたが、傍らの凛を見やって払拭するように首を横に振った。


 程なくして店内に案内された。注文は凛のお勧めらしいナポリタンにした。

 凛も同じもので注文を通し、暫くして運ばれてきたナポリタンがテーブルに並ぶと彼女はその様子をカメラに収めていた。

 

「ねぇ、昨日言ってたこと。あれって本当?」


 突然の問いかけに、ナポリタンを絡めていたフォークを回す手を止めた。

 昨日。凛の主張を遮ってまで叫んだ言葉を思い出してみる。

 思い返せば、彼女の心を傷つけかねないことばかり叫んでいた。

 噓つきだとか。好きにはなれないだとか。

 残りの言葉は、思い出したくもなかった。

 入学以来ずっと彼女に対して抱いていた想いを暴露したに等しいのだから。

 誤魔化すようにナポリタンを口に運んで、小さく頷いて返答にした。


「そっか。私のこと、ちゃんと見ててくれたんだ。てっきり気にすらされてないんだと思ってた」


 ひと口、ナポリタンを凛が口に運んだ。

 咀嚼を繰り返した後で微笑を浮かべて、凛はフォークを置いて背筋を伸ばした。

 やがて視線が向けられた。


「私ね。一年生の頃からの沖平君に憧れてたって言ったら、びっくりする?」


 口に運ぼうとしていたフォークを下して、目を見張ったまま反射的に凛を見返した。

 視線が必然的に重なって、互いの心を覗き見るように見つめ合ったあとでどちらともなく視線を切った。

 気が付くとフォークをくるくると、ナポリタンの無い皿の空虚の上で回している自分がいた。装うこともできないほど動揺している自分に内心で苦笑しながら返した。


「それは、まぁ……それなりにはびっくりしますよ。でもなんで……」


 問いかけると凛は、まだ半分も食べきれていないパスタを口に運んでから咀嚼と共に記憶を遡っている様子だった。

 やがて凛は口にしたナポリタンを飲み込むと共に蘇った記憶を言葉にした。


「入学してすぐに沖平君のことは気になってたんだ。クラスの誰とも関わろうとしないで、ずっと本を読んでるから知らず知らずのうちに昔の自分を重ねちゃってたんだと思う。あの人はあのままだと友達を作れないまま高校生活を終わらせるんだろうな、って。薄情だけどそう思ってた」


 けれどそんな想いが変わったのは、入学からしばらく経った頃で。

 その頃の凛はと言えば、学校での仮面を被った自分と本来の自分との間に起こる摩耗に耐え切れずに疲れ果ててしまっていた。


「そんな時にも君は変わらず本を読んでるからさ。なんだか無性に腹が立って。どうしてこの人はここまで他人に無関心でいられるんだろう。少しは周りの目を気にしたらいいのにって思ってた」


 けれど、幸洋を見ているうちに気づいた。


「私は君に憧れてたんだ。誰に流されることもなく、毅然とした態度で居続ける君が私にはあの教室の誰よりも眩しかった」


 最後のひと口を凛が口に含む。

 彼女の告白に動揺を隠せず、気が付くとフォークを置いたまま温度を失っていくナポリタンをまじまじと見つめていた。

 すると、皿に凛のフォークが伸びてくる。くるっ、と少なめにナポリタンを巻き取ると凛はそれを自分の口へと誘拐した。

 飲み込んでからナプキンで口元を拭い、凛が告げる。


「私は君になりたかった。君みたいに、強く生きられる虎のような人間になりたかった」


 告げられた想いはこそばゆい。

 残されたナポリタンをフォークで絡めて口に運ぶと、ひた隠してきた憧憬を彼女もまた味わっていたのだとタバスコの辛酸が語っていた。


 ———


 喫茶店を後にして狭い路地を抜けると、本の町らしく本屋これでもかと立ち並ぶすずらん通りに出る。

 凛と肩を並べて歩きながら幸洋は、齢一七歳にして初めて訪れた街の光景に胸の高鳴りを抑えきれなくなっていた。

 左右に首を振って、どの書店へと足を伸ばそうかと迷っていた。

 古本屋に置かれた八〇年代の映画のポスターが目を奪い、その向かいにあった古本で店内を埋め尽くされた寂れた書店に目を惹かれる。


「沖平君、どのお店入ってみる?」


 行き先を決め兼ねていたのが凛には伝わっていた。

 訊ねられて、辺りの書店を見回す。こう書店が多いと全てを見て回ることは不可能だし、一店舗だけというのも物足りない。

 大型の書店でもあればいいのだが。口にすると、慣れた様子で凛が通りの先を見やった。


「この先に少し大きめの書店はあるよ、古本屋じゃないけど、三階建てで色々置いてあるし。ちょっと行ってみる?」


 ここは街に慣れている彼女の提案に頼ろう。

 応で答えて、凛に連れられて書店へと足を運んだ。


「ここからはさ、少し別行動にしない? お互い色々見て回りたいだろうし」


 凛にはこちらの思考が手に取るように分かるらしい。

 書店に入ってからというもの辺りを見回して目移りを繰り返していたのがバレたようだった。微かな罪悪感と、彼女が理解を示してくれていた照れ臭さが同居してどちらを表情にして良いのか迷った。


「いいんですか? 僕、時間忘れる気がしてならないんですけど……」


「なら私が声をかけるよ。好きなだけ見てて。私は三階に居るから」


 ならばお言葉に甘えて心ゆくまで本を探させてもらおう。

 一階奥の日本文学の棚へと一目散に向かって行き、エレベーターへと歩いて行く彼女から振られた手に、控えめに手を振り返して見送った。


 ———


 気が付くと、幸洋と別れてから二時間もの時が過ぎていた。

 立ち尽くしていた海外文学の棚から離れて一階へと向かう。開いたエレベーターから飛び出して日本文学の棚を見やって、凛はそこに幸洋の姿を認めて安堵を零した。

 歩み寄って声をかけた。


「沖平君、ごめん。待たせちゃった……?」


 しかし返事はない。

 本を吟味している内に活字の海に吞み込まれてしまったようで、声はすっかり右から左へと意識のすき間を通り抜けていた。

 せっかく二人でいるというのに無視されたのが無性に腹立たしく感じられて、ほんの少しムッとした。

 ショルダーバッグから携帯を手に取る。カメラを起動して彼に向け、静かにシャッターを切った。

 ぱしゃり、と音がすると——。


「うわぁっ⁉ って秋山さん? 三階に行ってたんじゃ……」


 これまたらしくない反応で、眼鏡を派手に浮かせながら目をまん丸にして幸洋が仰天していた。

 そんな様子が可笑しくて、つい笑いを零してしまう。


「ナイスリアクションだったね。もう二時間経ってるよ。気になる本、見つかった?」


 問いかけると幸洋は、名残惜しそうに首を横に振った。


「そっか。残念だね。違う書店行ってみる?」


「もうこれ以上いると遅くなりますよ。帰りにも時間かかるんですし、今日はもう帰りましょう。また今度来ましょうよ。二人で」


 今度また一緒に来てくれる。

 そう彼の口から告げられたのかこの上なく嬉しくて、きゅっと胸の奥が締め付けられる感覚を覚えたがそれを顔には出さぬように頷いた。

 携帯を両手で握っていると、やがてそれを見つめていた幸洋が指さす。


「あの、さっき写真撮ってました? ちょっと見せてください」


「え? あ、いや……これは」


 携帯を取り上げられる。

 撮った写真には、真剣な眼差しで本を読んでいる幸洋の姿が写っている。

 こちらとしては渾身の一枚のだったのだが、きっと幸洋にとっては今すぐにでも抹消願いたいもののはずだ。


「す、すぐに消すから……!」


 携帯をなんとか取り返し、写真を削除しようと動揺で震える指を無理やり動かして写真を削除した。巻いた髪の毛先を指先で回して、焦りを拭おうとしていた。

 すると、


 ぱしゃり、と。

 突然そんな音がして、弾かれたように彼へと視線を向けた。


「お、沖平君……?」


 見やると、幸洋が携帯をこちらに構えていた。

 そしていつになくいたずらな笑みを浮べながら、これまたらしくない台詞を言った。


「お返しです。こんな秋山さん、滅多に見れませんから」


「んなっ。け、消して……! 恥ずかしいからぁ!」


 叫びながら幸洋の携帯に飛びつく。

 自慢の身長と手足で決して届かない高さまで携帯を避難させ、幸洋は屈託なく笑っていた。


「僕はいいと思いますよ。そういうところも含めて、秋山さんだと思ってますし。それに——



 ——あの日のおかえしはしておかないと、僕の気が済まないですから」


 ———


 車窓から差し込む夕陽に、頼りない背中を預けていた。


 空から注ぐ紺碧と地平線に沈んでいく赤のグラデーションは静謐で。けれど侘しさなんて微塵も感じさせず、黒く浮かび上がる街並みに灯る街明かりは光の海のようで茫漠な空を鏡に映したようだった。


 一日歩き回って流石の彼女も疲れてしまったのだろう。

 隣を見やると、膝の上に手を揃えて置きながら凛がうたた寝していた。

 膝の上に大事そうに抱えられた鞄の中を覗いて、隙間に一冊本を忍ばせる。

 猫の刺繡の入った夕景の紺碧を垂らしたブックカバー。誕生日に渡せなかったことを栞に書いて挟んでいるが、それに彼女が気づくのはきっともう少し先になるだろう。


 やがて電車が緩やかに曲がって、つられて彼女の体が寄りかかって来た。


「秋山さん?」


「……」


 払おうとして華奢な肩を握ると、彼女は無意識のうちに髪の毛先を指で回しはじめた。

 寝息を立てる彼女をこれ以上邪険に扱う気にはなれなくて、せめて首が痛まないようにと支えるように肩を寄せた。



 駅まではまだ時間がある。

 思って鞄から本を手に取った。はじめの数ページを読み始めたばかりの恋愛小説は、いつか凛に紹介された作家の新刊だった。


 読み始めようと本を開いた。

 だが、不意に彼女の手が膝の上に置かれた。意識を奪い取られ、傍らの彼女を見やった。


 栞を挟んで、本は鞄の奥にしまう。


 言葉ひとつなく。置かれた温もりを離さないように。

 

 僕はそっと、彼女の手を握った。

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