第一〇話 ︎︎毒虫のなかの心獣

 放課後。

 部活へ向かう生徒たちの波を搔き分けて、秋山は人気のない昇降口に向かっていた。


 クラスメートに今週も部活を休む旨を伝えると案の定質問攻めにあい、事態を沈めるのに時間がかかってしまった。

 ひとまずは『体調不良』ということで事なきを得たはずだが、それがバレてしまうのも時間の問題だろう。

 溜め息が出そうになるのを必死に堪えながら、昇降口で上履きをローファーに履き替えた。

 幸洋の靴箱を淡い希望と共に一瞥するが、ホームルームを終えてから随分と経ってしまっている校内にはとっくにいないらしい。上履きの踵はせり立った壁のように真っすぐに整えられて靴箱に収められていた。


 昇降口と同じく、正門にも人気はなかった。

 教師に見られることもないだろう。

 油断しきって、背中のリュックからクリーム色の有線イヤホンを取り出して携帯に接続する。イヤホンを耳に差して、正門から左手にあるバス停に向かおうとして体を向けた。

 その時だった。


「秋山さん。遅かったですね」


「うわぁっ⁉」


 正門の影にしゃがみ込んでいた幸洋が突然声を掛けてきて、思わず身をすくめた。

 こんなところで何をしているんだ。疑念が脳裏を過るが、それを問うまでもなく幸洋の方から事の真相は明かされた。


「待ってたんですよ。あんまり遅いから、部活に行ったのかと思ってました」


「え? 待ってたって……沖平君が私を?」


「そうですけど」


「……なんで?」


 てんで合点がいかず首を捻った。

 しかしこちらの様子を受けて、幸洋は微かに怒気を帯びたような表情をする。呆れと苛立ちを多分に含んだ特大の溜め息を零すと、傾いて赤くなった夕陽を見やって呟いた。


「昼休みの時。あんな話を聞かされたら誰でも心配になりますよ。大体の察しは付いてるので話してください。聞きますから」


 ぶっきらぼうな物言いだが、彼なりの優しさなのだろう。

 普段は寡黙で冷たい態度を保っている幸洋から向けられた気遣いは、夕暮れの寒空にその日最後の温もりを注ぐ夕陽のように温かかった。


 ———


 秋山を連れて幸洋が訪れたのは、いつか彼女の秘密を聞いた図書館前のカフェだった。

 幸洋はコーヒーを、秋山は紅茶を注文し、運ばれてくるまでの間二人の間には居心地の悪い沈黙があった。

 「お待たせしました」といつも見かける若い女性店員がコーヒーと紅茶を運んでくる。

 秋山が砂糖を紅茶に入れ、一口飲んだのを確認してから幸洋は切り出した。


「単刀直入に聞きますけど。部活、辞めるんですか?」


「……」


 訊かれて秋山は目を伏せた。

 カップの取っ手をつまんだまま、教室での明るい振る舞いなど忘れてしまったかのような薄暗い表情を浮かべている。

 やがて小さく深呼吸したのは、呼吸を整える為ではなく意を決する為なのだろう。

 伏せていた双眸が持ち上げられた時、彼女の目にはもう冷めてしまった後悔が潜んでいた。


「うん。そのつもりだよ」


「……そうですか」


 返した言葉は正しかったのだろうか。

 止めるべきではないのか。本当にそれでいいのか、彼女の本心に問いかけるべきではないだろうか。考え出すと、きりのない憂いがこみ上げてくる。

 それでも口にはしないように努めて、縋るようにコーヒーを煽る。苦い。ほんのりと酸味を感じたのは、きっとキリマンジャロだからだ。


「あったかいね。沖平君は」


「はい?」


 不意に秋山が零した言葉に、疑問符を禁じ得なかった。

 目を点にしていると、秋山は紅茶をまた一口運んだ。すっかり日の沈んだ鈴虫の鳴きそうな夜を眺めて。


「ほんとはね、少し迷ってる。本当に部活を辞めちゃってもいいのかなって。辞めたら、私はきっと部活の皆にとっての毒虫になるから」


「……」


「今だってきっと、みんな口にはしないだけで思ってるはずだよ。今さら私がいなくなっても皆何も感じないかもしれない。そのうち、いないことが当たり前になっていくんだよ」


 告げた彼女の姿は侘しくて。

 咲いていた向日葵が枯れ果てていくように、静謐で残忍な現実を何の抵抗をすることもなくただひとつの揺るがない事実として受け入れていた。


 ちくり、と。

 胸中で何かが、そんな彼女の姿を目にしてささくれ立った。


「分かりませんよ。そんなこと。中学の頃からの僕は部活なんて入ったことないですから。万年帰宅部で、読書だけが生きがいだったので」


 続けて言う。


「だから、僕には部活を辞めたからって辞めた人間を恨む理由も分からないし、それを恐れる理由も分かりません。だから秋山さんの問題を僕が解決できるとは到底思いませんし、何か有効なアドバイスをすることだってできません」


 でも、と無意識に胸中に秘めていた想いは言葉になった。



「僕は秋山さんを毒虫だとは思いません。少なくとも、僕からすれば秋山さんは秋山さんのままです。部活を辞めても続けても、それだけは絶対に変わりませんよ」



 言いきってからコーヒーを口に運ぶ。二口目のキリマンジャロからは特有の抜け感のある酸味を強く感じられた。

 口の中に広がる酸味を愉しんでから秋山を見やった。


「そっか。……ありがとね、沖平君」


 深謝と共に柔和な微笑を零す彼女だったが、その瞳は潤んでいた。

 だから、見て見ぬふりをした。

 硝子の向こうの冷たい夜を見やりながらまた一口コーヒーを煽っていると秋山が、


「沖平君ってやっぱり優しいよね」


「……どうしたんですか。突然」


 真っ直ぐに向けられる視線を決して見返すとことがないように。窓の外ばかりを眺めながら秋山に問いかけた。


「突然なんかじゃないよ。あの日のこと、まだ誰にも言ってないんだよね。私ね、今すごく嬉しいよ。あの姿を見られたのが沖平君で良かったなって本気で思ってる。沖平君はどう? あの時のこと、どう思ってる?」


「僕は……」


 問われて、幸洋は内なる自分に問いかけた。


 災難だった。この一言に尽きるだろう。

 何せクラスの誰にも見られたくなかった姿を、クラスで最も苦手な人間と位置付けている秋山に見られてしまったのだから。

 平穏が崩れる気がした。

 高校に入学してから守り抜いてきた平凡で荒波のない平穏無事かつ安定した日々が、秋山との接触によって全て水の泡になってしまうのではと恐れていた。


 だがそれは彼女にも言えたことだった。

 あの日出会ってしまった時点で秋山との間には、互いに最も他人に知られたくないものを知ってしまい、切っても切れない縁が結ばれてしまったのだ。


「僕もそう思います。秋山さんが僕と同じ悩みを抱えててくれて良かったです。おかげで助かりました」


「そっか。お互いさまだね」


 秋山を見やると、彼女はまたサイドテールの毛先を指先でくるくる回している。俯きがちに微笑を浮かべる彼女の、長いまつ毛の象徴的な瞳が上目遣いで向けられた。

 視線から逃れて、コーヒーを口に運ぶ。最後の一口だった。


 冷たくなったキリマンジャロの香りが鼻腔を透き通り、苦みを追ってきた酸味を味わう。

 普段から飲み慣れたはずのキリマンジャロは、しかしその日に限ってはやたらと甘く、苦みなんて忘れるほどの酸味が口の中に広がった。


 ———


「もぉぉぉ! 調子狂うなぁぁぁ!」


 言いながら、ベッドに飛び込んだ。

 虎の抱き枕を抱き寄せてベッドの上でのたうち回り、一頻り暴れた後で天井を仰いだ。抱き枕を胸の上に置いてその背中を撫でていると、


「はぁぁぁ……」


 意図せず、特大の溜め息が零れた。

 これで何度目だろう。幸洋と別れてからずっとこの調子だ。

 胸の辺りはもやもやするし、夕食のカレーは無意識にフォークで食べようとしていたし、お風呂には靴下を履いていくし、日課であるはずの読書にも全くと言っていいほど集中できなかった。リビングで携帯を触っていると母には活字中毒が治ったのか、と心配される始末だった。

 ——沖平君、なにしてるのかな。

 思いながら身の丈程ある虎を抱き寄せる。

[まだ起きて⎜ ]……たたたッ、素早く取り消す。

 もう日付は変わっていた。こんな真夜中にメールをしても返信なんて返って来ないだろう。諦めて携帯を枕元に伏せて置く。


「はぁ……」


 眠れない。

 何度も読み返した本でも読んで、無理矢理にでも睡魔を誘おう。思い立ってベッドから這い出て、勉強机に置かれていた眼鏡を取る。

 縁の赤い、度数の合っていない丸眼鏡を掛けて本棚から適当な本を手に取る。『山月記』だった。

 眼鏡をかけたまま、またベッドに飛び込み本を開く。


 明日、虎になっていなければ良いのだが。


 そんな冗談を内心で零しながら、虎の抱き枕に体を預けて眠りについた。

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