第九話 ︎︎ぱらつく弱音と死ねない毒虫
小雨の降る肌寒い朝の駅。
対岸の上り電車に乗り込んでいくサラリーマンと学生の姿を一瞥して、幸洋は下りのホームのベンチに独り腰を下ろした。
猫のような欠伸をしてから、鞄から文庫本を取り出す。秋山に借りていた二冊目の恋愛小説だ。栞は既に中盤にまで進んでいる。
今週には読み終わると確信しつつ、朝の人気のないホームで本を開こうとした。
「朝から読書とは感心だね。沖平君」
だが数少ない楽しみは、突然向けられたあるはずのない声によって遮られた。
視線を持ち上げる。声の主は分かりきっている。土曜日の夜に散々声だけを聞かされたのだ。嫌でも忘れられるはずがなかった。
「秋山さん。なんで……」
「先におはようだよ。沖平君」
背後の空の曇天など彼女には見えてすらいないのだろう。
溌剌とした調子で言って、秋山は当然のように隣に腰を下ろした。
手には赤い傘を握っている。思えば雨の日は電車通学だと以前に言っていたか。一人納得して本へと意識を戻した。
「あれ!? 思ってたより反応薄くない⁉」
「前に自分で言ってたじゃないですか。雨の日は電車とバスだって」
「だとしてももっとあるでしょ……」
思いきり肩を落とす秋山。
朝から相変わらず情緒の忙しない人だな、と内心で呆れにも似た感心を抱くが言葉にも視線にもしない。
ごく平然と本のページを捲りながら本への意識は半ほどにして、彼女が退屈しないように問いかけた。
「なら聞きますけど、それ以外に何か理由があるですか」
「お、気になっちゃう? だよねだよね。実はね……」
今にも踊り出しそうな弾んだ声で彼女がポケットから取り出したのは、白い定期入れだった。中には今もこちらのポケットに入っているのと同じ通学定期が入っている。
「今週から電車とバスで通学することにしてみたんだ。ここから学校まで結構距離あるから自転車だと大変だったんだよね」
「そうですか」
「反応うす……」
———
睡魔との過酷な戦いを強いられた四限目を終え、秋山は午前の授業で凝り固まった体を伸ばした。
久しぶりに予定のなかった週末のほとんどを読書に当ててしまったせいで、ろく睡眠がとれていなかった。土曜は幸洋と遅くまで電話をしていたし、日曜も結局日付を跨ぐまで本を読んでしまっていた。
これでは活字中毒を通り越して奴隷だな、と内心で失笑する。
——そういえば沖平君はどこに……。
思って教室をぐるりと見回すが、昼休みに入ったばかりだというのに幸洋の姿はもう教室のどこにもなかった。
未だに距離感を掴みかねていた。
あの日曜日以来格段と以前よりも距離が縮まったのは確かだが、それはあくまで校外での話だ。教室や校内では相変わらず避けられている。
これが適切な距離感なのだとしたら、少し寂しくてもどかしい。
どうにかして彼との距離を縮められないものだろうか。
——……でも、それで嫌われたくはないし。せっかく連絡先まで交換したんだから、もっと仲良くできないかな。
考え込んでいると、それを見ていた一人の女子生徒が秋山に歩み寄った。
「なにぼぅっとしてんの。凛。ご飯食べようよ」
普段から昼食を一緒にとっているグループの女子生徒——松陰寺だ。手には可愛らしいトイプードルの巾着に包まれた弁当箱を握っている。
頷いて席を立ち、既に机をかき集めて作られた昼食会場に向かおうとする。だが、不意に脳裏を違和感が駆け抜けた。
「凛? どったの?」
昼休みの間に済ませておきたい用事を思い出して足を止めていると、松陰寺が振り返った。
思わずその場凌ぎの嘘を探して視線が泳ぐ。
「あ……いや、そういえば今日お弁当ないんだった。購買で買ってくるから遅くなるかも」
「なにそれ、だったら急ぎなよ。さっきジャガイモたちがダッシュで行ってたから」
素直に野球部員とは言えないのだろうか。
友人の相変わらずの毒にツッコミのひとつでも入れるべきか逡巡したが、結局ぎこちない愛想笑いしか浮かべられなかった。
そうして教室を後にして、購買部のある部室棟前へと向かう。購買恒例の争奪戦を一瞬だけ観戦して踵を返し、教室棟を四階へ上がって行った。
辿り着いたのは生徒指導室だ。部屋にはバドミントン部顧問の教師がいる。
ノックしようとしたが、一度躊躇って浅く呼吸を整えた。
購買部に行くと嘘をついた後ろめたさを背負い、これから自分がやろうとしていることへの罪悪感を握り潰すように。
曇天で薄暗い廊下に響くノックは、暗く震えていた。
———
幸洋が昼休みを過ごすのは、吹き抜けの図書室の二階奥と決まっていた。
誰も寄り付かない海外文学の棚にある埃っぽいソファに深々と腰を下ろし、誰にも邪魔をされることもなく読書に集中する。
この至福の時間こそが幸洋にとっての高校生活最大の目的と言っても過言ではなかった。
過言ではなかったのだ。つい数分前までは。
「やっと見つけた。いつもこんなところにいたんだ。沖平君」
何の遠慮もなく至福の時間を邪魔し来た秋山は——当の本人にそんな意図はなくとも幸洋がそう感じた時点で邪魔以外の何物でもない——何の断りもなくソファの影に置かれていたアンティークの椅子を運んで腰かけた。
「この学校の図書室すごいよね。規模も大きいし、おしゃれだし」
「……」
まるで校外にいる時と同じ態度で話しかけてくる秋山。
聞こえていないふりをして、読んでいた本から意識を背けることなく読書に全神経を注いだ。
そんなこちらの様子を見て言葉を交すのを諦めたのだろう。握っていたクリアファイルを膝の上に置いて、秋山は辺りの本棚をぐるりと見回した。
覚えのある本を見つけたようで、腰を浮かせてそれを手に取った。
「沖平君。『変身』って読んだことある?」
秋山が手に取ったのは『変身』だ。
ある日毒虫となった男が家族に支えられながら懸命に生きるが、最期には実の父に傷つけられ、その傷が癒えることはなく家族への愛を抱きながら毒虫のまま事切れる——一人の男の身に起きた悲劇を描いた小説だ。
知らない者はいないだろう世界的に有名な作品だが、幸洋は読んだことがなかった。
しかしそれを秋山に伝えることもせず、黙り込んでページを捲り続けた。
「最後のシーンで主人公は死ぬんだけど、主人公が死んだ後に家族はピクニックに行くんだよ。家族が一人死んだのに、だよ。正気じゃないよね」
「……」
秋山は続ける。
「なんでだろうって初めて読んだときに考えたんだけど、その時は何も分からなかったんだ。でも最近もう一度読み返してやっと理解できたんだ」
開いていた本を閉じ、秋山は膝の上のファイルを撫でる。
冷たい失笑を浮かべて言った。
「誰も彼を家族だとはもう思ってなかった。結局は厄介な害虫としか考えていなかったんだって、気づいたんだ。だからいなくなっても何も痛まなかったし、むしろ清々しい気分でピクニックなんかに行けた。理解したくはないけど、人間って案外そんなものだよね」
「……秋山さん?」
様子がおかしい。
思って本に向けていた視線を秋山に向けた。
あの日と同じ表情をしていた。
ファストフード店で物憂げに溜め息を吐いていた、あの表情だった。
「何かあっ——」
「凛先輩……?」
呼び掛けると、秋山の更に背後から一人の女子生徒の声がした。
幸洋も秋山も、同時に視線をそちらに向けた。
二人が同時に視線を向けるが、そこに立っていた生徒が何者であるのかを知っていたのは秋山だけで。
「小林さん? どうしたの?」
「どうしたの、じゃないですよ! どうして一週間も部活来てないんですか……! 皆心配してるんですよ⁉」
小林と呼ばれた生徒の制服のリボンは青い。どうやら一年生らしい。言い草から察するに、バドミントン部の後輩のようだ。
秋山のことだ。部活でも後輩から慕われていたのだろう。
無関心を装いつつ二人の様子を盗み見ていると、小林は秋山に小さく問いかけた。
「部活、辞めるんじゃないかって皆言ってます。そんなはずないですよね? 二年生先輩たちが茶化してるだけですよね?」
小林の言葉を耳にして、秋山の肩がわずかに跳ねた。
彼女は小林に向き直って、膝の上のクリアファイルを背中に回す。サイドテールを指先で回しながら、小林の抱える不安を洗い流そうと口を開いた。
「大丈夫だよ。辞めないよ。最近体の調子が良くなくて、休んでるだけだから」
「そ、そうですか。……わかりました」
曖昧な返答だがその場は納得したようで小林は用件が済むと足早に去っていった。
秋山もばつが悪くなったのか、先程よりも激しく髪をいじりながらこちらに向き直った。
「じゃあ私もう教室戻るね。授業、遅れちゃだめだよ。沖平君」
それだけ言い残して秋山は図書室を去っていく。
彼女の背中を見送ってから再び本を開いたが、まるで読書に集中できなくなってしまっていた。
秋山が背中に回したクリアファイル。
そこに挟まれていた退部届が目について網膜に焦げつき、思考から離れなくなっていた。
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