第八話 真夜中でもキミの声がする
ぐぐぐ、と座ったままだった体を伸ばして、その日三冊目に読了した本を閉じて秋山は椅子を立った。
窓際の整理された勉強机から一歩離れると、積み上げられていた本に足がぶつかって文庫本の摩天楼がぐらついた。
慣性に抗えないまま本はあっけなく床に倒れて広がる。
倒れた本の一部が他の山に衝突し、山がまたひとつ崩れる。そしてまた、同じことを繰り返す。結局、床一面が本で埋め尽くされるまで倒壊は連鎖して止まらなかった。
床に散乱した本の山を見下ろしながら秋山は記憶を遡る。
最後に部屋を片付けたのは夏休みの終わりだったはずだ。それからわずか二週間ほどしか過ぎていないはずだが——。
「いい加減片付けないとだぁ……」
思い立ったのは夕暮れ時で。
貴重な週末の丸一日を読書に費やしてしまったことを半ば後悔しながら、部屋に広がった本を拾い集め始めた。
———
もう何周も読んだ本は本棚に。未読の本は机の傍に積み上げて。
部屋の整理を終え、ちょうど出来上がった夕食と風呂を済ませて秋山が部屋に戻ると、勉強机の上に置いたままだった携帯には目を見張るほどの通知が溜まっていた。
画面を弾いて確認する。内容から察するに、クラスの一部の者たちがゲームで盛り上がっているようでグループ通話が開かれていた。
——ゲームか……よくわかんないしな。
内心でぼやいて画面を弾く。
頬杖を突きながら操作している内に、ふと脳裏に昨日交わしたやり取りを思い出し幸洋の連絡先を表示した。
表示されたアイコンは、昨日隠し撮りした写真のままだった。
「嫌そうだったのに……」
不機嫌そうな顔をしていたはずだが、本心では存外気に入ってくれているのかもしれない。思わず口端に笑みが零れる。
——だとしたら嬉しいけどな。
本人に直接訊いてみるのも面白いだろうか。
いたずらに考えて、メッセージを打ち込みはじめた。
[アイコン変えてないんだね(≧▽≦)]……すこし皮肉っぽいかな。
たたた、と画面を叩いてメッセージを削除する。
[アイコンもしかして気に入った?]……余計皮肉っぽい気がする。
たたた、と消してみる。
[アイコ⎜ ]……どうしよ。
とうとう手が止まって、携帯に指を置いたまま天井を仰いだ。そのまま思いっきり仰け反ってみる。
その時だった。
がた、と。
今度は机の傍に積み上げた本に椅子の足がぶつかり、即席の塔は思い切り揺れた。
「おっと……」
咄嗟に伸びた手で本が雪崩を起こすのを止めるのに成功した。
バドミントン部で知らずに培われていた反射神経が活きたらしい——と安堵しているのも束の間。今度は机から携帯が床に落ちて、
「やっちゃっ——」
落ちた携帯を拾い上げようと手を伸ばす。
しかし仰け反ったまま、無理な姿勢で携帯を拾おうとしたのが運の尽きだった。
ぐわんっ。
視界が突如縦に走って、不意に浮遊感が全身に巡った。
——あっ。
腰かけていたキャスター付きの椅子が盛大に滑って、抑えていた本共々宙に舞った。
——しんだかも。
次の瞬間。
床に向かって、運悪く顔から突っ込んだ。
「いきてる……」
次に見たのは見慣れたクリーム色の天井だ。
知らない天井になっていなかったのは幸いだった。
体を起こし、目立った怪我はないか薄い部屋着を捲ったり脱いだりして探していた。
怪我も特に見当たらない。こればかりは頑丈な体に生んでくれた母に感謝せねば。思いつつ落としたはずの携帯を探し始める。
トゥルルル。
不意に床に突いた手の先から、電子音が聞こえてきた。
「えっ、あっ……まってまってまって、待って!」
運悪く通話ボタンを押してしまっていた。
発信先は幸洋だ。
なんとか携帯を落ち着かせようと手に取って発信を中断する。
「危なかった……」
部屋の真ん中にへたり込んで胸を撫で下ろした。
突然電話をかけたとして、何を話せばいいのかわからなかった。
宙を舞った本が部屋中に飛び散っているのを見つめて溜め息を零し、もう一度椅子に戻ろうとする秋山だった——が、
トゥルルル。
携帯は秋山の安堵を嘲笑うかのように、不穏な電子音を鳴らし始めた。
———
『も、もしもし……』
電話越しに彼女の声を聞くのは初めてだった。
心臓の音がいつもよりもうるさいのを確かに感じながら、幸洋はあくまでも平然せあることを装ってベッドの上で開いていた本を閉じて声を返した。
「どうしたんですか。今日土曜日ですよ」
『あ、いや。これは、その……ちがくて』
「?」
まごついた口調の返答に思わず首を傾げた。
昨日連絡先を交換したばかりとは言え、休日の深夜に秋山から電話が来るとは思ってもみなかった。そのうえ、一度は発信を取り消してすらいるのだ。
何か余程のことでもあったのだろう。
不安に駆られるまま電話越しの彼女に問いかけた。
「何かあったんですか?」
『な、何もないよ! これは……単なる事故ってやつで』
「事故? 詳しく説明してもらわないと何もわからないですよ」
『うっ……じゃあ言うけど、笑わない?』
応を返すと、ややあって電話の向こうでベッドの軋む音と彼女が何かに顔を埋めた気配がした。小さく唸っているようだが、声が籠っているので不思議と不快ではなかった。
深い呼吸をひとつ挟んで、まごついた躊躇いがあった。
『実は……』と前置きを挟んで、事の顛末を伝えられた。
突然の電話の正体がとっさの出来事の連続で起きた事故であることを知った。けれど、笑うことはしなかった。
すっかり口を噤んでしまった秋山に向けて、
「そうならそうと始めから言ってくださいよ。もう遅いので切ってもいいですか?」
枕元に置いていた本を手に取り、ベッドライトを消そうと手を伸ばす。
しかしベッドの上に置いていた携帯から、秋山の以外な一言が就寝の準備を止めさせた。
『ねぇ、待って。このまましばらく話さない? せっかくだし、眠たくなるまで付き合ってよ』
「でも」
『減るもんじゃないんだしいいでしょ。それに明日は日曜だし、少しくらい夜更かししても大丈夫でしょ?』
「って言ってもあと三〇分もないですけどね」
部屋の壁掛け時計を見やって返答する。ベッドライトに伸ばしていた手を下ろし、ベッドに横になって天井を見上げた。
「わかりました。三〇分だけですね」
『やった。じゃあ、さっそくなんだけどさ。今日なにしてたの?』
彼女も枕元に携帯を置いているのだろう。耳元で囁かれているような臨場感を帯びて、弾みそうな囁きが向けられた。
「今日は……ずっと本読んでましたね。前に秋山さんから借りた本、一冊は読み終わりましたよ」
借りたもう一冊も夕方になってようやく手をつけられるようになった。まだ出だしの数ページしか読めていないが、この調子で読むことが出来れば次の週末には彼女の元に返すこともできるだろう。
読書の計画をまた頭の片隅で考えていると、秋山の柔らかい声が鼓膜をくすぐった。
『私も今日は本読んでたんだ。なんか偶然だね』
「そうですか? ……僕はいつもこんな感じですけど」
『そうなんだ。あんまり外には出ないの?』
「たまには出ますけど。うち片親なので。あまりわがままも言ってられませんし」
『そうなんだ』
そんな他愛もない会話はしばらく続いた。
気が付くとあったはずの眠気はなくなっていて、天井を見上げていたはずの体は横を向いていて。過ぎていく通話時間の表示を静かに見つめるようになっていた。
———
くぁ、と電話越しに幸洋の欠伸が聞こえてきたのは日付が変わる数分前の事だった。
からかうつもりで秋山は、虎の抱き枕に身体を預けながら問いかけた。
「もう眠いの? まだ恋愛小説について全然語り足りないんだけど?」
どんないきさつでこんな話題になっているのかなんてほとんど覚えていなかった。
互いの読書傾向の話から脇に逸れてしまったからだった気もすれば、幸洋がSFについて熱弁するから対抗するつもりで話してしまったような気もする。あるいは幸洋に貸している本の話題からだったような気もする。
だがもう理由なんてどうでもいい。
こうして小説の話題を少しでも分かってくれる人がいるだけで、胸はこれまでになく満ち足りていた。
『いや……まだ、大丈夫ですよ』
むにゃむにゃ、と今にも言いだしそうな力のない返答。
思わず吹き出しそうになる。両手を使って口を塞ぎ、なんとか口角が持ち上がるだけに笑いを留めた。
温度の上がった携帯を手に取って、時刻を確認する。午前〇時ちょうどだった。
名残惜しいが、これ以上彼を付き合わせるわけにもいかない。通話を切ろうとして赤い終了ボタンに指を向けつつ、
「日付変わっちゃたよ。沖平君。もう通話切っちゃうね」
『え? ああ、もうですか。それじゃあ、おやすみなさい』
「うん。また明日」
『はい……』
それを最後のやり取りにして通話を切った。
ベッドの上。
虎の抱き枕を抱き寄せて、照明を付けたままだった勉強机を見やる。
早まった鼓動を落ち着かせようと虎に嚙みつくように顔を埋めた。
けれど、脳裏から机の上に置いていた通学定期の存在が脳裏から消えてくれることはなくて。
結局眠りについたのは、それから一時間も後の事だった。
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