第七話 身代金は連絡先で

 高校生にとって昼休みというのは、学校生活において億劫な授業や退屈な教師といったあらゆるしがらみから解放される唯一の時間といっても過言ではない。

 ともすれば、その一時間にも満たない時間の中で、最大限度の青春を謳歌しようと躍起になる生徒が現れるのは必然とも言える。

 その日も例に漏れることなく、教室の奥では数人の生徒が集まって携帯ゲームや流行りのアニメを見て昼休みを謳歌している。

 秋山もそのグループの中に居た。


「あ、またアニメ見てる。ケータイ、先生に持ってかれるよ?」


 辺りの椅子と机を並べて作られた急ごしらえの長机。

 その角に座っていた秋山が隣の男子生徒の携帯の画面を覗き込んで言うと、携帯でアニメを観ながら男子生徒が肩をすくめた。


「大丈夫だって。バレないバレない。誰も見回りになんか来ないし」


「やめといた方がいいと思うけどなぁ」


 軽い調子で忠告だけはしておいて、教室をぐるりと見回した。

 昼休みを教室で過ごしている生徒はクラスの半分ほどだった。皆、携帯の液晶画面とにらめっこを繰り広げていた。

 校則には校内での携帯電話の使用は禁止と明記されている。だが校則そのものの効力も薄く、生徒会や生徒指導部も半ば諦めているのか、ほとんど黙認されているような状態だ。授業中に通知音が鳴っても教師は笑って済ませているし、生徒はそれで「この校則には何の意味も大義もない」ということをすっかり理解してしまっていた。


「凛はビビりだなぁ。大丈夫だって。川本も次見た時は没収だからなって見逃してくれたし」


「川本って……生徒指導部の? まじ? 終わってるね」


 向き合って座っていた女子生徒の甘い誘惑に冷たい言葉を返すと、携帯で漫画を読んでいる様子の女子生徒は「たしかに」と低く肩で笑っていた。


「……」


 しかしこのままではまずいだろう。

 思いながら教室を再び見回した。

 二年生の秋と言えば、迫る進級に向けて準備を始めている生徒が一人くらいはいてもおかしくはないものだ。だがどうだ。この教室には一人だってそんな生徒はいない。

 ——進路どうしようかな。

 昨晩ベッドの中で悶々と巡らせていた思考が再浮上してくる。それにつられて表情は微かに陰ったのだが、当の本人は正面の女子生徒に声を掛けられるまでそれに気づいていなかった。 


「凛? ……どうしたの? なんか悩み事?」


「え? 私が? まさか! そんなわけないじゃん……!」


 どんな表情をしていただろう。焦りで冷や汗が吹き出しそうになるが、なんとか堪えて平然を取り繕った。

 秋山の弁明に女子生徒は携帯を操作する手は止めないまま、


「だよね。凜に限ってそんなことあるわけないもんね。まったく……成績優秀で顔も良いとか羨ましいわ」


「なんか後半嫌味に聞こえるんですけど」


「ま、まさかぁ」


 答えた女子生徒の視線は泳いでいる。なるほど図星らしい。

 魂胆を問い詰めてやろうと身を乗り出す秋山だったが、ふと視界の端に人影が映った。

 物音ひとつ立てずに教室に入ってきたのは幸洋だ。図書委員の招集からの戻ってきたのだろう。手には図書委員が毎月配布している読書調査のプリントが握られていた。


 教室に戻ってきた幸洋はそのままの足で自分の席に向かう。

 だが、ぴたりとその足が止まった。

 視線は秋山たちのグループが囲んでいる机の一角に向けられていた。その机には、携帯ゲームに熱中している男子生徒が腰かけていた。


「ああっ、くそ……! 惜しかった! あとちょいで勝てそうだったのによ!」


「……あの、机。もういいですか」


「え? あぁ、沖平君か。ごめんごめん、すぐに退くわ」


 そそくさと空になっていた弁当箱と開いたまま伏せられていた漫画を閉じ、机に広げていた荷物を鞄の中に押し込んで男子生徒は席を離れた。

 明け渡された机の向きを戻しつつ、友人の輪に戻っていく男子生徒が携帯を使っていた様子を見とめていた。


「校内でスマホは使用禁止だろ」


 零した本心が男子生徒に聞こえていたのかは定かではない。

 だが幸洋が呆れと苛立ちの混じる声音で吐いた直後に、辺りに微かな緊張が走ったのは事実で。


 幸洋自身はそれに気づかぬまま、いつもの調子で窓際最後列の席に腰を下ろして読書を始めてしまっていた。


 ———


 秋山から借りた本はもう随分と読み進めていた。栞は終盤のページに進行していて、読了までにそう時間は要さないだろう。

 帰宅までに読み終えられるだろうか。

 懸念と共に幸洋はバス停のベンチに腰かけて本を開いた。


 この本を読み終えたら。

 思いながら、読み進めていく。

 次は秋山の貸してくれたもう一冊を読もう。その次は本棚の隙間に寝せて置かれたあの本を。またその次は……何も決めていない。近いうちに買いに行かなければ。

 内心で期待を膨らませながら、握った恋愛小説を読み進めていた。

 すると、


「あっ、いたいた。探したんだよ。沖平君」


 本に読み耽っていた幸洋の耳に、秋山の声が届いた。

 本を開いたまま視線を向けると、バス停の外には自転車を押して帰路についていた秋山の姿があった。栞をさして本を閉じ、鞄の奥にしまった。


「僕をですか? 何のために」


 問うと秋山は自転車を停め、バス停に入ってくる。その手には一本のビニール傘が握られていた。


「これ。昨日、借りてたから。ありがとね。助かったよ」


「そういえばそうでしたね。わざわざありがとうございます」


 言って、差し出された傘を受け取る——はずだった。

 ひょい。

 傘を握ることは適わず、秋山の背中に回された。見れば秋山はいたずらな笑みを浮かべている。また何か良からぬことを企んでいるようだ。

 意図を悟って、


「その前に、ひとつお願いが——」


「嫌です。他を当たってください」


 単刀直入。一刀両断。読書も山場に差し掛かっているのだから邪魔されたくないという一心で、秋山の頼みに耳を傾けることもしなかった。

 聞く耳は持っていない、と鞄にしまったはずの本を手に取って再び開く。

 そんな幸洋の様子を見ながら悪魔的に秋山。


「まだ何も言ってないんだけど……。ていうか、そんな態度私の前で取ってもいいのかな? 沖平君。こっちには傘もあるけど、もう一つ人質に出来るものがあるってこと忘れてないよね?」


 あのファストフード店での写真をチラつかせながら、悪魔のような歪んだ笑みを湛える秋山。彼女が本物の悪魔に見えていたことだけは黙っておこう。固く肝に銘じて本を荒く閉じた。


「頼みって何ですか」


「お、やっと状況を理解できたね。うんうん。それでよろしい。頼みって言うのはね、とっても簡単なことだよ」


 彼女の携帯が差し出される。付いていたストラップが一斉に揺れて、ひと際大きい涙目の虎の子のストラップとは心なしか目が合ったような気がした。


「連絡先、教えてよ。クラスで持ってないの沖平君だけだからさ」


 真っ直ぐに向けられる視線。

 受け取って、握ったままだった本のページを縋るように指先で捲った。ぱらら、とページは胸中の焦燥を代弁するように流れていく。


「必要ですか? 僕の連絡先なんて、あっても使わないと思いますけど」


「そう? 私は欲しいよ。沖平君の連絡先。趣味合うし、色々話したいけどな」


「……頻繫に連絡してこないなら」


「ほんと⁉ やった!」


 暫時黙り込んだが、渋々携帯をポケットから取り出して秋山に手渡した。

 連絡先の登録など中学の頃に携帯を手に入れて以来で自信がなかった。秋山に任せておけば問題ないと委ねたが、それが大きな間違いだった。

 長い。連絡先を交換するだけのはずだ。そう時間がかかるはずがない。

 いい加減に痺れを切らして、怪訝な視線を彼女へ向けた。


「あの、まだですか?」


「ちょうど終わったよ。傘もありがとね」


 言って携帯と傘を受け取る。彼女はそのままバス停の裏に停めていた自転車に向かって行き、ひらひら手を振って自転車を漕ぎだした。


 会釈していると、定刻通りにバスが到着した。

 ベンチから重たくなった腰を持ち上げる。

 交換した秋山の連絡先。アイコンの虎の子を見つめていたが、画面の端に見慣れないアイコンが画面にあったのを見つけて弾かれるように秋山に向き直った。

 もう秋山の姿はそこにはない。探すと、彼女の乗った自転車は既に学校まで続く長い坂道を下っていた。

 そんな彼女が、ちらり、とこちらに振り返った。


「それ! 上手く撮れたから変えないでよ!」


「ちょ……、はあ⁉」


「じゃあまた来週ね! またね! 沖平君!」


 言うと秋山は正面に向き直って、ブレーキをかけずに坂道を颯爽と下っていった。姿がみるみると小さくなっていく。もう声も届かないだろう。

 胸に残る不満と不快感を抱えたままバスに乗り込み、すっかり指定席となった最後列に腰を下ろす。

 携帯を起動して、変更されたアイコンを不服に見つめていた。


「勝手すぎるだろ……」


 写真に映る自分の姿を見ると、胸の奥がざらついた。

 しかし何故か次第に苛立ちは薄れていって、画像を初期化する気にもなれなくなっていった。


 バスが走り出す。その最後列の窓際で。


 自転車に乗って坂道を下る彼女の姿を探せるように、窓に寄りかかりながら本を開いて帰路についた。

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