第六話 不機嫌と気まずさの雨

 その日は久方ぶりの雨だった。


 ぬかるんだグラウンドを一瞥してから、秋山は机に置いたリュックの中を見返した。

 入っているのは、メイク道具で膨らんだポーチ。ピンク色の薄い財布。必要最低限のノートと、今にもジッパーの弾けそうなペンケースだけだ。


 いつもは持ち歩いているはずの折りたたみ傘を、今日に限って忘れてしまっていた。


 雨具の確認を怠った自分の慢心に呆れてしまうが、教室で溜め息を吐くわけにはいかない。

 思わず零れかけた自己嫌悪を飲み込んで、人気の少なくなりはじめた教室を見回して「彼」の姿を探した。


 ——相変わらず早いなぁ……。

 終礼を終えてからほんの数分しか経っていないというのに、幸洋の姿はもう教室からは完全に消えていた。

 今日は一人で帰ろう。

 思って、ほとんど空っぽのリュックを背負う。すれ違ったクラスメートに手を振り、時にはハイタッチして。

 軽快な挨拶を交わしながら教室を後にした。



 ——明日からはもっと早く帰らないと。

 バスの時刻表を見ながら、ふとそんなことを考えていた。


 雨音だけが響くバス停の屋根の下。長いベンチに腰かけているのは秋山一人だけだった。

 時刻表とのにらめっこにも飽きて、抱きかかえていたリュックの湿ったストラップに手を伸ばした。

 バス停まで全力で走ったつもりだったが、降りしきる大粒の雨であっという間にリュックもストラップも濡れてしまった。

 撥水性のリュックの中身は無事だったが、外側にぶら下がっているストラップたちは抵抗虚しく水を含んで重たくなってしまっていた。


 ぽたり、と。濡れた髪から膝の上に、一滴小さな水滴が落ちる。

 握っていたハンカチで髪を絞り、頬を伝う水滴を拭う。びしょ濡れになった制服を見下ろして、肌の透けるシャツの胸元を隠すようにリュックを強く抱き寄せた。


「はぁ……ほんとサイアク」


「また溜め息ですか。秋山さん」


「えっ、ぁおっ、沖平君……⁉」


 溜め息を零した途端にかけられた声に、思わず丸めていた背筋を伸ばして声の主に向き直った。

 傘を差した幸洋がバス停の屋根の外に立っていた。

 差していた傘を閉じながら、二人以外の利用者のいないバス停に足を踏み入れる幸洋。その視線は一度濡れた髪と制服へ向けられるが、すぐに足元の水溜りへと向けられた。

 落ちる雨粒から広がる波紋を見つめて幸洋が問う。


「今日は自転車じゃないんですね」


「え? ……うん。雨の日はバスと電車だよ。って言っても、今日は予報見てなくてこの通りずぶ濡れだけどね」


 言いつつ濡れた髪を絞ってみせた。

 幸洋はというと、こちらのことなど意にも介さず携帯の画面を見つめているばかりだ。

 希薄な反応に、けれど呆れることも苛立つこともなく続けて言う。


「今日、遅かったんだね。何か用でもあった?」


 片手で携帯を操作しながら幸洋が短く答える。


「今日、日直だったので。日誌提出してきただけですよ」


「そっか。お疲れ様。……ていうか、座らないの?」


 バス停に到着してからというもの幸洋は何故か頑なに立ったままでいる。ベンチにはもう一人座るには充分なスペースがあるというのに。

 小首を傾げると、幸洋は何故か遠慮がちな視線だけを返してくる。ややあって携帯の画面と張り出されていた時刻表を交互に見やって、


「もうすぐバスも来ますし、それに……」


 と、幸洋がそこまで口にした所で視界にバスの姿が飛び込んだ。

 雨音の中。一際大きくエンジンを唸らせていたバスが、バス停の屋根の下でぎこちない沈黙を挟んでいた二人を見つけて停まった。


 車庫を出てきたばかりのバスに乗客の姿はない。

 幸洋が傘を杖代わりにしながら乗り込み、後に続いて背中を丸めながら乗り込んだ。

 迷うことなく最後列窓際の席に幸洋が腰を下ろし、その隣に浅く腰を下ろす。

 間もなくバスが発車する。

 リュックを両手で抱き寄せて、顔を埋めながら問いかけた。


「沖平君。いつもはどの時間のバスに乗ってるの?」


 訊ねられて幸洋は、鞄から取り出して握っていた本を開きながら秋山に意識を寄せた。

 視線を向けるが、雨で濡れた彼女の姿は率直に言えばあまりに目に毒だった。意識は秋山に向けたまま。視線だけを開いた本の文字列に向けて答えた。


「いつもはもう一本早いバスに乗ってますよ。早く帰りたいですし」


「そっか……」


「「……」」


 沈黙。

 お互いにそれ以上言葉を交す意思がないのか、はたまた言葉を待っているのか。意図の汲めない沈黙が間に居座った。


 沈黙は目的地だった駅前まで続いた。

 車内アナウンスを聞いて幸洋は本を閉じ窓際の停車ボタンを押した。

 窓には隣の秋山の姿が反射していた。リュックに顔を埋めて黙り込んでいる彼女はいつになく静かだ。


「秋山さん。次、駅前ですよ。降りますよね」


「ふぇ……?」


 小動物のような鳴き声と共に秋山が顔を上げる。居眠りしてしまっていたようだった。

 とうとう二人以外の乗客を乗せることのなかったバスは、駅前のバス停にできた長蛇の列を見つけると飛びつくように停まる。

 バスを降り、その足で二人は駅の改札を通った。


「今日も図書館行かない?」


 ホームで電車を待っていると秋山がそんなことを口走った。

 電車を待っている僅か数分ですら惜しくて本を読んでいた幸洋は、読んでいた文庫本を閉じて横から顔を覗かせる彼女を見返す。

 何を言っているんだ。と表情に現してやるがそれが彼女に伝わった様子はない。


「また勉強を教えてほしい、なんてことはないですよね。昨日のこと、僕はまだ忘れてませんからね」


 この屈辱は決して忘れてやるまい。

 秋山の無神経さを呪いながら眠った昨晩のことを思い出し問う。

 恨めしい視線を受け取って秋山は、困惑も半ほどに怪訝な表情をこちらに返した。


「私そんな恨まれるようなことした……? 大丈夫だよ。もうあんな無神経な事、絶対に言わないから」


「信用できません」


「はっきり言うなぁ……流石に凹むよ? あ、電車来たね」


 他愛もない会話を交わしている間に電車がホームに停まった。

 引き連れてきた夕暮れの冷たい風を浴びながら電車に乗り込み、空いていた席に並んで腰を下ろすと秋山は再三訊ねてくる。玩具をせがむ子供のようなしつこさだった。


「図書館行かない? せめてカフェだけでも……だめ?」


 両手を合わせて頼んでくる秋山。

 しかしそんな彼女に目をくれることもなく本を開いて、冷たく首を横に振った。


「今日は無理です」


「ぶぅ。けち」


 頬を膨らませ露骨に不機嫌になる秋山。それが高校二年生の——一七歳の拗ね方として正しいのかは、この際気にするべきではないだろう。


「不貞腐れないでください。無理なものは無理です」


「ちゃんと説明してくれないと納得できないんですけど」


 秋山が詰め寄ってくる。

 まだ微かに湿った彼女の髪が肩に触れて、避けるように本を閉じて頭を掻いた。

 動き出した電車の中。駅を出た途端に窓を濡らした雨粒を見やりながら口を開いた。喉の奥にあった言葉は、いざ口にしようとするとまごついて余計に秋山を見ることができなくなった。


「だって、秋山さん。濡れてるじゃないですか。早く帰って、シャワー浴びた方がいいですよ」


「……」


 言われて、秋山は再び制服を見下ろした。随分制服は乾いてきたが、やはり湿っぽい。特にリュックで隠していた胸の辺りがまだ透けたままだった。

 気が付いた途端に心臓がばくばく言い出して、秋山は思わずリュックを抱き寄せて黙り込む。


 口にした幸洋も同じように黙り込んで、バスに乗っていた時と何も変わらない不器用な沈黙が二人を襲った。


 ———


「雨。やまないね」


 お互い家が近いこともあってか、降りる駅まで同じだった。

 北口の屋根の下で傘を開くと秋山がそんなことを呟いて、帰路に着こうとしていた幸洋の足を止めさせた。


「しばらく止まないみたいですよ。傘、貸しましょうか?」


 言って幸洋が広げた傘を差し出してくる。


「ほんと? ありが——」


 厚意に甘えて傘を受け取ろうとしたのだが、傘を受け取った瞬間に電撃のように鋭く思考が駆け巡った。

 ——あれ? これって、受け取ったら相合傘になっちゃうんじゃ……⁉

 顔が紅潮していくのを感じながらも、幸洋を見返すと彼は至って冷静を保っている。

 あちらが気にしていないのだ。こちらも気にしなければどうということはない。

 決心して傘を持って幸洋に歩み寄ると、


「あ、大丈夫ですよ。僕は折りたたみ傘持ってるので。じゃあ、また明日」


 言って、鞄からもう一本折りたたみ傘を広げて屋根の外へと歩き出してしまった。


「えっ、あっ、はい……うん。また、明日」


 屋根の下に取り残された秋山は開いた口を塞ぐこともできずに、雨音よりうるさい心臓の音を聞いていた。

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