第五話 在り来りでも贈れるなら

 自習。

 黒板に大きく書かれた二文字を一瞥して、幸洋は教科書の下に忍ばせていた文庫本を手に取った。


 栞は後半のページに挟まれている。

 ほとんど読了していると言っても過言ではない本を開き、自習監督の体育教師の目を盗んで読書をはじめた。


「おい。そこ」


 程なくして体育教師の低い声が静かだった教室に響いた。


 肩が跳ね上がって、思わず本を閉じる。

 だが体育教師を見やると、その視線はこちらとは真逆の方向を向いていた。視線を辿れば、その先には居眠りしていた生徒がいて、教師は彼を指摘したようだった。

 安堵して再び手元の本に視線を向ける。


 残りはたったの数ページ。熱が冷めてしまわないうちに読み切りたかった。


 程なくして残りのページを読み終えた。

 余韻に浸る間もなく、物音を立てないように引き出しの奥に本を慎重に置いた。

 自習時間は残り半分。昼下がりということもあってか居眠りしている生徒が多い。

 体育教師は溜め息を零しては、居眠りをしている生徒の後頭部を丸めた教科書で叩いて周っていた。まるでもぐら叩きだな、思いつつ他人事のように様子を見ていた。


「……?」


 本を引き出しの奥に置いて手を引いていると、覚えのない感触が指先を掠めた。

 手を引くのを止め、指先で感触を確かめる。

 角ばった形状。ぱらぱら捲れる薄い紙。慣れ親しんだ厚みと、特有のソフトカバー。

 ——本……?

 間違いなく文庫本だった。それも二冊もある。手に取って、引き出しの奥から取り出してみた。


「……これって」


 本は、昨日秋山と約束したものとは別にもう一冊。同じ作家の本が重ねて置かれていて、何やらピンク色の付箋が表紙の上には貼られていた。

『単体でもおもしろいけど少し話が繋がってるからこっちを先に読んでみて! 絶対気に入ると思うから!』

 丁寧で丸みを帯びた可愛らしいその文字を、ひと目で秋山のものだと直感したのは、彼女が授業で友人の悪ノリに付き合わされてよく板書しているからだ。


 本を引き出しの奥に戻し、同じ列の最前列の席にいる秋山を見やった。

 自習に飽きたのか、頬杖をついて窓の外を眺めながら結んだ髪の毛先をくるくる回している。ふと、秋山の視線が肩越しにこちらに向けられた。


 視線が合い、互いに虚を衝かれた。


 目が合うと間もなく幸洋は視線を泳がせた後で、逃げるように教科書に食らいついていた。

 一方で秋山は普段表情の希薄な彼らしくない様子に、思わず吹き出しそうになるのを堪えていた。


 と、そんな秋山の頭上に黒い影が落ちる。


「集中しろ」


 ぽすんっ。

 自慢のサイドテールごと頭を叩かれ、その様子を見ていた辺りの生徒が笑いを零した。


 教室が小さな笑いに包まれるなか、人知れず秋山は幸洋に視線を向けた。

 朝一誰にも気づかれないように引き出しに忍び込ませていた本に幸洋は気付いてくれただろうか。

 願うようだった視線に気づいたように。


 幸洋は、机に忍ばせていた本をあえて見えるように堂々と開いていた。


 ———


「待って待って! ストップストップっ!」


 昇降口で上履きを履き替えていると、このところ耳に馴染みはじめた声が向けられた。

 振り返ると秋山が小走りで駆け寄って来ていた。二階最奥の教室からずっと走って来たのか、肩を上下させている。


「また部活はサボりなんですか? 秋山さん」


 靴紐を結びながら嫌味たらしく問いかけた。

 まだ終礼を終えて間もない昇降口にいる生徒は、秋山と幸洋くらいのものだ。

 担任の異様に早い終礼のおかげでこうして人気とは無縁な内に下校できることに日々深謝していたのが、その日ばかりはそうはいかなかった。


「なんか怒ってる?」


 声音の低さに感じるものがあったのだろう。秋山は慎重だが無遠慮に首を傾げていた。


「別に」


「いや、明らかにご機嫌斜めじゃん。もしかして、今日は一人で帰りたかったとか?」


「……そうだって言ったら、一人で帰してくれますか」


 本心を口にすると、秋山は目を丸くした。

 やがて口角を吊り上げて狡猾な笑みを浮かべ、


「えぇ~? まだ誰も一緒に帰ろうなんて言ってないよ? もしかして、今日も一緒に帰れるって思っちゃった?」


 ピキリ。

 頭の奥で何かの切れる音がした。


「なら、また明日」


「え、ちょっ……待ってよ!」


 冷たく吐いて立ち上がる。

 秋山が思わず声を上げ、それには流石の幸洋も嘆息を吐きながら振り返った。

 昇降口の段差があっても埋めきれない身長差が二人にはある。

 見下ろして「まだ何か」と詰問した。

 もごもご、とらしくない声で秋山が言う。


「今日さ、一緒に帰ろうよ。図書館でちょっと勉強して帰らない? 授業、ちょっとわからないところあったからさ。教えて欲しいんだ」


 ———


 幸洋の成績は言ってしまえば中の下で、お世辞にも『頭がいい』と褒められたものではない。

 数学は毎度赤点手前で、物理や英語も同程度。そんな成績の幸洋が辛うじて学年の中の下でいられるのは、一重に現代文と世界史の二科目を満点で維持しているからだった。

 故に、幸洋には不可解だった。


「ねぇ、ここの計算合ってる?」


 学年でも常の上位に食い込むほどの成績の秋山が、よりにもよって自分に教えを乞うているこの状況が不可解で仕方がなかった。

 目の前に置かれたノートの長々とした数式を見ることもせず問いかける。


「秋山さん。僕より適任はいくらでもいますよね。どうしてよりにもよって僕なんですか」


「え? いや、だって他に教えてくれる人いないし」


 なんの嫌味だろう。

 眉間にしわが寄りそうになるのを顔面の筋肉に全神経を注いで止めながら首を傾げる。

 何故、と問うと何の悪びれもなく秋山が言った。


「だって沖平君、私より成績良かったよね?」


「……」


 返す言葉を探す間も気力も削がれて、広げていた文房具をペンケースの中にしまう。

 随分と手の込んだ嫌がらせだ。

 秋山の事を内心で軽蔑しながら席を立った。


「え? ちょ、沖平君……?」


「話しかけないでください。人でなし」


「はいぃ⁉ どういうこと⁉ 待ってよ! 沖平君⁉」


 椅子から立ち上がると鞄を掴んで全力で引き留められた。

 抵抗して無理矢理振り解こうとする。だが男女の力の差も度外視した運動部と帰宅部の違いというべきか。秋山は想像以上に踏ん張り強く、力での解決はついに諦めさせられた。


「僕の成績知ってますよね? 僕から教えることなんて何もないですよ……!」


「え? そうなの?」


 不意に力が抜かれる。

 鞄を肩にかけ直して、頭を抱えて溜め息を零してしまった。

 無理もないだろう。入学から二年間、ろくに接点もなかったのだ。知らないことの方が多くても何の不思議もなかった。

 無理やり自分を納得させて、以前の定期テストの結果を秋山に打ち明けた。

 現代文と世界史は満点。物理は四〇点ほど。英語は五〇点前後。数学は赤点に片足入りかけていた。


「そうだったんだ。……なんかごめん」


 散々だったテストの結果を打ち明けると、秋山は心底気まずそうに謝罪の言葉を口にしていた。余程ばつが悪いのか、視線はもう向けられていない。哀れ過ぎて直視することすら憚られるらしい。

 窓際の自習席に二人横に並んで座りながら、秋山は広げていたノートを閉じて訊ねてきた。


「でも、よく私の成績なんて知ってたね? 私、他の人の成績とか全然気にしたこともないや……」


「人の神経逆撫でしてる自覚あります?」


「なんでそうなるの⁉」


 成績優秀であるが故に無意識に生じた余裕なのだろう。

 自他を比べることを無意識下に必要のない作業として思考から排除してしまって久しい様子だった。

 ともすればそれは、毎度定期テストの結果が掲示板に張り出される度に用心深く自分の前後一〇位ほどの生徒の名前を確認している幸洋に対する皮肉に他ならない。

 定期テストに対する向き合い方が自分と秋山とでは雲泥の差があるのだろう。腑に落ちる答えを導き出して、彼女のその先入観の正体を探った。


「どうして僕が頭いいなんて思ってたんですか」


 問うと秋山はペンを頬に当てながら、


「ん~これと言って理由はないけど、強いて言えば眼鏡だからかな? いつも本読んでるし、頭いいのかな~って思ってた」


「ただの先入観じゃないですか」


 嘆息を零し、掛けていた眼鏡を外す。視界は悪くなるが、それでも先入観だけで内面を推し量られるよりはずっとましだった。

 不服そうに眼鏡を机に置き、開いていた教科書を次々に閉じていく。

 黙々と手を動かしていると秋山が机の下で脚を揺らしながらこちらを見やった。


「ねぇ。この前の休日、なんで眼鏡してなかったの?」


 ノートと教科書の角を机で揃えていた手を止める。

 横目に秋山を見返し、存外素直に答えを返していた。


「気分ですよ。あの日はたまたま外したかっただけです」


「そうなんだ。私服、おしゃれだったもんね。なんか、思ってたよりもずっと流行りものとか詳しいんだね」


 感嘆を漏らしている彼女の脳裏には、きっと週末に出会った気に入らない服装の青年の姿が浮かんでいるのだろうか。

 頬杖を突いて硝子の向こう側に広がる夕景を眺めて、胸裏の軋みを吐露するように呟いた。


「流行りとか気にしてないですよ。自分が好きな時に好きなものを着てただけですよ」


 言うと秋山が不意に微笑を浮かべていた。

 机に置かれた眼鏡を見やって、秋山もこちらを真似て頬杖を突いて呟いた。


「私は眼鏡姿も好きだけどな」

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