第四話 交わす約束とサイドテール

 翌朝も秋山は昨日と同じグループのなかに居て、何やら仲間うちの話題でおおいに盛り上がっているようだった。


「で、昨日部活をサボった秋山さんはどこで何してたのかなぁ? 部活サボるなんて、よっぽどの用事だったんだよね? もしかして彼氏できたのかなぁ?」

 言ったのは秋山と同じバドミントン部に所属している女子生徒だ。

 卑しい笑みを浮かべながら詰め寄られ秋山が弁明する。

「そんなんじゃないよ。彼氏とか、私そういうの柄じゃないもん。ていうか、モテないし……」

 クラスではまず間違いなく負け知らずに整った容姿を持った秋山の言い放った、多分に皮肉を含んだ——本人にそんな気は毛頭ないのだが——謙遜に身震いしながら女子生徒。

「ひぃぃぃ、でっでたぁぁぁ! 自分が顔いいってわかってるヤツ特有の謎謙遜! そうやって下々の人間に夢見せる気なんでしょ! 末恐ろしい子……!」

 女子生徒の被害妄想に秋山が苦笑していると、昨日秋山に機嫌を取られていた男子生徒が二人の会話に割って入った。

「で? マジな話どうだったんだよ。何の用事だったんだ?」

「え? えっと、それは……」

 突然、秋山の歯切れの悪くなる。

 居合わせた全員が彼女に視線を注ぐ。男絡みの用ではないことを祈る男子生徒たちの視線。あるいは正反対の答えを待つ女子生徒たちの視線。

 血走った視線を四方から浴びながら秋山が口を開いた。

「誰にも言わないって約束する?」

 彼女を囲む全員が強く頷く。

「実は……」

 ごくり。皆が一斉に固唾を飲み込み、喉が鳴った。


「実は、昨日どうしても読みたい漫画があってさ。部活サボってカフェで漫画読んでたんだ。んで、その漫画昨日どっかでなくしったっぽくてさ、今日は探しに行かなきゃだから、また部活サボるかも」



 秋山の発言の意味を理解できず、幸洋は鞄のなかの文庫本を見やった。


 昨日秋山がカフェに忘れていったのは間違いなくこの文庫本だ。

 放課後の過ごし方も、秋山の口で語られていたものと幸洋の知るものとでは全く乖離していた。


 彼女は何かを隠そうとしている。


 察して、彼女に手渡そうとしていた本をしまったままの鞄を閉じて幸洋は黙々と一限目の準備に取り掛かった。


 ———


「本の忘れ物……ですか? いえ、昨日は何もありませんでしたよ」


 店内に差し込む赤い夕陽に思考を焼かれたような気さえした。


 昨日失くした本の行方を訊ねて店員から返ってきたのは思いがけない返答だった。頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われ、思考がまとまりを失っていく。

 あまりに急いで店を飛び出したせいで、鞄のジッパーが開けっ放しになっていたのが原因なのだろうか。まさか外に落としてしまったとか。ならば交番に行くべきだろうか。

 焦りで思考が熱を帯びていく。普段からよく見かける女性の店員に重ねて問いかけた。


「本当にどこにもなかったんですか? お店の近くに落ちてたりなんかは……」


「そう言われましても。本当に何もなかったんです」


「……そうですか」


 返答して、迷惑料のつもりで買ったチーズケーキを受け取る。

 店内をぐるりと見回してみても、やはりそれらしいものはどこにも見当たりそうになかった。

 ——本を失くすなんて……。

 重たい固い嘆息を零し、カフェを後にしようと出入り口に歩を進める。

 瞬間。

 からんっ、と。ドアベルが控えめに鳴った。

 カフェの入り口に立っていたのは幸洋だった。学校指定の鞄以外の手荷物を持たず、校外でも校則通りに制服を正しく着こなしている。


 トレードマークの銀縁の眼鏡のブリッジを持ち上げると、彼は肩にかけていた鞄の中から、見覚えのあるブックカバーに包まれた文庫本を取り出した。


 ———


 手渡した本のページを一通り捲ると、秋山はそれが間違いなく自分のものであることを確認したようで特大の安堵と共に胸を撫で下ろした。


「よかったぁぁぁ……! 沖平君、ありがとね。まさか沖平君が持ってたなんてね」


「昨日返し忘れてたのは僕の方ですから。お互い様……というか、どちらかというと僕の方が非は大きいですけど」


 昨日と同じカフェの同じ窓際の席。

 向かい合わせて座り二人は言葉で互いの不安を洗い流していた。

 ブックカバーの白猫を長い指で撫でながら、秋山は柔和な笑みを浮かべている。そんな彼女の穏やかな笑みを見やって、今朝の教室での彼女の言葉を思い出した。


「どうしてあんな嘘ついたんですか」


「嘘? なんのこと?」


「今朝の教室のことですよ。昨日の放課後は僕と居たじゃないですか。それにその本のことも。漫画なんて嘘ついて」


「あー……あれね……」


 秋山は目を逸らし、窓の外に視線を向けた。外ではいつかの夕暮れのように、藍と紅がせめぎ合って空を染めている。広がる藍色の方が優勢なようで、思えば窓際の二人のいるテーブル席は微かに肌寒さすら感じられた。


 脳裏にあったのは彼女に口止めされた日曜日のこと。

 彼女の見せた物憂げな表情と、周りには決して聞かせない溜め息。昨日の図書館での一件と、何故かそれを誤魔化すために吐かれた噓。

 彼女の本心を探ることはできないが、根底にある行動原理だけは何故か察することができた。

 意を決して問いかける。


「秋山さん。もしかして何か怖がってますか?」


 問われて、秋山は目を見張っていた。

 露骨だった反応に確かな手応えを感じ質問を重ねる。


「昨日と一昨日の秋山さんを見てたら何となくそう思ったんです。流石の僕も気になります。本当のこと教えてくれませんか。何をそんなに人に知られたくないんですか?」


「それは……」


 目を逸らした秋山は、やはり何かを隠そうとしている。

 決して他人には知られたくないもののはずなのに、本心ではそれを伝えなければいけないことをどうしようもなく理解してしまっている。

 壊したおもちゃを隠す子供のように。

 秋山はこちらを一瞥して、固く結んでいた唇を解いた。



「恥ずかしいから。高校デビューだってこと、皆にバレるのが」



 声は小刻みに震えていた。

 それでも尚、彼女は内にあるものを何とか言葉にしようとして必死に脳裏で辞書を引いているようだった。


「今はこんなナリだけどさ、中学の頃の私って集合写真でも探さなきゃ見つかんないほど地味な陰キャだったんだよね。……だから、高校いったらもっと可愛くなってやるって思って……それで、雑誌とか動画とかで皆の話題に着いていけるように頑張った。今まで持ってたダサい服も、アニメのグッズとかも全部捨てて変わってやるって思ってた」


 でも、と秋山は零す。


「小説だけは捨てられなかった。捨てたら私が私じゃなくなる気がして。……でも、高校でも小説ばっかり読んでたらまた陰キャ扱いされると思って。それで、小説読んでることとか、あんな風に溜め息吐いたりしてるのを人に知られたくなかった」


 だから幸洋に見つかった時には、つい口止めをしてしまった。

 

 それが秋山の答えだった。


 一部鼻につく部分はあったがそれを言及するのは野暮だろう。

 小説を読んでいるから陰キャだ、という決めつけるのは先入観の囚人になることを甘んじて受け入れた人間の発想だ。

 唱えたかった異論を飲み込んで、内に隠し続けていた本心をついに吐露した秋山に言う。


「別に誰も気にしないと思いますよ。そんなこと」


「えっ?」


「持論ですけど、人目を気にしている人間の大半って、自分が人目を気にしているから他人も皆そうなんだっていう先入観しかないんだと思います。案外、世の中の人間は他人に関心があるようでなかったりする。時代のせいっていうか。皆自分のことに手いっぱいで、他人のことなんていちいち気にしてられないですよ」


「……君、幾つ?」


「同じ一七歳ですよ。……そんな変なこと言いましたか? 僕」


 言って返すと、秋山は「充分変だよ」などと普段の調子で笑いだした。

 彼女がこんな風の笑うのを校外で見たのはこれが初めてだった。このごろの彼女はどこか物憂げで険しい表情をしていて、息の詰まったような雰囲気を漂わせていたから。


 見慣れたはずの笑顔なのに何故か新鮮で。つい口が滑ってしまう。


「やっと笑いましたね。秋山さん」


「へっ? あ、う、うん。そう……かも、沖平君の前だとあんま笑ってなかったかもね」


 言いながら秋山は何故か顔を伏せてしまう。夕陽に焼かれたのか耳が赤くなっていて、彼女は自慢のサイドテールを指先でくるくる回していた。

 そんな彼女の様子を見守りながら、本のお詫びにと渡してくれたチーズケーキにフォークを沈める。瞬間にふと、昨日のカフェでのやり取りを思い出した。


「昨日、その本。僕におすすめしてくれましたよね」


 ブックカバーに包まれた本を見やりながら続ける。


「実は昨日、すこし気になって家で読みました。って言ってもほんの数ページだけですけど」


「そうなんだ。……それで、どうだった?」


 訊ねられて、しばし返答に悩んだ。

 掴みが弱かったとか。内容が気に食わなかったとか。登場人物が苦手だとか。

 そんな理由ではなく、もっと他の原因が返答を迷わせた。

 しかしそれを秋山は後ろ向きな返答の前振りだと感じたのだろう。テーブルに置いていた本を手に取ると、椅子にかけていたリュックにしまおうとしていた。


「もしかして、合わなかった? ごめんね。沖平君の好きそうな本分からなくてさ……」


「あ、いや。秋山さん待って。その本、面白かったです。続きは気になってます。ただ、僕いま他の本を読み進めてるので——



 ——今度貸してください。絶対読みますから」



 口から零れた言葉は、正真正銘の本音で。

 自分でも驚くほど滑らかに紡がれた、彼女に初めて向けた本音だった。


 ———


 カフェを出ると外はすっかり日が暮れてしまっていて、明滅する街灯の下を二人は肩を並べて歩いていた。

 ストラップだらけのリュックをかごに乗せた自転車を押しながら、秋山は隣を歩く幸洋に言った。


「まさか君とこんな風に帰る日が来るなんてね。家、本当に近いんだ」


「え? ああ、まぁ。そこの線路の先なので。秋山さんもですか?」


「うん。うちもその辺り。でも、朝なかなか会わないよね。いつも電車だったりする?」


「ですね。最寄りの駅まで電車で行って、そこからはバスです。自転車だと本読めないじゃないですか」


 らしいと言えばらしい幸洋の回答に、思わず微笑が零れていた。

 彼が三度の飯より本好きであることは教室でも度々話題に上がっていたが、まさかそうまでして読書に時間を費やしているとは知りもしなかった。


 人目を気にせず毅然と一貫した態度でいる彼に以前から嫉妬を覚えていたことは、今は言葉にはせず胸の奥にしまっておこう。


 ピロンッ。メールの通知音に意識を引かれ、かごのリュックから携帯を手に取る。

 送り主は同じ部のクラスメートだ。

『探し物はみつかった? 明日部活来れそ?』

 なんてことのない日常の会話。

 けれど、


『ごめん! 明日からしばらく忙しくなりそう……! 一週間くらい顔出せないかも……ほんとごめん!』


 返信して、携帯の画面を暗転する。

 隣を歩く幸洋に普段読む本について訊ねながら、肩を並べて帰路に着いた。

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