第三話 置き去る本音とブックカバー

 放課後。

 幸洋は学校から最寄りの市立図書館に訪れていた。


 石畳と緑に包まれた広場を走り回る子供たちを横目に一人図書館へと入っていく。

 ハロウィーンイベントを来月に控える館内には、子供向けの仮装大会のアナウンスがエントランスに張り出されていた。掲示板を一瞥して過ぎ去り目的の一階フロアへと歩を進める。


 肩に掛けた鞄の中から借りていたハードカバーの本を手に取り、無人の返却口へと足を運んぶ。きっかり二週間の貸し出し期限を満了しての返却だった。

 本を返却口へ投函しようとすると、近くにいた女性司書の声に虚を衝かれた。


「あの、そちらの本の返却手続きはこちらで行いますよ。お預かりしますので、窓口までお願いします」


「……? わかりました」


 言われるがまま、女性司書の案内に従って窓口へ向かった。返却の手続きを淡々と終えるが、しかし胸の奥には何かがつっかえたような違和感が残っていた。

 これまで何度か利用したことのある図書館だが、今回のような対応をされたのはこれが初めてだった。貸出の時に何か手続きを間違えてしまったのだろうか。

 二週間以上も前の記憶を辿ってみるが、記憶はもう曖昧になってしまっている。

 意を決して司書に訊ねてみると、思いがけない答えが返ってくた。


「いえ。手続きには何の問題もありませんでしたよ。ただ、どうしても今日この本を貸し出してほしいという方がいらっしゃいまして。お客様への貸出分が本日返却期限になっていましたので、今も館内でお待ちして頂いているんです」


 言って、司書の女性は手続きを終えた本を机の隅に置くと、腰かけていた椅子を立ち上がって窓口の奥に歩いていき、何やらタブレット端末を操作しはじめた。

 もうできることもないだろう。

 司書に向かって会釈して、窓口を去ろうとした——のだが、


「沖平君? 何してるの?」


 背中に秋山の声が向けられ、肩越しに声の主を見返した。


「秋山さん? どうしてここに? 部活はいいんですか? バド部でしたよね」


 秋山はバドミントン部に所属していたはずだ。その証拠に、肩にはラケットケースをかけている。

 問うと彼女は目を逸らし、図書館のなかにないはずの言い訳を探しているようだった。ややあって力なく、


「サボっちゃった。今日、どうしてもここに来たくてさ……ははは」


 苦笑混じりに真実だけを言葉にした。「ちゃんと部活の方には女の子の日だからって言ってるから大丈夫」と何故か補足されたが、無関係な弁明に過ぎなかった。

 それよりも問題であるのは、何故彼女がこんな場所にいるのかだ。

 こんな平日の夕暮れに、しかも一人で——人のことを言えた義理ではないが——漫画なんて一冊も置かれていない、堅苦しさの象徴のような場所になぜ彼女のような人物がいるのか。そればかりが疑問だった。

 二人が向き合って互いを詮索するような視線を交わしていると、司書の女性が返却したばかりの本を手に取り、秋山に差し出した。


「どうぞ。本日から一五日間の貸出になりますのでよろしくお願いします。……お二人、もしかしてお知り合いでしたか? こんな偶然もあるんですね」


「ですね。ありがとうございました」


 受け取った本を秋山は前に抱えていたリュックにしまう。

 その様子を見て、幸洋は図書室を後にしようとする。彼女も本を読むことくらいあるのだろう。上辺だけでは人の本質は知れないことを学べただけで今日は良しとしよう。

 思いながら耳にイヤホンを差し、図書室の出入口に立つ。


「沖平君! 待って!」


 秋山の声だった。


「……?」


 耳に差していたイヤホンを抜き、首を傾げる。ちょうど立ち止まっていた自動ドアが開いて、夜の気配を纏った風と鈴虫の鳴き声が館内に這うように吹き込んだ。

 揺れた髪を抑えて秋山は、図書館の向かいにある小さなカフェを一瞥して問いかけた。


「この後、時間ある?」


  ———


「なにこれ可愛い! 沖平君、このケーキめちゃ可愛くない!?」


 パシャ、パシャ。秋山の携帯のシャッター音が、二人以外に客のいないカフェに鳴り響く。

 運ばれてきた猫のケーキを見るや否や突然開催された撮影会の様子を見守りながら、湯気の揺れるコーヒーを口に含んだ。

 砂糖もフレッシュも入っていないコーヒーの苦みが口に広がる。キリマンジャロの酸味を口の中で転がしながら、目を輝かせている秋山を見やった。


「何か話でもあるんですか。秋山さん」


 訊ねると、シャッターを切るのに夢中だった彼女の手が止まった。写真にはもう満足したのか携帯をテーブルに置き、秋山は徐に目を伏せる。

 皿の上から見つめてくる猫のケーキを見返して、彼女は小さく弱々しい声音で言った。


「昨日の今日で悪いんだけどさ……今日のこともクラスの皆には黙ってて欲しいんだ」


 ——またその話か……。

 内心でボヤいて、呆れ加減に視線を向ける。

 また彼女は昨晩と同じような暗い表情をしていた。悶々と何かに向き合うような。粛々と見定めるような。あまりに露骨な表情のおかげで、彼女の脳裏の物憂げな思考は手に取るようだった。


「どうしてですか? 昨日の今日です。ちゃんと理由を説明してくれないと僕も納得できませんよ」


 込み上げた疑念をぶつける。

 すると秋山は虚を突かれて唖然としているようだった。

 もう二度も同じことを頼まれているのだ。嫌でも理由を気にしてしまう。

 そんなこちらが抱いた久方ぶりの他人への興味などつゆ知らず、秋山はお世辞にも上手いとは言い難い作り笑いを浮かべた。


「大したことじゃないから気にしないで……! ほんと、全然大したことじゃないから……!」


「……でも」


「そ、そうだ……! 沖平君、『君すい』読んでたよね? もしかして、あの作家さんの本好きなの? 借りてた本も同じ作家さんの本だったよね?」


 言及するにも幸洋が割って入る暇もなく秋山に遮られる。強引な舵きりに疑念は膨らむばかりだったが、一度乱立していた疑問を飲み込んだ。

 余程の事情があるのだろう。野暮な詮索はするべきではない気がして、コーヒーを一口含んでから彼女を見返した。


「そうですけど。知ったのはつい最近ですよ。流行った当時は小説なんて門外漢もいいところだったので」


 彼女が滲ませる焦燥への回答として、これは正しかったのだろうか。目配せするのと同じように思考を巡らせた。

 秋山が言う。


「そうなの? 沖平君、学校だとずっと本ばっかり読んでるから昔からそうなんだと思ってたよ。あの本ね、昔すごかったんだよ。私もすごい衝撃だったし、初めて読んだときはタイトルの意味知ってすごい泣いたなぁ」


 声音は明るく、普段の調子を取り戻したようだった。

 記憶を呼び起こして語る表情は、誰もがよく知る「秋山凛」という人物のそれだ。やはり昨日の物憂げな表情を湛えた少女と、眼前で感動を語る少女が同一人物だとは到底思えなかった。


「ね、沖平君って他にはどんな本読むの? やっぱり恋愛もの? あ、でも男の子だしSFとか? ミステリーとか興味ない? この本とかさ——」


 ずずいっ、と質問攻めしてくる秋山。足下に置いていた鞄からブックカバーに包まれた本を取り出した。のだが、突然何かに思い出したように彼女は言葉を切ってしまう。


「って、ごめん……。一人で盛り上がっちゃって」


 何をそこまで気にしているのだろう。

 彼女の心象を理解出来ぬまま、秋山がテーブルに伏せた本に手を伸ばした。

 クリーム色の布地に白猫の刺繡が施された年季の入ったブックカバーだ。肝心の本は、厚みは中程度といった具合のよくある文庫本だった。内容は青春小説のようで、物語を紡ぐ文体にはどこか覚えがある。

 ページを捲っていった最後。裏表紙の内側には、当然ながら著者の名前が記されている。何の偶然だった。著者はほんの一週間前に知ったばかりのものだった。


「この人って、『君すい』と同じ……」


「うん。そうだよ。私、その人の本が好きで結構読んでるんだ。沖平君も『君すい』読んでるみたいだったから、もしかしてって思ったんだけど……」


 秋山の言うように、挟まれた栞は本の後半に差し掛かっている。

 所構わず読んでいるのだろうか。見れば本は色褪せ、微かに黄ばみ始めていた。


「普段から結構読んでるんですか。なんだか意外ですね。全然そんなイメージないのに」


 一拍。

 綴られてきた文字を断ち切るような沈黙が落ち、秋山が答えた。


「そ、そうだよね。やっぱりイメージないよね。ほらギャップってやつ? あれ狙ってるんだ……! ははは……」


 乾いた苦笑で秋山は茶を濁すと、食べかけのケーキもそっちのけて椅子から立ち上がった。

 何やら急いでいる様子だ。


「秋山さん……?」


「ごめん、急用思い出しちゃった……! 今日はもう帰るね! また明日学校でね!」


 それだけ言い残して秋山はカフェを飛び出していってしまう。

 テーブルに残された食べかけの猫のケーキが不服そうに頬を膨らませているのを一瞥し、手元の文庫本の存在を思い出す。


「しまった……」


 つい読みふけってしまい返しそびれてしまった。

 また明日、学校で返すことにしよう。

 思って、ブックカバーの布地がざらつく文庫本を鞄のなかにしまった。

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