第二話 言の葉を好いている
短かった週末が終わり、憂鬱さと倦怠感を鞄に詰め込む月曜日が訪れた。
最寄り駅から学校の隣の大学病院行きのバスに揺られながら、幸洋は昨晩の秋山とのやり取りを思い出していた。
教室での彼女からは想像もつかなかった物憂げな表情。それを人に知られたくなかった理由。そんな表情を不意にしてしまった原因。
普段の彼女のことさえろくに知り得ない幸洋には、答えの見当もつかない話ばかりだった。
答えにたどり着くことのない思考を巡らせているうちにバスは停まった。
開いていた文庫本はまだ一ページも読めていなかった。
鞄の底に本をしまい、バスを降りる。
バス停から離れた高校の正門に向かって流れる学生たちに紛れながら、耳に差していたイヤホンをそっと外した。
———
誰に挨拶をするわけでもなく教室に入る。
教室の四方にはいつものように、大小様々なグループが出来上がっていた。
週末のアニメの感想を語り合っている男子たち。教卓を囲んで韓国アイドルの話題で盛り上がっている女子たち。
そして、そんな教室のなかでただ一人。誰にも声をかけず、ましてや声をかけられることも無く、教室を奥へ歩いていく幸洋。
代り映えしない日常がそこにはあって、それが幸洋にとっての平穏であり、平凡な日々の切れはしだった。
そんな中で秋山凛はというと、教室後方の一画を占領して朝から騒いでいるグループに囲まれて親しげに会話を交わしていた。
「昨日の動画どう? バズってる?」
秋山が問いかけていたのは、昨晩彼女と一緒にファストフード店にやってきた男子生徒の一人だ。
「サッカー部からは反応返ってきたぜ。見ろよ、ハート五〇もいってるぜ」
動画が再生されると、爆音のダンスミュージックが教室に響いた。
秋山はそれを見てぱちぱち小さく拍手して、
「すごいじゃん。次は何撮るの? 私も踊っていい?」
そんな当たり障りのない月並みな言葉で男子生徒の機嫌を取っていた。
学ランのホックを外しながら教室最後方窓際の席に腰を下ろす。
休日はかけていなかった銀縁の眼鏡を持ち上げて、教卓の背後の壁掛け時計を見やった。
始業時間まで猶予は長い。鞄に手を突っ込み、文庫本を握った。
昨晩ファストフード店とバスの中で読み進められなかった分を取り戻すように、一人黙々と読書を始めた。
初めて小説に触れたのは、中学三年の冬だった。
それまでの昼休みの過ごし方と言えば、率直に言えば幼稚極まりないものだった。
友人と流行りのアニメの話題で盛り上がり、昼休みも放課後も休日も、自分たちが子供だということに気付かないまま所構わず走り回っていた。
それが中学生として当然のことだと思っていたし、許されて然るべき子供の振る舞いだと妄信していた。
制服のポケットにカイロを忍ばせるようになった真冬のある日。
昼休みを体育館で過ごすために体育館へと向かった矢先、入り口に貼られていた張り紙を前にして足は止まった。
『床の結露につき、本日使用厳禁』このたった数文字で学校生活最大の楽しみを奪われたように思ったのは言うまでもない。
肩を落して渋々教室に戻っても、そこは優等生たちが机に齧りついて勉強しているだけの、息苦しい空間に様変わりしていた。
そうして逃げるように図書室に足を運んだ。
相変わらず息が詰まるような静けさを前にすぐに去ろうとした。だが図書室というものに触れたのは小学校卒業以来実に数年ぶりだった。
読書週間や毎朝の読書時間のほとんどを友人から借りた適当な本で凌いでいた身には、小学校のそれとは比べ物にならない量の本に埋め尽くされた空間はただただ新鮮で。
一冊、なんでもいいから手に取ろう。思い立って本棚の前に立つ。ふと目に留まった一冊の文庫本を手に取って、図書室中央の読書スペースに向かった。
手に取ったのは、二〇〇〇年初期に発表されたSF小説。
堅苦しい文体と難解な言葉遣いにはじめは数ページを読むのですら苦労したが、次第にページを捲る速さは加速していた。
知らず、眼前にクラスの友人が立っていた。
昼休みがじきに終わるらしい。毎日一緒に体育館に駆け込む仲間の一人だった。教室に姿がなかったので探しに来てくれていたらしい。
「明日はどうする?」退屈そうに訊ねられた。
返した答えはたった一言だけ。
「明日はいいかな。この本、ちょっと気になるんだ」
それが文学との邂逅だった。
その日から昼休みになると図書室に入り浸るようになり、朝と放課後の時間までを読書で塗りつぶしてしまうのに時間はかからなかった。
そんな折、放課後に図書室に向かうといつも決まって書架整理をしている若い男性教師が言った。「最近落ち着いてきたな。大人っぽくなってきてるぞ」と。
瞬間に自覚した。
規律のなかに生き、冷静かつ毅然と構え、感情を制する。
それこそが人の言うところの『大人』なんだと。
「お、眼鏡クン。今日は何読んでんの~?」
不意にそんな声が聞こえたかと思うと、背後から一人の男子生徒が顔を覗かせてきた。秋山と話していたグループの一人が暇を持て余してしまったらしい。
くちゃくちゃとガムを噛む不快な咀嚼音に、舌打ちだけはしないようにつとめて適当な言葉であしらった。
「恋愛小説ですよ。『君すい』って知ってます? 映画にもなってますけど」
言うと、男子生徒は案の定大きく首を傾げている。「悪ぃ知らねぇわ。俺ジャンプしか読まねぇから」とへらへら笑っていた。
安心しろ。誰もお前が小説に詳しいとは思ってもいない。
思えども口にはしない。省略されたタイトルで伝えたのも、微塵もそんな期待をしていなかったからだった。
「『君すい』? 沖平君、『君すい』読んでるの?」
声は男子生徒の背後から聞こえてきた。
視線を向けた先に居た秋山と、実に昨晩ぶりに目が合う。
「今どのへん読んでるの?」
昨晩の暗い表情はどこへ置いてきたのやら。
男子生徒を差し置いて本を覗き込み、秋山は目を輝かせていた。
甘いバニラの香りが鼻腔に絡みつく。逃れるように手元の小説へと幸洋は視線を向けた。
「……」
「……? おーい、沖平君?」
頭の上に疑問符を浮かべる秋山。
彼女を一瞥して本を閉じて、鞄の奥に隠すようにしまった。
話しかけないで欲しかった。彼女とは決して交わらないことが最適な距離だったから。言葉を交す気はないと暗に示そうと、気の早い一限目の準備に取り掛かる。
そのまま黙々と一限目の数学の準備を整えはじめ、背後の秋山には視線を向けることもなく彼女の声をなかったことにした。
そんな二人の険悪な——幸洋が一方的に険悪にしていた——様子を見ていた男子生徒は、話題にまったく着いていけずに目を点にしてしまっている。彼が秋山に解説を求めると、秋山は柔和な笑みと共に返した。
「前に映画であったんだけど知らない? 『君の膵臓をたべたい』って映画。あれ、小説が元になってるんだよ」
「あの映画の事か! 知ってる知ってる! めっちゃ泣いた! 秋山、小説なんか詳しいんだな。ちょっと意外だわ」
秋山がタイトルを正確に伝えると、男子生徒はそれだけで合点がいったようだった。「なんかグロいタイトルだったから気になって見たら、めっちゃ泣いたわ」と拙い語彙力で感想を語る男子生徒。秋山は「小説とちょっと展開違うけど、面白かったよね」と同調していた。
よほど秋山が小説に詳しいことが意外だったのだろう。
男子生徒は続けて彼女に問いかけた。
「秋山って小説とか読むんだな。漫画とかドラマだけだと思ってたわ」
「そんなことないよ。私も映画で初めて知っただけだよ? 普段は漫画とかばっかり読んで、小説なんてほとんど読まないし。沖平君の方がきっと詳しいよ。ね? 沖平君」
ね、とはなんだ。何故巻き込む。
秋山から注がれた視線を受け流し、鞄から取り出した教科書とノートを重ねながら、ぶっきらぼうに答えた。
「……そうですね。四六時中読んでますよ。人と話す暇が惜しいくらい。僕はあの映画、あんまり納得してませんけどね。原作のストーリーをかなり改変してますし」
「あー、それは……そうだけど」
困った様子で返す言葉を探す秋山。門外漢だった男子生徒はまたしても蚊帳の外に出されてしまう。ひとつ彼でも理解できているものがあるとすれば、幸洋がその映画に対して否定的な姿勢でいるということだけだった。
やり取りを最後に男子生徒は幸洋たちの元を去っていって、程なくして予鈴が鳴った。
予鈴が鳴り響く中。生徒たちは自分の席に続々と腰を下ろしていく。
秋山も教室の最前列窓際のストラップが派手にぶら下がった鞄の置かれた自分の机に向かおうとしていた。
その背中に向けて言う。
「秋山さん」
呼ばれた秋山が振り返った。
しかし幸洋の視線は窓の外へと向けられていて、もう目を合わせる気はないようだった。
「昨日の事、絶対に誰にも言わないので。写真、消しておいてくださいよ」
「……う、うんっ!」
立ち尽くしたまま秋山は微笑を浮かべて、教室に入ってきた担任に着席を催促されながらも上機嫌に席についた。
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