あの夕景に挟んだ栞は、まだ一ページも進んでいない。

泉田聖

第一話 吠えない虎と優美な毒虫

 鏡に映る青年の末路は、きっと救いようのない虎に化けることだった。


 似合いもしないオーバーサイズの黒いジャケット。

 柄の派手なブラウンのパンツの下には、厚底のスニーカーが黒く光っている。

 初めてつけたイヤリングも次第に鬱陶しく感じてしまえて、ちぎるように外してポケットの奥に捻じ込んだ。


 冴えない黒く濁った瞳は、鏡に映る自分を呪うように見つめていた。

 手櫛で整えた黒髪は目にかかって、鋭い目つきは映るものを平等に蔑むように冷ややかだ。


 日曜の夕暮れ。

 小さなファストフード店のラバトリー。


「……ちっ」


 沖平幸洋おきひらこうようは、鏡越しの冴えない青年に向かって、捨て台詞じみた舌打ちを零した。


  ———


 ラバトリーを後にすると、赤々と眩しい夕焼けが視界に飛び込んできた。


 思わず目を細め、顔を背けてしまう。

 刺さるような夕陽の熱線を手のひらで遮る。空のトレイが置かれている窓際のカウンターテーブルに、顔を顰めながら幸洋は向かった。


 気だるげに腰を下ろし、肩から下げたショルダーバッグから文庫本を手に取る。

 性に合うはずがないと知っていながらも手に取ってみた恋愛小説。案の定、栞の進み具合は一週間が経った今でも芳しくなかった。

 文庫本を片手で持って、もう一方の腕で頬杖を突く。

 陽が沈むまでの数刻を読書に費やすことに決めて、幸洋は一日の疲労感を咀嚼するように並んだ活字をなぞり始めた。


 小説の登場人物は、本好きな男子高校生の主人公と余命幾ばくも無い難病を患ったクラスメートの女子生徒。

 偶然彼女の病気を知ってしまった主人公が、彼女の秘密を守りながら彼女との残り少ない時間を共に過ごす。眩暈がしそうなほど真っすぐな恋愛小説だった。


 くあ、と獣のようなあくびが零れた。


 文章に集中できていなかった。散らばる言葉を拾い集めることが読書の醍醐味であるはずなのに、今はその工程のひとつひとつが重たい。

 昼間に渋谷の人混みを歩いていた疲れが出ているのだろう。

 続きはまた明日にしよう。

 日々の営みを終えるように、栞を挟んで本を閉じる。椅子から腰を浮かせ、空になったトレイを手に取った。


 その時。

 覚えのある声が耳に届いた。


「あーマジで疲れた! どんだけ撮るんだよ。もう足上がんねぇよ!」


 スカジャンにキャップ。ダボついたパンツに底の厚いスニーカー。風貌の青年が、大声で愚痴を零しながら入店してきた。


 店内に居合わせた客の視線が一斉に青年に注がれた。

 だが青年はどこ吹く風といった様子でいる。不愉快極まりない横暴な態度だった。


 周囲への配慮など欠片もない青年に辺りの客が目を背けるのと同じように、幸洋も視線を落して顔を伏せた。

 浮かせていた腰を一度椅子に沈め、入店してきた人物を認めるとだんまりを決め込んだ。


 何の冗談だろう。

 入店してきたのは、普段ろくに会話もしないクラスメイトだった。それも一人だけではないらしい。見れば後に続いて二、三人と取り巻きの青年たちが入ってきている。

 休日のこんな服装をクラスメイトに——よりにもよって彼らに見られれば最後、翌日から教室で噂になるに決まっている。

 顔だけは見られないように注意を払いながら、彼らの様子を伺った。


「サッカー部のくせに貧弱な身体してんなよ。そんなんだからレギュラー下ろされるんだぞ」


 言い放ったのは、青年の後を追って入ってきた少女だ。

 向けられた毒に耳を塞ぎ、聞こえないふりをしている青年はやがて少女の更に背後に呼びかける。


「っるせぇな。早くメシにしようぜ、奢ってやるよ」


 青年が宣言と共に一万円札を財布から取り出す。歓声が湧いて集団はレジの前を占領しはじめた。

 伏せていた視線を僅かに上げて、硝子の反射越しに店内を見回す。


「これ見たか? 小谷またホームラン打ったってよ。しかも満塁。マジやべーよな」


「見た見た。やっぱスゲーよな、まじでレべチだわ」


 ——……最悪だ。

 よりにもよって背後のテーブル席についた彼らの会話を盗み聞きながら、心の奥で悲鳴を零した。

 早々に席を立てば顔を見られることもなく店を出られたかもしれないのに、こうなってしまってはもう不可避だ。振り向けば最後。必ず顔を見られてしまう。

 もう一度、顔を伏せて他人のふりを貫くことにする。



「また野球の話? 今日だけで何回目? 良く飽きないよね」



 やがて愚痴と共に、隣のカウンター席に一人の少女が腰かけてきた。

 不覚にも声は知っているものだった。

 思い出したくもないはずの顔も、声が個人と結びついたのと同時に脳裏に浮かび上がる。 


 横目に隣のカウンターを見やった。


「ねぇ、今週のぶすかわ誰か見てないの?」


 淡いピンクのミニスカートに、シルエットの大きな白いシャツ。季節外れのセーターに合わせたクリーム色のベレー帽。横に結いたブラウンの長髪は、ゆるく巻かれている。目を惹く左目尻の泣きぼくろと、整った小さい顔は一度見れば忘れるはずがなかった。


 ——秋山さんもいるのか……ツイてないな。本当。

 秋山凛あきやまりん。 

 人当たりがよく、人懐っこくて、常に明るく弱音ひとつ零さない。常にクラスの中心にいる女子生徒だ。

 誰にでも分け隔てなく接する態度からクラス中から信頼され慕われている彼女のことだ。なんてことのないこんな休日でもクラスメートから誘いで引っ張りだこなのだろう。

 

 秋山に向けていた視線を静かに外した。

 対岸に生きる彼女のことなど気にしていても仕方がない。わざわざ休日に人騒がせな彼らとは関りたくもない。

 思いつつバックの奥の文庫本に縋りつく。栞の挟まれていたページを開き、彼らの存在を拒むように開いた本の食べかけの言葉に齧りついた。


 文字列をなぞっている間でも彼らの会話はノイズのように聞こえてくる。

「ねぇ、インスタ見た? 今日めっちゃ映えてたんだから反応してよ。小田君ですら反応してくれたんだよ?」

 と、秋山。

 ちょうど聞いていたもう一人の少女が嗤って、

「小田って、あの小田? デブオタの? やっぱ凛は違うわ。よくあんな陰キャと話そうとか思うよね。無理だわ~。臭いし清潔感ないし」

 小首を傾げて秋山が答える。

「私が教えたら、やってくれたよ? それに小田君普通にいい人だけど? 確かにちょっと変なとこはあるけど、勉強わかんなかったら教えてくれるし」

 こみ上げてくる嫌悪感を隠す気もなく少女が、

「ゼッッッタイ勘違いされてるって。変なことになる前に距離置きなよ。あんたそういうとこあるよね。八方美人っていうの? 誰にでも優しくし過ぎ。正直ちょっと怖いくらいだわ」

 呆れた様子で向けられた忠告に、秋山は苦い笑いを零していた。


 ———


「じゃ、ウチもそろそろ帰るわ」


 そんな言葉が交わされたのは、彼らが店に入ってから時計の長針が一と半周した頃だった。

 店の外はすっかり夜の静けさに包まれていて、店内にも客の姿はほとんどない。

 最後まで店に残った秋山も席を立った少女と一緒に店を出るだろう。喜びも半ほどに、幸洋は聞き耳を立てながら本を読み進めていた。


「私はもうしばらく居ようかな。うちすぐ近くだし。今日は楽しかったよ、また学校でね」


「そ。じゃあ学校で。気をつけて帰んなよ」


 言って、少女が店を後にする。

 一人残った秋山は少女の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

 友人を見送ると秋山はテーブルに頬杖をつき、自慢のサイドテールを慣れた手つきでほどいた。伏せて置かれていたストラップまみれの携帯を手に取ると突然秋山は、


「なにやってるんだろ……」


 呟きながら、再生されていた流行りのダンス動画を次々に削除していた。動画を完全に削除すると秋山は、携帯をテーブルに投げ捨てるように置いた。

 そして、一拍。逡巡するような間があって、



「はぁぁぁ……」



 聞いたことのない大きな溜め息を零した。



「えっ……?」


 意図せず秋山に視線を向けてしまった。


 秋山の溜め息など初めて耳にしたからだった。

 普段底抜けに明るく、弱音どころか愚痴のひとつも零さないはずの彼女の口から、そんなものが零れる瞬間を想像できたことなど一度だってない。少なくとも先程までこの場に居合わせた彼らの中の誰一人も、そんな姿を目にしたことはないはずだ。


 不意の出来事に思わず無関心を貫けなくなった幸洋が視線を寄越すと、当然秋山も同じように視線を返すわけで——、



「「あっ……」」



 視線が重なった二人は、小さく声を漏らすと反射的に目を逸らした。


「すいません、あんまり大きな溜め息だったので……」


「ごめんなさい、迷惑でしたよね……! って——」


 言葉を切った秋山の表情が切り替わる。

 もう一度幸洋へと向けられた視線は、今度はしかし逸らされることがない。


「沖平君だよね? 眼鏡は? こんなところで何してるの?」


 秋山がぐいぐい迫ってくる。

 視線を背けて前髪を触りつつ、内心で最悪の事態に陥ってしまった失態を悔いながらぼやくように返答した。


「今日はたまたま気分じゃなかっただけです。ていうか、僕だってマックくらい来ますよ。……あの、もう帰ってもいいですか?」


「なんで⁉ ちょっ、待って待って! 席立とうとしないで……! 話があるからちょっと待って!」


 席から立ち上がると、秋山に両手で上着の袖を掴まれた。

 新調したばかりなのだ。破れてしまうのは勘弁して被りたい。渋々椅子に腰を下ろして、秋山を見ないまま問いかける。


「話って何ですか。僕、早く帰って本の続き読みたいんですけど」


 彼女と距離を置く為の無意識下の選択だったのだろう。普段からろくに会話もしない相手を前に、一秒でも早く逃げたかったのかもしれない。

 これ以上彼女と共にいると、仮初でも平穏無事で安定していた毎日が壊されてしまう予感さえしていた。

 やがて暫時の沈黙があって、秋山。


「さっきのこと、クラスの誰にも言わないで欲しいんだ。私が、溜め息吐いてたってこと」


 目を見張った。

 秋山から逸らしていた視線をぎこちなく向け直す。

 見開いた双眸に飛び込んできたその人は、幸洋の知るところの秋山凛ではない別の誰かに見えてしまうほど、暗く底知れない曇った表情をしていた。


「どうして」


 つい口から疑念が滑り出た。

 秋山は少し大げさな焦りを浮かべると、込み上げた感情を噛み締めるように静かに俯く。


「お願い! 理由は深くは言えない! けど、とにかく言わないで欲しいんだ……!」


「ちょ、頭上げてください……!」


 気圧されるほど深く頭を下げられた。

 何故だか途端にばつが悪くなってしまう。これではまるで彼女のことを脅しているようではないか。


「……わかりました。言いません。というか、端から言うつもりなんてなかったですから。気にしないでください」


「ほんと⁉」


 言うと秋山は顔を上げた。

 頷いて返すと表情に晴れ間が見えて、ほんの数秒の間に彼女は普段の調子を取り戻していった。


「よかった! ありがと! じゃあ、写真撮っていい?」


「は?」


「休日に会うなんて初めてだし、いいでしょ?」


 目をきらきら輝かせながらカメラアプリを起動する秋山。「せっかくだし二人がいいかな」などとお門違いな懸念をしながら、彼女の手が肩に置かれた。

 戸惑うこちらには構わず、シャッターが切られる。


「ちょ、何してるんですか……。消してください」


 怒気の混じった声で彼女の携帯を取り上げようとするが、ひょひょいと躱される。やがて彼女は携帯の画面を操作して、表示した画面を見せつけてきた。

 画面には困惑している幸洋の姿と、慣れた様子で笑顔を作っている秋山のツーショットが映されている。


「じゃーん! これでクラスの皆との写真が揃いました! いやぁ、沖平君なかなかガードが堅いから時間かかったなぁ。でも、今日会えたのはラッキーだったかな!」


「……」


 写真に映っている自分の冴えない表情が気に入らなかった。

 写真を消すために見せつけられる画面に指を伸ばす。だが当然、ぺしっ、と秋山に叩き落とされる。

 携帯の画面を見ながらご満悦な秋山を前にして、黒い思考が脳裏で巡った。


「消してください。じゃなきゃ、さっきのことを言いふらしますよ」


「えっ?」


 秋山が双眸を見開いた。

 よほどあんな暗い表情をしていたことを人に知られたくないのだろう。焦りと戸惑いが這い上がって、秋山は顔をみるみる青くしていく。


「じゃ、じゃあ、この写真をクラスの皆に見られたくなかったら誰にも今日のことを言わないって約束して」


「はい?」


「いいから! 約束して!」


 強い声音と共に、小指の立てられた手が差し出される。小学生か。

 どちらに交渉の主導権があるのかハッキリさせなければならない。腕を組んでそっぽを向き、冷たく言い放った。


「それは秋山さん次第ですよ。それを今すぐ消してくれたら言いませんよ」


「むっ。君、思ってたより頑固だな」


 言って秋山が携帯を操作し始める。メッセージアプリを開き、クラス全員が参加しているグループを開く——全員と言っても幸洋だけは参加していないのだが——そして何やらメッセージを打ち込み始めている。

 あえて画面を覗き込めるような角度で操作しているのは気のせいだろうか。

 そのまま彼女はメッセージに画像を添付するように設定し、送信ボタンに指を伸ばそうとした。画像は当然、先ほどの写真だ。

 思わず手が伸び、送信ボタンを押そうとしている彼女の手を掴んでいた。


「何してるんですか」


「皆に送っておこうと思って」


「キレますよ」


「じゃあ、今日のこと誰にも言わないって約束して」


「……」


 真っ直ぐに視線を向けられる。

 横目に見返すと、微かに彼女の目元が潤んでいた。知って、胸の奥がほんの僅かにざわついた。その表情はずるいだろう。


「わかりました。約束しますから。それ、ちゃんと消しておいて下さい」


「やだ。消したら私のこと言いふらしそうだもん」


 言いつつ打ち込んでいたメッセージを削除していく秋山。しかし画像のデータを削除する気はないらしく、ご丁寧にファイルに保存すると、携帯をポケットにしまった。

 やがて彼女は椅子を降りて、膝の上に抱えていたショルダーバッグを肩に掛けた。

 まさか。脳裏で警告が鳴って、席を立った彼女に声を呼び止める。


「ちょっ、何してるんですか」


「ワー、遅くなちゃったなー。補導される前に帰らなくちゃー。沖平君も早く帰りなよー」


 つけてもいない腕時計を一瞥して、大根役者並みの棒読みを炸裂させると秋山は店の扉へと足早に向かっていった。


「秋山さん……!? まっ——」


 後を追って席を立つ。

 だが、テーブルの上に置かれていた空のトレイが不貞腐れて無言の圧を放っていた。

 慌ててトレイを返却して店を飛び出す。


 しかし飛び出した店先の街道にはもう、彼女の姿は見当たらなかった。

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