第36話 魔物1

 外に出た途端、船体が大きく揺れて私達は壁に体を預ける形になった。つられるように自然と見上げた高速艇の外にはキラキラ眩しい太陽……では無く、真っ黒いぬべっとしたモノが立ちはだかっている。

 

「ナニコレ?」

 

 逆光でよく見えないがこんな状況での黒い巨大な塊は恐ろしいと感じるはず。だが突き抜けてしまったのか若干の気持ち悪さしか感じない。

 

「お前海育ちなのにアスピドケロンを知らんのか?」

 

 カイが目の前のソレよりも私の方が変な生き物だと言わんばかりな物言いをする。アスピドケロンとは海亀の様な姿の巨大な魔物でもちろんで人を襲う。

 

「コイツがそうなの?よく見えないし、知識としては知っているけど実際に見た事ない。それに間近で見たやつは大抵死んでるんじゃない?」

「なるほど。確かに」

 

 ひと目で目の前の真っ黒いコイツをアスピドケロンだと決めつけたカイこそ変な奴だと思うが今はそこを問いただしている場合では無い。高速艇の揺れは少し収まっていて、しかもアスピドケロンはなぜだか動く気配が見られない。このまま襲って来る様子を見せていない今のうちに出来るだけこの場から離れた方が良いだろう。

 心情的には一旦船内に引き返したいがもし魔物コイツが一瞬にして気持ちを切り替え船を沈めにかかるなら外にいた方が助かる確率が高い気がする。もうそれは微々たる差だとは思うが。

 カイも同じ考えだったのか手摺に掴まりながら私の手をひきじわじわと足を運びアスピドケロンの前から移動を試みる。逆光で奴がどこを見ているのかなんてよくわからないが私達を目で追っている気がしないでもない。が、きっとそれは被害妄想だろう。

 

 上手くアスピドケロンを躱し救命艇へ向かいたいと思っていたがここで問題が発生。肝心の救命艇はアスピドケロンの斜め前方に備え付けられていて、それを利用するために解放すれば救命艇は奴の目の前に降下されることになる。それってもう「お召し上がれ」と差し出しているようなものだろう。

 

「反対側へ行くぞ」

 

 カイもそれが想像出来たのか目の前の救命艇を惜しみつつ通り過ぎ船首の方へと進む。

 

「ねぇ、ちょっと」

 

 出来るだけアスピドケロンを刺激しないように静かに進むカイに呼びかける。

 

「静かに。黙ってろ」

 

 進行方向と時々アスピドケロンに目を向けるカイ。

 

「でもさ。見てよ」

 

 私は繋がれた手をグイグイ引っ張りカイに尋ねる。

 

「うるさい」

「ついて来てるよ」


 私の言葉にカイが体をビクッと震わせると足を止め小さくため息をついた。


「くそ〜、ハッキリ言うんじゃねぇよ……」


 どうやらカイもアスピドケロンが私達の動きに合わせ船を回り込むようについて来ていた事に気づいていたらしい。それを気づかないふり・・をしていたかったみたいだ。現実逃避だね、わかるよ。

 

 私達が止まるとアスピドケロンも動きを止める。進み出すとまたついて来る。襲う気持ちが萎えてしまったのか何故か他の動きはしていないが、どこかへ行くつもりも無いようだ。

 

 奴の様子を窺いつつ船首を回って向こう側へ行くとそこに、通路いっぱいに広がり小声の叫び声を上げる人達がいた。


「いいから、そこを退け……俺が先に救命艇に乗ろうとしたんだぞ」

「何言ってるんだ……お前が、俺をつき飛ばしたんだろが」


 我先に救命艇へ押しかけ、なかなか脱出出来ないでいたようだ。


 コイツ等反対側にアスピドケロンがいる事を確認して私達を助けようともせず、なんなら囮にして自分達だけ逃げようとしてたな。


「ちょっと」


 私のひと声で小声の叫びがピタリと止む。


「「「ひぃっ!」」」


 何人かが振り返り声にならない声をあげ、へたりこむ奴が続出した。だって私達の背後にはアスピドケロンがいるからはずだからね。


 私もつい振り向くと逆光では無くなった奴の姿をハッキリと確認してしまう。初見の印象は大岩か、という感じだ。やはり海亀のような形で全体的にデコボコと何やら付着物が多い歪な甲羅に、ぶっとい首が生えその先に鋭い目をした顔がある。先程は突き抜けて無になっていた心だったが、正確に魔物と相対してしまうと、頭が理解する前に勝手に震えだす体が気持ちより先に恐怖を感じているようだった。慌てて目をそらし前を向く。落ち着け、私。


「な、な、な、なんでこっちに……」


 船員達のその発言は私達を囮にした確信犯のセリフだろ?


「こっちにだって事情はあるのよ」

「く、来るな!」


 そのまま足を進めようとすると船員の一人が大きな声で叫んだ。刺激されたようにアスピドケロンがズイッと体を高速艇へ近づけて来て、それに伴い船体がグワンと揺れる。


「「わあー!」」


 焦った皆が騒ぎ救命艇へ乗り込もうとパニック状態になっていく。


「やめろ!押すな」

「頼む、俺は救命具が無いんだ!」

「乗せてくれ!国で子どもが待ってるんだ!」


 左舷側には救命艇は三艘あったはずだが何故か右舷側こちらには二艘しかなかった。おかしいなと思っていたらカイが私に視線で示した少し離れた海上に一艘の救命艇が見える。


「お貴族様は無事に脱出されてるようだな」


 カイがケッって感じで眉根を寄せる。呆れるばかりで怒りも感じない。あいつ等が私達の事を考えてくれるなんてこれっぽっちも思ってないけど上に立つ者の矜持とか……無いよね。そんな事より私達も脱出しなきゃ。


 皆が騒げば騒ぐほどアスピドケロンが近づいて来る気がする。船員達はますますパニックになりとうとう船から飛び降りる奴まで出てきた。それを見ているアスピドケロンが妖しげに目を細めた気がする。こいつまさか楽しんでるんじゃないだろうな。


「ヤバいな。船尾から回ってもう一度左舷へ向かうぞ」


 パニックな船員の後ろをすり抜け一周回って反対側へ向かう事にした。

 船員をかき分け船尾へ向かっていると同じ方向に数人が向かう姿が見えた。気の回る奴か、パニック過ぎて逃げ惑う奴か、ともかく急がなければあっちの救命艇も人が集まっていきそうだ。


 揺れが多少激しくなっているなか通路を走り後方からぐるりと回る。思った通り既に救命艇へ乗り込もうとしている人達がいた。


「フランコ早く手をかしてよ!」

「騒ぐなマグダ!奴が戻ってくるぞ!」


 あぁ~ん、そういう事ね。


 例の二人が裏の裏をかき上手く救命艇へ乗り込んでいる。出遅れたのか救命具は身に付けていない。


「船を降ろせ!」


 僅かな人が乗り込んだだけで焦る船員がクレーンを操作し救命艇を降ろそうとする。


「待て、まだ乗れるぞ!俺達を見殺しにする気か!?」


 こっちでもパニックになった船員達が争い始め、嫌な雰囲気が漂っている。揉めている隙になんとか乗り込まなければ、置いていかれたら今度こそ私だってパニックになりそうだ。


「急げエメラルド!」


 カイが揺れる高速艇の中、それでも手を離さずに私を連れて行こうとしてくれる。私もその手をしっかりと握り必死に足を動かす。

 もう少しで救命艇に近づく、というその時。いきなり高速艇の船首が急降下し体が浮いたと思ったら空中へ投げ出された。弄ぶように高速艇を揺らしていたアスピドケロンがいよいよ沈没させようと動いたのだろう。


「うわぁー!」

「エメラルド!特級ケースを離すなよ!」


 カイが叫ぶと同時に私を引き寄せて救命具の前に付いていたピンを引き抜いた。




 

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