第42話 金色の手紙

 何人もの武装した私兵が橘宮たちばなのみやの周りを厳重に取り囲んでいる。私は沈んだ気持ちのまま宮の東門をくぐった。中庭を歩いていると、私の姿に気が付いた六鯨むげ漢人あやひとが走って来るのが見え足を止めた。


 六鯨むげが私の目の前に立ち涙を浮かべながら、私の言葉を待っている。心労のせいだろう、この数日で彼の白髪は一気に増えすっかりやつれてしまった。それはそうだ、だって小彩こさは死んだと聞かされているのだから…


 「実はね…小彩こさのことなのだけど…」


 私はここまで言いかけて口をつぐんだ。彼らに小彩こさの生存をこっそり伝えようとしたが、林臣りんしんの言葉が頭をよぎった。彼の言う通り、知らない方がいい事もある。知らぬが仏という言葉もあるくらいだ。彼らの安全を考えたらそれが一番良いのかもしれない…


 私は後ろ髪を引かれながらも、


 「悪い出来事は全て忘れて、良い思い出だけを胸に彼女の為に生きましょう。それが一番の供養だわ」


 と伝え二人を慰めた。二人はしばらく沈黙したあと、「そうですね」と言い涙を拭った。



 ありがたいことに私が過ごしていた部屋はそのままの状態で残されていた。部屋の掃除も良く行き届いていて埃ひとつない。小彩こさの居ない橘宮たちばなのみやはただただ空虚だ。一人になってしまった部屋は暗く、もの寂しさが広がっている。飛鳥での長い旅路を共にした小彩こさと再びこの宮で笑い合う事はもうないだろう…


 寝台に座るとポタポタと涙が流れ落ちた。


 その晩、私はいつまでも寝付けず、明け方近くに少しうとうとしただけで朝を迎えてしまった。目を覚ました時、まだ甘樫丘の林臣りんしんの屋敷にいるのだと思った。慣れ親しんだはずの橘宮たちばなのみやのこの部屋の天井に違和感を覚える。目の前の天井を見上げて思った。朝一番に見たい世界はこれじゃない…


 彼は無事だろうか?ちゃんと食事を取り眠れているだろうか?私をまだ想ってくれているだろうか?…


 枕に涙がこぼれた。

 朝堂院の片隅で毛人えみし林臣りんしんが話をしている。


 「林太郎、山代王様と一線を交える事には私も気乗りしないが、向こうが本気で挙兵してきたら、こちらも応じるしかない…どうなることか…」


 林臣りんしんが暗い顔でうなずくと、毛人えみしは深いため息をついた。


 「山代王様とそなたは幼い頃から互いを知る知己だ。山代王様も頑固なお方だが、多くの兵が血を流す事には反対だろう…今回の件に関しては出来る限り状況を見守ろうと思う、どうだ?」


 「賛成です」


 林臣りんしんが言うと、毛人えみしはうなずき話を続けた。


 「しかしな、宝皇女たからのひめみこ様の周辺がやけに騒がしいのだ。秦氏が躍起になって挙兵の準備をしたがっているらしく何度も大極殿に足を運んでいる。宝皇女たからのひめみこ様は慎重で賢いお方ではあるが、奴らの話に上手くまるめ込まれる可能性もある…注視しないとな…」


 毛人えみしは軽く息を吐くと顔を振った。





 翌日、板蓋宮いたぶきのみや軽皇子かるのみこと秦氏が宝皇女たからのひめみこに謁見していた。


 「何故私に相談もせずに、勝手に勅旨を持ち出したのだ?そなたが、状況が落ち着いた時に持ち出すと言ったから押印したのだぞ」


 宝皇女たからのひめみこはあきれ顔で軽皇子かるのみこを見ると、手に持った団扇うちわで床を叩いた。


 「姉上の許可なく勝手に持ち出した事は謝ります。しかし今が絶好の機会なのです。たとえ乳部みぶの民を徴発せずとも、遅かれ早かれ王家は兵を挙げて都を攻め入り、みかどの座を奪取したはずです」


 軽皇子かるのみこが口を尖らせ、話を続けた。


 「斑鳩いかるがの地は王家のゆかりの土地です。まだまだ彼らに従う豪族が多数います。災いの芽は早いうちに摘むべきです」


 「なれど、向こうは動きを止め静観しているのだろう?山代王とて、本当は戦など望んでおらぬはず…」


 宝皇女たからのひめみこが顔をしかめた。すると黙って隣りで聞いていた秦氏が口を挟んだ。


 「宝皇女たからのひめみこ様、僭越ながら申し上げますが軽皇子かるのみこ様がおっしゃる通りです。大義名分のある今こそ、山代王様を討伐する絶好の機会です。向こうが兵を挙げて来ているのですから、こちら側は立派な正当防衛です」


 秦氏がいつになく厳しく張った声で言った。


 「ふぅぅむ…」


 宝皇女たからのひめみこがこめかみを指で押さえながら、深いため息をつき再び秦氏を見た。


 「毛人えみしはなんと申しておる?」


 「豊浦とゆら大臣様は、未だ難色を示しております。あくまでも慎重に事をすすめたいのでしょうが、我、関せずといったような態度を取っておいでで、こちらは足踏み状態です」


 秦氏が渋い顔で答えると、


 「なれど、毛人えみしの意見も聞こう…」


 宝皇女たからのひめみこが小さなため息をつき手に持った団扇うちわに目を転じると、秦氏が間髪入れずに口を開いた。


 「しかし、豊浦とゆら大臣の意見だけに耳を傾けるべきではありません。朝廷の群臣の中には強気で攻撃的な山代王様とそりが合わない者も多く、特に緊迫している朝鮮三国、百済や大唐の使節団から不興を買い、関係は悪化の一途を辿るばかりです。百済派兵も支持しない為、多くの百済由来の豪族達から反発の声が上がっています。万が一にも山代王様がみかどに即位されることになった日には、国内外でさらに多くの血が流れるでしょう…」


 「あぁ、何と言う事だ…まったくどうしたものか…」


 宝皇女たからのひめみこが苦痛の表情で顔を歪ませている。


 「姉上、迷っている時間はありません。この機会を逃せば、相手陣は更なる兵を集め大きな脅威になりかねません。どうかご決断ください!」


 宝皇女たからのひめみこはしばらく黙って外の景色を見つめたあと、大きく息を吐き口を開いた。


 「秦よ、将軍をたてておけ」


 秦氏は心の中でにんまりとしながらも顔に出さないように唇を固く結び深々とお辞儀し部屋を出た。後ろから来る鎌足かまたりを呼び寄せると耳元でささやいた。


 「兵を集めろ、あと徳多とこたを将軍に立てる。くれぐれも蘇我親子に感づかれないように内密にして来るように伝えろ。徳多とこたを将軍として斑鳩宮いかるがのみやに差し向ければ、表向きは蘇我の軍だと一目瞭然でわかるからな、他に我らの息のかかった者はいるか?」


 「倭馬飼やまとのうまかいもこちら側の人間です」


 「でかした。二人を将軍にたてて斑鳩宮いかるがのみやを襲撃する」


 「はっ!!」


 二人が板蓋宮いたぶきのみやを出ると回廊の先の曲がり角から毛人えみし林臣りんしんが現れた。二人は回廊の端に寄ると、頭を下げながら毛人えみし林臣りんしんが近づいて来るのを待った。秦氏は二人が目の前まで来ると顔を上げ、いかにもわざとらしく振舞った。


 「これはこれは、豊浦とゆら大臣!いや、林大臣りんおおまえつきみですな!」


 毛人えみし林臣りんしんが無言のまま二人を見ると、秦氏は急に真顔に戻り話を続けた。


 「大変深刻な状況ですが互いに助け合いこの窮地を乗り越えましょう」


 秦氏が愛想笑いを浮かべながら、二人に頭を下げると、毛人えみしは大きな咳払いをして鋭い眼差しを向けいさめるように言った。


 「秦様、くれぐれもみかどの意向にそぐわぬ行動は慎まれますように。国が乱れますので」


 毛人えみしの言葉はどんな人間が聞いても理解出来るくらいに皮肉めいていたが、秦氏は顔色一つ変えることなく、にんまりとうなずき頭を下げた。彼は拳に力を込め奥歯をキリキリと噛みしめながら、二人が去るまで顔を上げなかった。


 数日が過ぎ、私は部屋の前で薬草庫から持ち出した野草を天日に干していた。五重塔の手前に生えるイチョウの木から黄色の葉がはらはらと風が吹くたびに落ちてくる。落ちた無数のイチョウの葉が地面を覆い、まるで金色の絨毯が一面に敷かれているようで美しかった。私は作業の手を止め立ち上がると、イチョウの葉を拾い始めた。何枚も何枚も。


 突然背後から私を呼ぶ声が聞こえ振り向くと、漢人あやひとが寂しそうに笑いながら立っていた。


 「燈葉とうか様、なぜイチョウの葉を集めているのですか?」


 「布団の上に敷き詰めてフワフワにするのよ」


 私のつまらない冗談を聞いた漢人あやひとは苦笑いをし、一緒に葉を拾い始めた。


 「燈花とうか様、集めた葉をしまっておくのにちょうどいい木箱があります。上質の木箱なのできっと良い状態で保存できるかと」


 漢人あやひとが目を見開き、得意げに私に微笑んだ。私は子供じみていると言い笑ったが、結局漢人あやひとの提案を受け入れた。

 

 子供の頃、菓子箱にガラクタをつめ宝箱のように扱い、木の下に埋めた事を思い出した。あの後、掘り起こしただろうか?記憶がない…まだきっと土の中だろう…


 あっという間に木箱が黄色のイチョウの葉でいっぱいになった。私はそっと蓋をすると、部屋に戻り寝台横の棚に置いた。


 私は残った野草を干し終わると中庭に向かった。橘宮たちばなのみやに来てから毎日ここに来ては朱色に輝く都を見ている。


 昔、橘宮たちばなのみやで暮らしていた時いつも小彩こさとこの東屋の下の石に腰かけ、都を眺めながら桂花茶を飲んだ。あの頃はくだらない話こそ面白くて、時間を忘れて日暮れになるまでよくおしゃべりしたものだ。時を経た今も、飛鳥の都は争いなどとは無縁のように静寂で平穏に包まれているように見える。


 私は瑪瑙めのうの髪飾りを外し石の裏に刻印された文字を見つめた。この石を見るたびに、林臣りんしんと行った難波の海を思い出す。耳の奥でザザァ…ザザァと波の音が聞こえ、潮の香りがどこからともなく漂った。離れてこそ彼を想う。私は目を閉じ水平線に沈む夕日を思い出していた。



 翌日の午後、六鯨むげ漢人あやひとが私の部屋を訪れた。二人とも青い顔をして不安気に立っている。何を言い出すかは察しがついていた。


 「燈花とうか様、…いよいよ朝廷の軍が動き出しそうです…」


 漢人あやひとはためらいがちに言い、うつむいた。六鯨むげもぎゅっと手を下で握ったまま唇を結んでいる。私はかける言葉が見つからずに、漢人あやひとの肩に優しく手を置いた。


 「…そう…遅かれ早かれこうなっていたのよ…仕方ないわ、私達ではどうすることも出来ない…」


 私はそう言い終えると胸を押えた。

 張り裂けそうなほど痛い…。


 「でも、山代王様が…」


 六鯨むげが肩を震わせながら泣き始めた。私を通して、山代王や林臣りんしんと深く関わる事になってしまった二人に申し訳なくて更に胸が痛んだ。


 ついにこの時がやって来たのだ。私はまだ鼻をすすっている六鯨むげを慰めたあと、彼らに墨と木簡を持ってくるように頼んだ。しばらくして二人は戻ってきたが、あいにく木簡も竹簡も切らしているらしく、墨とすずりだけが手渡された。私は二人の手を優しく握りありがとうと告げた。


 二人が部屋を去ると、私は棚の上の木箱を開きイチョウの葉を全て取り出し机の上に並べた。机上いっぱいに広がった葉はまだ新鮮な黄金色で美しかった。私は墨をすり終えるとしばらく考えてから、筆を執った。


 この先は何が起きるかわからない。どうしても今の正直な気持ちを綴っておきたかった。イチョウの葉を一つにまとめ、上から一枚一枚の葉めいいっぱいに、文字を小さくして書き連ねた。


 “林臣りんしん様、念の為この手紙をしたためるわ。あなたが桃林の夜、私に好いていると言った時、私の心の扉が開いた。嵐の中、私をかばい身代わりとなった時、私の心の扉は完全にあなたに向け開いたのよ。私のやってきたことは全て深い愛ゆえのこと。


 今私は、あなたの居ない宮で一人侘しく月を眺め、冷たい風に吹かれてる。けれど私の心の中にいるのはあなただけ。ずっと隠していた秘密を、今更だけど打ち明けるわ。


 私はこの世界の人間ではないの。1400年後の世界からやって来たのよ。あなたが笑いを押し殺して私を見る姿が目に浮かぶけど真実よ。どうか、もう一度、私の願いを聞いて欲しい。山代王様を追い込んではいけない。彼の自害の責任を問われ二年後、板葺宮で行われる三韓の儀であなたの命は奪われる。あなたを陥れる罠だから絶対に行かないで。都を離れどこか遠くに身を潜めて。


 縁があればきっとまた会える。桃林を歩いた先にあなたが居ることを夢見て。私の心をこの石と共にあなたの側に置いていくわ。 燈花”


 私は書き終えると、もう一度じっくりと文章を読み返し、ふと思った。



   まだ間に合うかもしれない…


 一か八か山代王様に会って真実を伝えてみよう…私の正体をちゃんと明かそう、過去の私を良く知る彼ならきっと信じるはず。帝の座をあきらめてくれさえすれば…湖面に落ちた一滴の雫のように、大きな波紋となって運命が変わるかもしれない…


 私は針と刺繍糸を取り出し、イチョウの葉を一枚一枚丁寧に重ね合わせた。一番上から慎重に針を通し、葉がバラバラにならないようにきつく結び木箱の中に入れた。最後に髪から瑪瑙めのうかんざしを抜き一番上に置いて蓋を閉じた。


  私はこの木箱をどうするか悩んだ末、ひとまずイチョウの木の下に埋める事にした。六鯨むげ漢人あやひとに預かってもらっても良かったのだが、内容が内容だけに万が一にも彼らを巻き込んでしまっては大変だ。何事もなければ後から掘り起こして笑い話にすればいい…


 私は木箱を抱えて部屋の外に出た。厚い雲のせいか、夕方にも関わらずあたりはすっかり暗かった。イチョウの木の下にしゃがんだ時、漢人あやひとが松明を持って東門から走ってきた。


 「燈花とうか様!猪手いて様がお見えです!」


 私は木箱を抱えたまま漢人あやひとと一緒に東門へと向かった。かがり火に照らされた猪手いての顔は青ざめ、目は虚ろで疲れがにじみ出ている。


 「燈花とうか様…」


 猪手いてが悲痛な表情で私を見て呟くように言った。


 「宝皇女たからのひめみこ様の命で朝廷の軍が今晩、斑鳩宮いかるがのみやに向かいます…」


 「えっ?今晩?」


 突然すぎる一報に一瞬戸惑ったものの、心の準備は出来ていた。


 「はい、どうやら相手陣営に動きがあったらしく、先手を打つべく宝皇女たからのひめみこ様が出陣を命じられました。一応、燈花とうか様にはお伝えしておいた方が良いと思いまして…」


 猪手いては口ごもり下を向いた。


 「そう…教えてくれてありがとう。あの人は…」


 「若様は向かわれません」


 「…良かった。彼を絶対にこの戦に参戦させないで。絶対に斑鳩いかるがに行かせては駄目よ。お願い約束して」


 私は真剣な眼差しで猪手いての瞳を見つめ声を強めた。彼は一瞬、訳が分からないというように困惑した顔をしたが黙って頷いた。


 「それと…彼はまだ私と山代王様の事を勘違いしているかしら?」


 私が力なく尋ねると、猪手いては顔を曇らせた。


 「…誤解なのに」


 私はフッと笑い、それ以上は聞かなかった。そして手に持っていた木箱に目を向けた。


  そうだ、猪手いてに託そう


 イチョウの木の下に埋めようと思ったが、よくよく考えれば、これから斑鳩いかるがに向かう私の身に万が一何か起これば、この木箱は人知れず永遠に土の中に眠ることになる。そんなのは御免だ…林臣りんしんへの想いがつまったこの木箱を彼に届けたい。私は抱えていた木箱を猪手いてに差し出した。


 「これをあの人に渡して頂戴。きっと誤解が解けるはずだから…でも、もし私を信じられず受け取らなかったら…」


 私は口をつぐんだ。その先の言葉が言えなかった。屋敷を去ったあの日の、愛憎入り混じる彼の顔が浮かび、切なさと悲しみが胸に込み上げた。心臓がズキンズキンと痛む。立っているのが精一杯だ。私の沈痛な思いが伝わったのか、猪手いては涙ぐみながら黙ってうなずき木箱を受け取った。


 「…ここなら警備が厳重なので安全なはずです。今の状況が落ち着けば、必ず若様が迎えにこられます。それまではどうかご無事でいてください…もうしばらくの我慢です」


 私が沈んだ顔でうなずくと、猪手いては名残惜しそうに何度も振り返りながら宮を去っていった。




 東の空が白んできた頃、私は身支度を整え橘宮たちばなのみやを抜け出した。警備が厳重な中、馬屋から馬を連れ出すことは出来ない。斑鳩いかるがまでは約20キロ。歩いて行くとなるとおおよそ5時間、早歩きならもっと早くに着くはず…間に合えばいいのだけど…


 飛鳥川沿いを歩き始めてすぐに、私は足を止め振り返った。六鯨むげ漢人あやひとに直接礼を言えぬまま宮を出てきてしまった事が悔やまれた。でもきっとまた彼らの笑顔を見れるはず。またこの場所に戻って来る…


 私は橘宮たちばなのみやに向かい頭を下げると、再び前を向き歩き始めた。

 

 





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