第41話 愛は悔やまず
私は
目が覚めるたびに、彼が側にいないかと確認する。明るい太陽の下にも、青白い月明かりの中にもその姿はなく時間だけが過ぎた。
なんて孤独なのだろう。王妃の信頼を失い、
数日が過ぎたある日の午後、
「
「
彼のただならぬ様子に困惑していた。
「そ、それが、一大事なのです」
「
「えっ…?」
私は突然の報告に唖然とし聞き間違えたとさえ思った。私が言葉を発する前に、
「山代王様が
「なんのために、、」
私は頭の回らないまま、独り言のようにボソリと呟いた。
「挙兵するつもりなのです」
「挙兵⁈で、でも先日の話し合いからまだ日が経っていないのに、なぜ心変わりを…」
私が困惑しながら
「なぜか、奇妙な事に
「勅旨?」
「はい、王族の私有民である
私は息をのんだ。
そうだ、思い出した…この
私が固まったように口を閉ざすと、
「遅くても十日か、早ければ数日のうちに軍勢を率いて、都にやってくるかと…」
「そ、そんな…」
頭が真っ白になり何も思考が働かない。
「若様より、外は危険なのでこの屋敷から一歩も出ないようにと仰せつかりました。すぐに警護の兵をよこし屋敷を守らせるそうです」
「そ、そんな…なぜ、そんな事に…」
全身の力が抜けた私は膝から崩れ落ちるようによろけた。
外から駆けつけて来た彼の手よりも私の手の方が冷え切っている。私の体に血は流れているだろうか、、少しでも気を抜いたら記憶が飛んでいきそうだ。ガタガタと震え始めた体を両手で抱きしめた。
「
「大丈夫よ。今、混乱した朝廷では彼が必要よ。なんとか戦を避ける策をださないと…あなたももう行って」
私は
「さぁ、もう行って」
いつのまに部屋に戻ったんだろう、食事も取らずに寝てしまった。朝になり外からガヤガヤと人の声が聞こえた。
私の中で緊張が走った。恐れていた事が歴史書の通りに進んでいく。私は大きく息を吐きゆっくりと戸を閉めた。
私は再び布団の中に入ると目を閉じた。
暗闇の中でどこまでも彷徨う。私はいったいどこに帰ればいいのだろう…
昼近くになり厨房で煎じ薬を作っていると、外から男の怒鳴り声が聞こえ慌てて庭に飛び出した。庭門の前で警護の男達が誰かを囲んで大声を上げている。目を細めて見ると
彼はまだ緊張した面持ちで顔を歪めている。手には太い木の枝を持っていることから、警護の男達と一戦交える覚悟で来たことがわかった。
「
彼のただならぬ様子を見た瞬間に、悪い知らせだと察しがついた。
「
「
思いがけず彼女の名前を聞いた私は大いに混乱し動揺した。
「それが、刑部省の連中に連れていかれたのです」
「連れて行かれた⁈どうゆう事なの⁈分かるように話して」
私はまるで自分を落ち着かせるかのように
「はい、実は明け方、突然
「そんな馬鹿な…彼女は悪事を働くような人間じゃないわ。あなたも分かるでしょう?」
「もちろんです。しかし連行したお役人の話だと朝廷に混乱を招き、国家を陥れるような謀を企てた反逆罪に該当すると…」
「反逆罪ですって?そんな訳ないでしょう?きっと何かの間違いよ」
私は少しの間、下を向き考え大きく深呼吸したあと、
「今から刑部省の牢屋に行き彼女を解放するわ、耳成山のたもとでしょ?でも先に
と、言い
「そ、それが
「り、
私が信じられないという風に眉根を寄せると、
「私も大変驚いたのです…なので思い切って
「なんですって…」
頭を思い切り殴られたような感覚だった。
「彼女はどうなるの?」
「反逆罪となると審議を待たず、すぐに処刑されるかと…」
私は言葉を失った。息をしているだろうか…全身から力が抜けていく…
「それと、役人に捕まる前に
私はよろよろと縁側の端に座ると、渡された木簡を開いた。並んだ文字を見て胸が張り裂けそうになる。
“
木簡がカラカラと音を立てて手からすり落ちた。彼女の焦る様子が浮かぶようだった。捕まる直前に命からがら
溢れた涙が頬を伝わり無数の雫となって風に乗って飛んでいく。私は意識が遠のきその場に倒れ込んだ。
誰かが私の頬を撫でている。愛しい子供を撫でるかのような温かくて優しい手だ。思わず声を上げ目を開けた。
「母さん…」
目の前で寂し気に私を見つめる
私は、「どうして…」
と言って彼の体を押しのけた。彼が再び私の体を起こそうとしたので、
「あっちへ行って!」
と泣きながら叫んだ。彼は悲しい顔をして私の体から手をどけた。
「どうして
私は愛増が入り混じった声で叫んだ。彼が暗い表情のまま口をひらく。
「
「えっ…ちょっと待って!お願い彼女を助けて!彼女は悪くないわ!」
私はすがるように
「誰の命なのかわからぬが、加担せずに済んだはずなのに彼女はあえて、自らそうする道を選んだのだ。私だけの判断ではない。朝廷及び
私は呆然としたまま
どうあがいても運命を避けられない…
私は絶望の中、部屋の中に差し込む夕陽を眺めていた。
なんとしても
私は日が完全に沈んだあと身支度をし、こっそり裏庭の柵の隙間から屋敷を抜け出した。小さな灯籠の灯りが消えないことを祈りながら耳成山のたもとに向かった。
晩秋の冷たい夜風が容赦なく私の体に吹きつける。淡い記憶を頼りに耳成山へと続く道を歩く。幸運な事に暗い夜道でも耳成山のシルエットがうっすらと見える。何度も見据えては気持ちを奮い立てた。
遠くにかがり火の灯る小屋が見える。すぐ近くには柳の木があり葉が風に吹かれユラユラと揺れている。あの小屋が牢屋で間違いないだろう。
私は、息をひそめながらこっそり近づき小屋の中を覗いた。小さなかがり火の中、壁にうなだれる
「
声に気が付いた彼女が顔を上げた。
「
私は彼女のいる柵へ行くと、伸びてきた彼女の両手を包み込むように触り微笑んだ。手首に巻かれた綱が擦れたのか、赤く腫れあがっている。私は涙を流しながら彼女を見つめた。
「
随分とやつれてしまった彼女の目は光を失い、絶望の淵を彷徨うようにどこか焦点が合っていない。
「どうしてこんな事に…」
私が声を押し殺してすすり泣くと、
「
彼女も涙を流し何度も頭を下げた。私は、
「
私は持ってきた小刀で彼女の手首の縄を切ると柵を開け外に連れ出した。
「そんな事できません。私の罪なのです」
私は彼女の口を片手で押さえて言った。
「駄目よ。あなたを逃がすわ。あなたが窮地の時は必ず助けると心に決めていたのよ」
私は無理やり彼女の腕を引っ張り戸口へと向かった。目の前の戸が開き門番の男が松明の火で私達を照らし声を上げた。男の後ろに明かりに照らされた
つないでいた手がゆっくりと離れていく、その瞬間、彼女は柵の中へと再び連れ戻された。私はハッと我に返ると泣きながら大声で彼女の名を叫んだ。
「
「
彼女の悲痛な声が背後で聞こえ、私は後からきた
「あなたの寵愛を受けていると信じていたのに!私の願いは叶えてくれないのね!彼女は妹同然なのに!」
馬車の中から大声で吐き捨てるように言うと
心臓に激痛が走り、そこで私の意識は途絶えた。生きる気力もない。体調は悪化し高熱で朦朧としたまま数日が過ぎた。
チュンチュン、チュンチュン
冷たい風がそっと頬を撫でる。風に乗り入って来た黄色のイチョウの葉が一枚天井を舞っていた。
「
彼女からの返事はない。ふっと我に返る。私は腕で顔を覆った。
そうだった…
ハアッッ!!
大声を上げ目を開けた。すぐに部屋の戸が開き
「
「私、どれくらい眠ってた?」
「四日目になります」
「四日も?私、確か
私は曖昧でぼんやりとした記憶をたぐりよせながら話を続けた。
「
私は唇を噛みしめ
「
私はかすれた声で恐る恐る
「
「本当の事を申し上げますから!やめてください!」
「
「…生きてる?」
私は荒い呼吸のまま、顔を上げた。
「はい、若様は最初から
私は両手で口を押さえた。
「牢屋番の男に多額の口止め料を払い、若様はこっそりと彼女を逃し、河内にある尼寺に尼僧としてかくまうように頼んだのです。
私は
私は嗚咽を上げた。胸が張り裂けるように痛い。
私は縁側に座り直しぼんやりと
最後に彼と話したのは、あの牢屋の前…
きっとまだ怒っているだろう。私の顔なんてもう見たくないかもしれない。刺されたような胸の痛みが走る。苦しくて苦しくて両手で胸を押えうずくまった。
それから数日が過ぎたが、いまだ都は気味が悪いほど静かだ。私は
馬車は甘樫丘を下り、飛鳥川沿いをゆっくりと進んだ。途中私は、薬草庫に立ち寄って欲しいと馬夫に告げた。念のため、切り傷などに効く野草があれば手元に置いておきたいと思ったからだ。馬夫は少し顔を曇らせだか、私は無理を通した。
がたいのいい体、黄ばんだ顔、頑固そうな表情。そう
「あなた、
彼は黙ったまま軽く頷いた。私は握った拳に再び力を込めると、奥歯を噛みしめ言った。
「よくも
私は思い切り
「何を仰っているのかわかりませんが…」
と薄ら笑った。私はくっと顎をあげ彼を見据えた。
「ねぇ、聞きたいのだけど中臣家は代々、神事や祭祀をつかさどる神官の家柄よね。この倭国に古来から存在する神々に祈りを捧げ安寧を一心に祈ってきた神道の一族よ。それなのに何故あなたは異国である百済救援を画策したり仏教を篤く重んじるのかしら?」
「知ってる?昔、まだ先帝の時に百済王族の皇子二人が人質として倭国に渡ってきたらしいわ、兄の名は
「あなた、言葉をあまり人前で発しないわね。喋るのが苦手なの?それとも倭国の言葉の発音は難しい?」
私はそう言い終わると、ギロっと
だんまりを決め込むのね、卑怯者。私は唇を噛みしめ袖下から
「何度もこれを読んで、後悔と罪悪感に身を焼かれながら一生苦しめばいいわ」
彼は遠くを見つめたままこちらを見ない。ただこめかみが脈打っているのがわかった。私はフンとあざ笑い背を向けた。
私は背筋をしゃんと伸ばして薬草庫に向かって歩いた。いつもよりも堂々と、凛々しく。
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