第41話 愛は悔やまず

 私は林臣りんしんが屋敷を去ったあの日から体調を崩し、床に伏せている時間が多くなっていった。しぼった梨の汁を飲むが、喉の痛みも咳もいっこうに良くならなかった。


 目が覚めるたびに、彼が側にいないかと確認する。明るい太陽の下にも、青白い月明かりの中にもその姿はなく時間だけが過ぎた。


 なんて孤独なのだろう。王妃の信頼を失い、小彩こさは自分の道を進み、林臣りんしんは去った。私は縁側に座り冷たい風に揺れる山茶花の蕾をぼんやりと見ていた。


 数日が過ぎたある日の午後、猪手いてが血相を変えてやってきた。


 「燈花とうか様、一大事です!」


 猪手いては大声を上げながら庭門を開けると、縁側に座る私に向かい手を大きく振りかざしながら駆けてきた。私はすぐに立ち上がり、彼のもとに向かった。彼は私の目の前に来ると両手を膝につきゼェゼェと咳き込んだ。私は彼の背中をさすりながら、


 「猪手いて、何があったの⁈」


 彼のただならぬ様子に困惑していた。


 「そ、それが、一大事なのです」


 猪手いては手を胸に当て懸命に上がった息を整えている。額にびっしょりとかいた汗を袖で拭くと、顔をひきつらせながらこちらを見た。


 「燈花とうか様、近いうちに戦が始まるかもしれません」


 「えっ…?」


 私は突然の報告に唖然とし聞き間違えたとさえ思った。私が言葉を発する前に、猪手いてが早口で話を続けた。


 「山代王様が斑鳩宮いかるがのみや周辺で兵を集めているそうです」


 「なんのために、、」


 私は頭の回らないまま、独り言のようにボソリと呟いた。


 「挙兵するつもりなのです」


 「挙兵⁈で、でも先日の話し合いからまだ日が経っていないのに、なぜ心変わりを…」


 私が困惑しながら猪手いてを見ると、彼もまた同じ表情をして答えた。


 「なぜか、奇妙な事にみかどの印が押された勅旨が山代王様のもとに届いたのです」


 「勅旨?」


 「はい、王族の私有民である乳部みぶの民を蘇我家の墳墓造営に為に徴発するという内容のものだそうです」


 私は息をのんだ。


 そうだ、思い出した…この乳部みぶの民の徴発の件が原因となり、これに猛反発した山代王一族が討伐されるんだった…なぜ思い出せなかったんだろう…


 私が固まったように口を閉ざすと、


 「遅くても十日か、早ければ数日のうちに軍勢を率いて、都にやってくるかと…」


 「そ、そんな…」


 頭が真っ白になり何も思考が働かない。


 「若様より、外は危険なのでこの屋敷から一歩も出ないようにと仰せつかりました。すぐに警護の兵をよこし屋敷を守らせるそうです」


 「そ、そんな…なぜ、そんな事に…」


 全身の力が抜けた私は膝から崩れ落ちるようによろけた。猪手いてがすかさず私の体を支え縁側に座らせた。


 外から駆けつけて来た彼の手よりも私の手の方が冷え切っている。私の体に血は流れているだろうか、、少しでも気を抜いたら記憶が飛んでいきそうだ。ガタガタと震え始めた体を両手で抱きしめた。


 「燈花とうか様、顔色が悪いようですが大丈夫ですか?若様にすぐに伝えてまいります!」


 猪手いては不安そうに言うと、着ていた上着を私の体に被せた。


 「大丈夫よ。今、混乱した朝廷では彼が必要よ。なんとか戦を避ける策をださないと…あなたももう行って」


 私は猪手いてに手を振り、帰るようにと促した。最後に林臣りんしんは大丈夫なのかと尋ねると、彼は今にも泣き出しそうな表情をしてうつむいた。板挟みになった彼の心情を思うと申し訳なかった。私はそれ以上詮索するのをやめ、軽く微笑むと彼の肩にそっと手を置いた。


 「さぁ、もう行って」


 猪手いては何度も振り返り去っていった。


 猪手いてを帰らせたものの、体が微塵も動かない。覚悟していたはずなのに、突然動き出した運命を受け入れる事が出来ない。どうすればいいのかもわからない。自分の無力さを感じながら日が沈むまで縁側で途方に暮れた。


 いつのまに部屋に戻ったんだろう、食事も取らずに寝てしまった。朝になり外からガヤガヤと人の声が聞こえた。林臣りんしんが帰ってきたのだろうか?そっと戸の隙間から庭を見ると武装した護衛らしき男達が集まっていた。よりすぐって強そうな容姿だ。そのうちの何人かは、甲冑をつけ、弓矢、皮楯を持っている。彼らはひそひそと何かを話した後、屋敷を囲むように散らばっていった。


 私の中で緊張が走った。恐れていた事が歴史書の通りに進んでいく。私は大きく息を吐きゆっくりと戸を閉めた。


  林臣りんしん様に会いたい…


 私は再び布団の中に入ると目を閉じた。


 暗闇の中でどこまでも彷徨う。私はいったいどこに帰ればいいのだろう…



 昼近くになり厨房で煎じ薬を作っていると、外から男の怒鳴り声が聞こえ慌てて庭に飛び出した。庭門の前で警護の男達が誰かを囲んで大声を上げている。目を細めて見ると六鯨むげが、男達に囲まれている。ギョロギョロと互いが睨み合う中、彼は顔中にびっしょりと汗をかき険しい表情をして立っている。私は急いで庭門に向かうと警護の男達を下がらせ、六鯨むげを庭の中へと入れた。


 彼はまだ緊張した面持ちで顔を歪めている。手には太い木の枝を持っていることから、警護の男達と一戦交える覚悟で来たことがわかった。


 「六鯨むげさん…」


 彼のただならぬ様子を見た瞬間に、悪い知らせだと察しがついた。


 「燈花とうか様、た、大変な事態なのです、こ、小彩こさが…」


 「小彩こさがどうしたの?彼女に何かあったの?」


 思いがけず彼女の名前を聞いた私は大いに混乱し動揺した。


 「それが、刑部省の連中に連れていかれたのです」


 「連れて行かれた⁈どうゆう事なの⁈分かるように話して」


 私はまるで自分を落ち着かせるかのように六鯨むげに言った。


 「はい、実は明け方、突然小彩こさ橘宮たちばなのみやにやって来たのです、青白い顔で髪は乱れ、凄く切羽詰まった感じで様子がおかしかったのです。すぐに刑部省の役人達がやってきて小彩こさに縄をかけました」


 「そんな馬鹿な…彼女は悪事を働くような人間じゃないわ。あなたも分かるでしょう?」


 「もちろんです。しかし連行したお役人の話だと朝廷に混乱を招き、国家を陥れるような謀を企てた反逆罪に該当すると…」


 六鯨むげが小さな声で答えた。


 「反逆罪ですって?そんな訳ないでしょう?きっと何かの間違いよ」


 私は少しの間、下を向き考え大きく深呼吸したあと、


 「今から刑部省の牢屋に行き彼女を解放するわ、耳成山のたもとでしょ?でも先に林臣りんしん様に伝えた方がいいかも…」


 と、言い六鯨むげを見た。彼はためらいながらバツが悪そうに口を開いた。


 「そ、それが燈花とうか様…大変申し上げづらいのですが…刑部省の役人と一緒に…そ、その…林臣りんしん様もいらしたのです…」


 「り、林臣りんしん様が?何故彼が?」


 私が信じられないという風に眉根を寄せると、六鯨むげが恐る恐る思い出すように答えた。


 「私も大変驚いたのです…なので思い切って林臣りんしん様に尋ねたんです。何かの手違いではないかと。そうしましたら黙って首を振りました。小彩こさ林臣りんしん様の命で捕らえられたのです」


 「なんですって…」


 頭を思い切り殴られたような感覚だった。


 「彼女はどうなるの?」


 「反逆罪となると審議を待たず、すぐに処刑されるかと…」


 私は言葉を失った。息をしているだろうか…全身から力が抜けていく…


 「それと、役人に捕まる前に燈花とうか様に渡してほしいと小彩こさから木簡を預かりました」



 六鯨むげは辺りを見回し警護の男が見ていない事を確認すると、隠すように袖の下から木簡を取り出し私の手にもたせた。そして私に頭を下げると、唇を結び今にも泣きそうな顔をしながら去っていった。


 私はよろよろと縁側の端に座ると、渡された木簡を開いた。並んだ文字を見て胸が張り裂けそうになる。



 “ 燈花とうか様、どうかお許しください。もうだいぶ前から燈花とうか様に心に秘めた想いを打ち明けたいと思っておりましたが、その機会も得られずこの世を去る事になりそうです。鎌足かまたり様を長年お慕いしておりました。卑しい身分の為、彼の愛を得ることはできませんが、きっと燈花とうか様なら理解してくださることでしょう。私は愛に走ったただの愚か者です。でも後悔も恨みもありません。どうか私の事で心を痛めることのないよう。  小彩こさ


 

 木簡がカラカラと音を立てて手からすり落ちた。彼女の焦る様子が浮かぶようだった。捕まる直前に命からがら橘宮たちばなのみやまで来て信頼できる六鯨むげに手渡したのだろう。この時初めて彼女が字の読み書きが出来ることを知った。


 小彩こさ…これで分かったわ。なぜあなたがどこにも嫁がなかったのか、私に林臣りんしんとの愛を大切にしてほしいと、あれほど強く願ったのかも…


 溢れた涙が頬を伝わり無数の雫となって風に乗って飛んでいく。私は意識が遠のきその場に倒れ込んだ。



 誰かが私の頬を撫でている。愛しい子供を撫でるかのような温かくて優しい手だ。思わず声を上げ目を開けた。


 「母さん…」


 目の前で寂し気に私を見つめる林臣りんしんの顔があった。彼の顔を見た瞬間、会えなかった切なさはどこかへ消え、強い憤りで涙が溢れた。


 私は、「どうして…」


 と言って彼の体を押しのけた。彼が再び私の体を起こそうとしたので、


 「あっちへ行って!」


 と泣きながら叫んだ。彼は悲しい顔をして私の体から手をどけた。


 「どうして小彩こさを捕まえたの?」


 私は愛増が入り混じった声で叫んだ。彼が暗い表情のまま口をひらく。


 「小彩こさはわざと斑鳩宮いかるがのみや古人皇子ふるひとのみこの皇位の噂を流し、山代王様を焚きつけた…二度もだ。一度目はなんとか争いを避けられたが、今回はみかどの印が押された偽の勅旨を斑鳩宮いかるがのみやに届け国を大混乱に陥れたのだ。いくら偽りだと言ったところで、山代王様はもう朝廷の話などに耳を傾けない。武力争いは避けられないし、捻じれ絡まった糸はもうほどけぬ。山代王様は近いうちに兵を挙げて都にやってくるはずだ。もう誰も止められない。小彩こさにはこの大罪の代償を払ってもらう」


 「えっ…ちょっと待って!お願い彼女を助けて!彼女は悪くないわ!」


 私はすがるように林臣りんしんを見た。


 「誰の命なのかわからぬが、加担せずに済んだはずなのに彼女はあえて、自らそうする道を選んだのだ。私だけの判断ではない。朝廷及びみかどの意向だ。犯してしまった大罪を前にもうどうすることも出来ない。仕方のない事だ…あきらめなさい、それよりもそなた体調を崩しているだろう?休んでくれ」


 私は呆然としたまま林臣りんしんが部屋を出ていくのを見ていた。手足がみるみる冷たくなっていく。目の前の視界も黒く小さくなりまた意識が遠のいていく。私は目を閉じ手を固く握った。


 どうあがいても運命を避けられない…


 私は絶望の中、部屋の中に差し込む夕陽を眺めていた。小彩こさと過ごした飛鳥での日々が走馬燈のように頭をよぎる。


 なんとしても小彩こさを助けたい。今まで何度も彼女に励まされ勇気づけられた。彼女なしでは今の私は居ない。彼女と交わした姉妹の情は、この飛鳥の生活を乗り切るための灯火だった。私が刑部省に捕まった時も、彼女は危険を顧みず私の牢屋を尋ねてきた。


 林臣りんしんの寵愛を受ける私なら、どんな事からも彼女を守ってあげられると思った。でも、今その彼が彼女を葬ろうとしている。


 私は日が完全に沈んだあと身支度をし、こっそり裏庭の柵の隙間から屋敷を抜け出した。小さな灯籠の灯りが消えないことを祈りながら耳成山のたもとに向かった。



 晩秋の冷たい夜風が容赦なく私の体に吹きつける。淡い記憶を頼りに耳成山へと続く道を歩く。幸運な事に暗い夜道でも耳成山のシルエットがうっすらと見える。何度も見据えては気持ちを奮い立てた。


 遠くにかがり火の灯る小屋が見える。すぐ近くには柳の木があり葉が風に吹かれユラユラと揺れている。あの小屋が牢屋で間違いないだろう。


 私は、息をひそめながらこっそり近づき小屋の中を覗いた。小さなかがり火の中、壁にうなだれる小彩こさの横顔が見えた。辺りを見回したが運良く見張り番は居ない。私は音を立てずに静かに小屋の中へと入った。


 「小彩こさ小彩こさ?」


 声に気が付いた彼女が顔を上げた。


 「燈花とうか様?燈花とうか様ですか?」


 私は彼女のいる柵へ行くと、伸びてきた彼女の両手を包み込むように触り微笑んだ。手首に巻かれた綱が擦れたのか、赤く腫れあがっている。私は涙を流しながら彼女を見つめた。


 「小彩こさ、あなたなのね」


 随分とやつれてしまった彼女の目は光を失い、絶望の淵を彷徨うようにどこか焦点が合っていない。


 「どうしてこんな事に…」


 私が声を押し殺してすすり泣くと、


 「燈花とうか様、本当にごめんなさい、本当にごめんなさい」


 彼女も涙を流し何度も頭を下げた。私は、


 「小彩こさ、ここから出すから遠くに逃げるのよ。もう都には戻ってこないで」


 私は持ってきた小刀で彼女の手首の縄を切ると柵を開け外に連れ出した。


 「そんな事できません。私の罪なのです」


 私は彼女の口を片手で押さえて言った。


 「駄目よ。あなたを逃がすわ。あなたが窮地の時は必ず助けると心に決めていたのよ」


 私は無理やり彼女の腕を引っ張り戸口へと向かった。目の前の戸が開き門番の男が松明の火で私達を照らし声を上げた。男の後ろに明かりに照らされた林臣りんしんの姿が見えた。暗い顔をしてこちらを見つめている。ドラマのワンシーンのようなスローモーションの世界で男が小彩こさの体を押さえつけた。


 つないでいた手がゆっくりと離れていく、その瞬間、彼女は柵の中へと再び連れ戻された。私はハッと我に返ると泣きながら大声で彼女の名を叫んだ。


 「小彩こさ!!」


 「燈花とうか様!」


 彼女の悲痛な声が背後で聞こえ、私は後からきた猪手いてに体を押えられ無理やり馬車へと乗せられた。


 「あなたの寵愛を受けていると信じていたのに!私の願いは叶えてくれないのね!彼女は妹同然なのに!」


 馬車の中から大声で吐き捨てるように言うと林臣りんしんは黙ったまま悲しみに満ちた目で私を見つめた。


 心臓に激痛が走り、そこで私の意識は途絶えた。生きる気力もない。体調は悪化し高熱で朦朧としたまま数日が過ぎた。


 チュンチュン、チュンチュン


 冷たい風がそっと頬を撫でる。風に乗り入って来た黄色のイチョウの葉が一枚天井を舞っていた。橘宮たちばなのみやでの日々をを思い出していた。


 「小彩こさ、水をちょうだい。喉が渇いて…」


 彼女からの返事はない。ふっと我に返る。私は腕で顔を覆った。


 そうだった…小彩こさはここにはいない…近江皇子おうみのみこのお屋敷で給仕の仕事を…いや違う、、、


       ハアッッ!!


 大声を上げ目を開けた。すぐに部屋の戸が開き猪手いてが心配そうに私の顔を覗き込んだ。


 「燈花とうか様、意識が戻られたのですね、良かった…」


 猪手いては顔をクシャクシャにして涙を流した。彼はすぐに厨房に向かうと水を持ってきた。冷たい水が体中にしみわたる。まだ熱を帯びた体にはちょうど良かった。弱々しい声でありがとうと伝えると、猪手いては溢れた涙を袖で拭いた。


 「私、どれくらい眠ってた?」


 「四日目になります」


 「四日も?私、確か小彩こさに会いに…そうだわ、耳成山に行ったのよ…」


 私は曖昧でぼんやりとした記憶をたぐりよせながら話を続けた。


 「小彩こさが牢屋に繋がれて…助けたかった…けど…あの人が許さなかった…」


 私は唇を噛みしめ猪手いてを見ると、彼は悲しそうに下を向いた。


 「小彩こさはどうなったの?もう…」


 私はかすれた声で恐る恐る猪手いてに尋ねた。彼は黙ったまま目を伏せている。私はゆっくりと起き上がるとよろよろとした足取りで部屋を出た。猪手いてが後ろから必死で止めにきたが、私は彼の手を振り払い裸足のまま庭に出ると干し竿にかかっていた林臣りんしんの衣を土の上に投げつけた。私はそのまま庭にしゃがみこみ、額を何度も土の上に打ちつけた。


 「燈花とうか様、お、おやめください!!どうか落ち着いてください!!」


 猪手いての乾いた声があたりに響き渡る。小彩こさを考えたら額の痛みなど取るに足らない。猪手いての声など聞こえなかった。


 「本当の事を申し上げますから!やめてください!」


 猪手いてが私の体を押さえ泣きながら訴えた。


 「小彩こさは無事です。生きています!」


 「…生きてる?」


 私は荒い呼吸のまま、顔を上げた。猪手いては覚悟を決めたように、唾を飲み込むと口を開いた。


 「はい、若様は最初から小彩こさを処刑する気などなかったんです。事前に玖麻くま様に頼み、流行り病で死んだ女人の遺体を用意して、小彩こさが牢屋で自害したように見せかけてすり替えたあと朝廷に差し出したのです」


 私は両手で口を押さえた。猪手いてが訴えるように話を続ける。


 「牢屋番の男に多額の口止め料を払い、若様はこっそりと彼女を逃し、河内にある尼寺に尼僧としてかくまうように頼んだのです。燈花とうか様に伝えなかったのは、若様が互いの存在を知らぬ方がお二人にとって安全で最善の策と考えたからです」


 私は猪手いての言葉を聞き、体の力が抜けその場にへたへたとしゃがみ込んだ。


 小彩こさは生きてた、良かった…でも私、事情も知らず彼に酷い言葉をぶつけてしまった…


 私は嗚咽を上げた。胸が張り裂けるように痛い。林臣りんしんの深い愛を疑った自分はなんて情けない薄情な人間なのだろう。彼に愛されてるって知っていたはずなのに、、



 私は縁側に座り直しぼんやりと林臣りんしんの上着を見つめていた。


 最後に彼と話したのは、あの牢屋の前…小彩こさと離れ離れになった時だ。私が怒鳴っている間、彼は寂しげに私を見ていた…


 きっとまだ怒っているだろう。私の顔なんてもう見たくないかもしれない。刺されたような胸の痛みが走る。苦しくて苦しくて両手で胸を押えうずくまった。


 それから数日が過ぎたが、いまだ都は気味が悪いほど静かだ。私は猪手いての提案で警備がより厳重な橘宮たちばなのみやで過ごす事になった。全ての荷造りを終えた所で、ちょうど馬車が庭門前に到着した。住人の居なくなった林臣りんしんの屋敷は、風に吹かれた戸がカタカタと鳴り、一層侘しさが増して見えた。


 馬車は甘樫丘を下り、飛鳥川沿いをゆっくりと進んだ。途中私は、薬草庫に立ち寄って欲しいと馬夫に告げた。念のため、切り傷などに効く野草があれば手元に置いておきたいと思ったからだ。馬夫は少し顔を曇らせだか、私は無理を通した。


 槻木広場つきのきのひろばを抜け薬草庫の正面にゆっくりと馬車が止まり、私は用心しながら降りた。ふと見渡すと見覚えのある男が西門の横で壁にもたれかかっているのが見えた。


 がたいのいい体、黄ばんだ顔、頑固そうな表情。そう中臣鎌足なかとみのかまたりだ。突如怒りが沸々と込み上げ、体がブルブルと震え始めた。私は体の向きをくるりと変えると彼に向かい歩いた。馬夫が後ろから叫んでいたが、私は聞こえないふりをして真っすぐ西門に向かった。


 鎌足かまたりは近づいて来た私を見て一瞬怪訝な表情をしたが、すぐに思い出したのか気だるそうに軽く頭を下げた。私は彼の前に立つと、しらじらしく話かけた。全てを失った私に怖いものなどなかった。


 「あなた、鎌足かまたりさんよね?近江皇子おうみのみこ様つきの」


 彼は黙ったまま軽く頷いた。私は握った拳に再び力を込めると、奥歯を噛みしめ言った。


 「よくも小彩こさを騙して利用してくれたわね、あなたのせいで彼女死んだわよ」


 私は思い切り鎌足かまたりを睨みつけた。彼は一瞬動揺を見せたが、すぐに


 「何を仰っているのかわかりませんが…」


 と薄ら笑った。私はくっと顎をあげ彼を見据えた。


 「ねぇ、聞きたいのだけど中臣家は代々、神事や祭祀をつかさどる神官の家柄よね。この倭国に古来から存在する神々に祈りを捧げ安寧を一心に祈ってきた神道の一族よ。それなのに何故あなたは異国である百済救援を画策したり仏教を篤く重んじるのかしら?」


 鎌足かまたりは一瞬驚いたように目を見開きこちらを見たが何も言ってこない。私は淡々と話を続けた。


 「知ってる?昔、まだ先帝の時に百済王族の皇子二人が人質として倭国に渡ってきたらしいわ、兄の名は豊璋ほうしょう、弟の名はわからないわ…兄の方は自国に帰ったみたいだけど、弟の方はまだこの国に残ってるらしいわ。まさかこの国の王にでもなるつもりかしら」


 鎌足かまたりは視線をそらしたまま黙っているが、異様なほど目が泳いでいる。私は次の瞬間、確信し嫌味たっぷりに尋ねた。


 「あなた、言葉をあまり人前で発しないわね。喋るのが苦手なの?それとも倭国の言葉の発音は難しい?」


 私はそう言い終わると、ギロっと鎌足かまたりを睨みつけた。彼のふてぶてしい態度から私に返答する気など微塵もないのがわかる。


 だんまりを決め込むのね、卑怯者。私は唇を噛みしめ袖下から小彩こさの木簡を取り出すと、彼の足元に思い切り投げつけた。


 「何度もこれを読んで、後悔と罪悪感に身を焼かれながら一生苦しめばいいわ」


 彼は遠くを見つめたままこちらを見ない。ただこめかみが脈打っているのがわかった。私はフンとあざ笑い背を向けた。小彩こさの純心な愛を考えると涙が込み上げる。


 小彩こさ、心からあなたに願うわ。どうか来世はもっと良い男を好きになって…


 私は背筋をしゃんと伸ばして薬草庫に向かって歩いた。いつもよりも堂々と、凛々しく。





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