第40話 恩と怨のはざまで
数日が過ぎ山代王は兵を引き揚げ
とにかく良かった。冷たい風の吹く中、空を見上げた。紅葉も終わりを見せ、風に飛ばされた無数の枯れ葉が秋空を舞っている。もうきっと霜月に入っているだろう…山代王一族が討伐されるのは確か…
私はゆっくり息を吐きながら立ち上がった。泥がついてしまった
「なんとか、山代王様が聞き入れてくれて良かった。一時はどうなることかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「側近の三輪の諫言がきいたのだ。皇位争いからは退かないという明確な意思表示が目的だったんだろう。ひとまず今回は兵を引き上げたが、いずれ何かの火種があれば次は本気で
「はぁ…慎重に動かなければならぬな。それともいっそのこと襲撃でもして脅してみるか?」
「馬鹿を言うな、戦などになればそれこそ国力の無駄遣いだ」
「しかし
「…その前に説得してみせるさ」
「
「おい、所で
「そうだが…なぜだ?」
「いやぁ、うちの屋敷で働く侍女が可笑しな事を言ってきてな…確か彼女は元来、山代王様のもとに嫁ぐはずだったよな?…でも結局はお前を選んだ…」
「何が言いたいのだ?はっきりせぬやつだな…」
「互いに相思相愛で間違いないな?」
「当然だ」
「うーん…それが、うちで働くその侍女がな、もとは医女だったのだが、先日宮廷の薬草庫で
「
「そうなんだ。私もその侍女の勘違いだろうと問い詰めたが、間違いないと、きっぱり言い張るのだ」
「そんな馬鹿な事はあり得ぬ。万が一会うとしても、必ず私に相談するはず、その侍女の見間違いであろう…」
「そ、そうだよな…ふん、おかしな話だな。忘れてくれ」
「
私は裏庭に現れた彼の姿に全く気が付かず、火鉢の上に置かれた薬壺に向かいフーフーと息を吹きかけていた。
「
「あっ、お帰りなさい。ごめんなさい、丁度手が離せなくて全然わからなかったわ…今日は帰りが早かったのね。お腹空いた?」
慌てて顔を上げた私は、目の前に立つ彼に向け微笑んだ。いつもならすぐにこの場を去る彼が、今日はなぜか唇を結び黙って私を見つめている。
「何をしていたのだ?」
彼が薬壺に視線を落とした。
「あぁ、薬を煎じていたのよ。滋養強壮にとても効果があるみたいなの。ほとんど処理は終わったから後はこのまま蓋をして冷ますわ」
「そうか…」
「今すぐに、食事を用意するから」
いつもと様子の違う彼に違和感を覚えながらも、私は急いで厨房へ向かった。しばらくして彼が暗い顔で厨房に入ってきて私の目の前に立った。手には棚に置いておいた
「
彼の低い声が厨房に響き不安を覚えた。私はとっさに
「えっ?あ、あぁ…この間、
ふと先日、薬草庫で山代王と会った事を思い出した。でもこんな緊迫した状況で山代王が私と会った事を
「それよりも、
私が立ち上がると彼の長い腕が伸び私の腕を掴んだ。
「
「えっ?!」
「私に何か黙っている事はないかと聞いているのだ」
彼の真っすぐな瞳が私をとらえる。
「…もちろん…な、何もないわ…」
衝撃で頭が真っ白になった。バクバクと高鳴る心臓は今にも口から飛び出しそうだ。彼は軽く息を吐くと、
「…そうか、わかった…」
と言い、厨房を去った。私は彼の後ろ姿が見えなくなると柱にもたれ、ずるずると座り込んだ。
どうしよう…何かおかしい。やはり誰かに山代王との密会を見られていたのだろうか?でもそんな事あり得ない、あの時、
やましい事はしていないが彼につまらない誤解をしてほしくない。もっと慎重に動かなければ、、、
こんな時、真っ先に不安を打ち明ける相手は
よくよく考えると彼女が
「秦様、今後はどう動かれますか?」
「ふ~む。大きな一手を打たねばならぬな…どうしたものか…」
秦氏は拳を顎にあてうつむいた。少し沈黙したあと
「秦様、実は今日私の遣いが
「ん?どんな話だ?」
「山代王様が
「
「そのようです」
「ふむ、百済大寺の修復にか?」
秦氏が腑に落ちない様子で眉をひそめると、
「いえ、蘇我家が今後、
「ほほう、それは面白い!
「
「当然だ」
秦氏は口元をほころばせながら大きく頷いた。
翌日、
「
「…えぇ。正直を言えば喉から手が出るほど
「しかし、墳墓の造営ともなるとなるべく多くの人民を使い一気に取り掛かった方が大幅な費用の削減を望めるのではありませんか?」
秦氏がすかさず
「まぁ、それはそうだが、私の力ではあそこの民は勝手に動かせん。王族の私有民だ…」
「そうだな、では私の命ならばどうなのだ?」
「そ、それは、
「そうだな、まずは皇位を諦めてもらったあとに、
宮廷を出た秦氏は西門横で待っていた
「
二人を乗せた馬車は勢いよく走り出した。
数日が過ぎ、私は縁側に座り雲が流れていく様子を見ていた。
もう一度山代王様にお会いしないと…でも私の話はきっと受け入れてもらえない…どうすればいいだろう…そうだ、王妃様と
翌朝、朝の光が差しはじめると、私はすぐに起きて家事を全て終わらせ
「と、
東門で薪を割っていた
「
私が微笑むと、
「はい、とても元気です。
「ところで、今日は何かご用事でございますか?」
「えぇ、そうなのよ。実はお願いがあってきたのだけれど、一番早い馬を貸してもらえるかしら?」
「馬ですか?!今丁度、
「ありがとう。助かるわ」
「これはこれは、
「
「はい、まだまだこの通りピンピンしております」
時を経た今も変わらない彼の屈託のない性格が嬉しくて、吹き出しそうになるのを必死でこらえた。彼は急に恥ずかしくなったのか慌てて腕をひっこめるとバツが悪そうに頭をかいた。
「会えて嬉しいわ」
私が言うと、
いつの間にあなたも私も歳をとったのだろう…
彼の頭の白髪と目元に刻まれたシワを見た時、飛鳥で過ごした長い年月を改めて感じた。そしてどこか、この長い旅路が終わりを迎えているような気がして、言葉にならな想いに胸が詰まった。
「所で馬をご所望だと聞きましたが…」
「そ、そうなの。急で申し訳ないのだけど、長距離走れる馬を貸してほしいの。いるかしら?」
「どちらまで、行かれるのですか?」
「
「
「そうなの、出来れば日暮れまでに戻ってきたいの…」
「今から
「大丈夫よ」
「そ、そうですか…」
「良かった。それと、山代王様の邸宅はどちらかわかる?」
「山代王様のお屋敷ですか?」
「えぇ。ちょっと事情があってね…」
私が声を潜めると事情を察したのか、
「はい、
「そう、助かるわ。ありがとう。このことは秘密にしてくれる?誰にも不要な心配をさせたくないのよ…」
「承知いたしました」
「小振りですが、毛並みもよく従順で忠実な良い馬です」
「立派な馬ね、ありがとう」
「それよりも
「えぇ、ありがとう。気を付けるわ」
私は
なんとか山代王様を説得しないと。せめて遠くに逃げてくれれば、運命が変わるかもしれない…時間稼ぎくらいはできるはず…絶対に山代王様を説得しないと、彼だけの問題ではなく一族もろとも自害する事になる…この事件の主犯格として、いずれ
私は一度屋敷に戻り門番の男に夜遅くに帰る、と伝え再び身を翻した。今まで
運良く道に迷うことなく
キョロキョロとしながら馬を走らせていくうちに、長い松並木の前方に
馬のスピードを緩めそびえ立つ五重塔を見上げ、その圧巻の美しさに息をのんだ。並んで建つ金堂もじっくり見たかったが、呑気に観光に来たわけではない、私は前を向き直し
きっとここが中宮が生前過ごしたという寺なのだろう。私は彼女への思いに馳せながら、あたりをぐるっと見渡した。すぐに北の方角に中宮の寺と見劣りのしない立派な建物が見えた。私は馬を降りると、通りかかりの人を呼び止め山代王の屋敷かどうかを尋ねた。
やはり尋ねた屋敷は山代王のもので、話によると王妃や
私は馬を降りて歩き始めたものの、突如不安に襲われ足を止めた。がむしゃらにここまで来たはいいが、彼女達は私の願いを聞き入れてくれるだろうか?そもそも私と会ってくれるだろうか?よくよく考えてみれば、私は王家の恩をあだで返した裏切り者だ。そして今は蘇我の女だ。彼女らにとって蘇我一族は目の上のたんこぶだろうし、よくは思っていないはず…むしろ憎んでいる可能性だってある。今更遅いが緊張で体はこわばり、額には冷や汗がにじみ出た。
屋敷を囲むように警戒にあたる武装した
門の正面にある建物を通り過ぎ、その後ろに連なるように建つこじんまりとした館に向かって歩いた。戸口の前の土は掘り返され、なでしこや萩の花が均等に植えられている。後宮の王妃の館の前にも同じ花が植えられていた事を思い出し、胸がツンと痛んだ。
私はしばらく戸口の前に立ち覚悟を決めたあと、一歩前へと足を踏み出した。廊下は明るい光が差し込み、所々に藤色の桔梗が生けられている。微かな花の香りが後宮で過ごした日々を鮮明に思い出させた。キューンと胸が痛む。きっとこの切ない思いは生涯私の心から消えないだろう。私は廊下をキシキシと音を立てながら侍女の後ろを歩いた。
廊下の突き当りまで来ると侍女は足を止め、目の前の戸を叩いた。
「王妃様、お連れいたしました」
私は心を落ち着かせ、戸が開くのを待った。
「入りなさい」
懐かしい王妃の声が廊下に響き目の前の戸がスーッとあいた。私は頭を下げたまま数歩進み部屋の中へと入った。王妃が立ち上がり近づいてくるのが分かる。
顔を上げた瞬間、バチンと大きな音がし頬に激痛が走った。目の前で王妃が真っ赤な顔をして目に涙を溜めている。胸の前で握られた拳は小さく揺れ、袖口から細くなってしまった白い手首が見えた。彼女が受けている心労を察した瞬間、刀で心を突かれたような痛みが走った。頬がジンジンと熱くなる中、私は視線を落としたまま王妃に拝礼をした。
「…王妃様、大変ご無沙汰しております」
王妃は小刻みに震えたまま動かない。彼女の溢れた涙がポタポタと床に落ちた。凛とした気高さはそのままだが、すっかり痩せてしまった体に美しい絹の衣が大きすぎる気がしてさらに胸が痛んだ。
王妃が胸を押え口を開いた。
「そなた、どれほど王様を苦しめるのだ。王が何度そなたの為に心を痛め、傷ついたか知っているか?」
私は黙ったまま下を見ていた。王妃の震える声が鋭いナイフのように私の心に突き刺さる。
「私とてそなたを許したかった。王様はそなたを泣く泣く
王妃が嗚咽しながら私の両肩を掴み泣き叫んだ。私は涙をぐっとこらえて唇を噛んだ。
どんなに恨まれても罵倒されても良い。彼女らの穏やかで平和な生活を守りたい。可愛い子供らに囲まれ、山代王と共に末永く幸せに生きて欲しい…
私は拳に力をこめ顔を上げると声を振り絞った。
「王妃様、無礼な私をお許し下さい。僭越ながら時間がないので単刀直入に申し上げます。どうか山代王様に
「何を言う!我らは王家の人間だぞ!何があろうとも最後まで王様を側で支える。
王妃が最後まで言葉を言い終わるかどうかの所で
「王妃様、怒りをお納めください。
王妃は両手で顔を覆いその場に泣き崩れた。
「王妃様⁈誰か居るか!王妃様を寝所にお連れしろ!」
外はもう薄暗く、オレンジ色の夕日があたりを照らしている。そんなに長時間滞在した気はしないが、身も心もクタクタだった。
王家から受けた恩を仇で返した罰をきっと今受けている…当然の報いだ…
私は唇を噛んだ。会話を交わさないまま
「
私はうつむいたまま軽く頷いた。
「王妃様はそなたの事を恨んでなどいない。そなたをとても信頼し好いていたからこそ、その悲しみに打ちひしがれているのだ」
「申し訳ありません」
我慢していた涙が込み上げポタポタと頬を伝って地面に落ちた。
私は彼女の小さくなる後ろ姿を見ながら頭を下げ、おぼつかない足取りでよろよろと納屋に向かった。
自責の念にかられ次々と涙が溢れる。何度も足を止めては袖で目頭を押さえた。でもこれが何かを得る為に何かを手放す代償なのだ。私が選んだ道なのだ。
最後にもう一度後ろを振り返ったが、もう
夕方の日差しが
「
「あっ。旦那様、お戻りですか?」
門番の男が薪を抱えて裏庭から出てきた。
「
「はい、朝どこかに出かけられて、一度戻られましたが、すぐにまたお出かけになりました。帰りが遅くなるとだけおっしゃっておりました」
「そうか…」
(おかしいな、
「どこに行ったか聞いたのか?」
「いえ、急いでいらっしゃるご様子でした…あっ、あと珍しい馬に乗っていました」
門番の男がはっと思い出したように目を大きくして答えた。
「馬だと?」
「はい、とても美しい黒馬です。確か以前に
「さようか。では
「誰かいるか!!」
「これは、
大きな声に驚いた
「久しぶりだな。元気か?」
「あっ、はい…」
突然現れた
「ところで
「はい、いらっしゃいました。なんでも急用らしく、
何の事情も知らない
「馬の手配?…ふーん…やはりここに来たのだな…どこに向かったか知っているか?」
「はい…詳しい事はわからないのですが、
「
「えぇ、他にお連れの方は見えませんでした。あと、とても急いでいるご様子で…」
「…さようか。わかった。ところで
「あっ、丁度出かけており不在です」
「そうか…宜しく伝えておくれ」
「承知いたしました」
(
チュンチュン、チュンチュン
私は、かじかんだ手に息を吹きかけながら静かに庭門の扉を開けた。
結局なんの解決にもならなかった。むしろ火に油を注ぐ結果になってしまったかもしれない…
自分の無力さに失望していた。回らない頭のまま
朝日に照らされた
ザッザッ、、と音がし背後に人が近づいてくる。足音は少し後ろで止まり、私はゆっくりと振り返った。誰なのかはもう分かっていた。
「り、
私は唇を噛み、両手に力を入れ、かまえるように彼を見た。
「……こんな時間に戻ってくるとは、そなたはいったいどこに行っていたのだ?」
「…
分かってる。こんなどさくさ紛れの言い訳なんて通じるはずがない。
「そなた、いつまで私を偽るのだ?」
彼の冷淡な口調を久しぶりに聞いた私は慌てて顔を上げたが、彼の目を直視できずにすぐに目を逸らした。震え始めた手をギュッと握りしめる。
「
「えっ?そ、それは…」
「そなた先日も偽りを申したな…薬草庫でそなたと山代王様が会っていたのを
私は思わず両手で口を押えた。ガタガタと震え始めた体を、感の鋭い
「本当の事を話してくれ…」
「そ、それが…それが…」
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられても、私は口ごもりどうしても本当の事が言えなかった。とても信じてもらえる話ではないし、それに二人に降りかかる残酷な結末を話したら現実になってしまいそうで、心がかたくなに真実を伝える事を拒んだ。
「…話せないのだな…私の知らないところで山代王様との関係は続いていたということか…何も気が付かずに間抜けなのは私だけか…」
彼はくるりと背を向けるとふらふらと歩き始めた。
「
私は声を振り絞り叫んだ。
彼の後ろ姿はあっという間に見えなくなり、一人残された私はひどい疲労感に襲われその場に崩れ落ちた。
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