第39話 一縷の望み
何度目の秋だろうと指を折りながら数える。記憶が正しければ四度目の秋だ。随分と長い間、飛鳥で過ごしている。もはや現代を生きていた自分の存在すらも疑わしい。
私は
“Rinshin
&
Touka”
この刻印をお願いした時、
あの時はアルファベットが分からない彼に対し妙な優越感に浸ったが、今は彼が一生この文字を読めないと思うと切なさが込み上げた。
私は刻まれた二人の名前を見つめた。
このまま時間が止まって欲しい…
私は髪飾りを耳の少し上につけると、近くにあった小さな切り株の上に座った。遠くに薄っすらと生駒山が見える。
カサッカサッ、カサッ、、、
沈んだ心のせいか、誰かが近づく足音にも気が付かなかった。
「わっ!!」
「キャ―――」
突然聞こえた背後の大声に私は悲鳴を上げた。振り返り際に足元に置いておいた籠をひっくり返した。中から苦労して拾い集めた栗がボロボロと転げ出た。
「
顔を上げて見ると、
「はぁ…
妙に頭にきた私は思わず彼に向かい声を張り上げた。彼も予想外の私の反応に驚いたのか目を丸くさせポカンとしている。
「そんなに怒る事か?まさかそなたがそんなに驚くとは思ってなかった…」
彼が地面に転がった栗を拾いながら私の顔を覗き込んだ。寂し気な彼の瞳に思わず目をそらした。彼は何も悪くない…
「すまなかった」
「…いいえ、私が悪いのよごめんなさい。なんだか心の余裕がなくて…あなたの役に立てなくて辛いわ…」
自分の無力さに私は唇を噛みしめた。涙が頬を伝う。
「と、
「ち、違うわ…」
慌てた私が誤魔化すように言うと、
小さなすれ違いはもうここから始まっていたのかもしれない…
数日後、ようやく
男達の横で指を差しながら合図を出している
「
今までの彼女とはどこか雰囲気が違う。久しぶりに会う彼女は美しく輝いていた。髪は綺麗に結い上げられ、小さな金の花があしらわれた
「
私がしげしげと彼女を眺めて言うと、
「えぇ、そうなのです。このような身分不相応な格好をしてしまい、恥ずかしいです…」
「いいえ、とても美しいわ」
「ありがとうございます。もったいないお言葉です」
「あっ、それよりも長旅で疲れたでしょう?中に入って休んで、すぐにお茶をいれるから」
私が屋敷の中に入るように促すと、丁度庭門をくぐる
「
近づく
「今帰ってきたのか?ご苦労だったな。ゆっくり休みなさい」
「ところで
「はい、私共よりも数日早くに
「ふんっ…おかしいな。私のところに最初に報告にくる手はずだったが…
「えぇ、わかったわ」
「さ、
「はい。
「そうなの⁈では早速飲んでみましょう」
と大袈裟におどけてみせた。私達は顔を見合わせ笑いながら部屋へと戻った。
茶葉から上品な花の香りが漂っている。口に含んだ瞬間、ほのかな果実のような甘みとまろやかさが広がりため息をついた。
「わぁ、本当に美味しいわ。なんの茶葉かしら…香りが上品だけど独特ね」
「はい、
「楽しかった?」
「はいそれは、それは、本当に幸せな日々で…あっ、ここでの生活が嫌とかそういう意味ではないのです…」
彼女は慌てて両手を振ると、きまりが悪そうにうつむいた。
「もちろん、わかっているわよ。その
「あっ…これは…」
「これは、今回の同行のお礼にと頂きました…」
「そう、…その衣も?」
「はい…」
「…そう。よく似合っているわ」
私が言うと、
「それと
「もちろん大丈夫よ、
「良かった!ありがとうございます!本当に感謝いたします!」
「それと…今回の斑鳩での話なんだけど…滞在中の出来事を何でもいいから話してくれない?」
「はい、私は宿の厨房でおもに働いていたので詳細はわかりませんが、他の給仕の人達から聞いたお話しでよければ、信憑性はわかりませんが…」
「それでも構わないから教えて頂戴」
彼女の好奇心が集めた情報量と記憶力に感謝だ。私は茶を注ぎ直すと彼女の前に深く腰掛けじっくりと話に耳を傾けた。どんな些細な事も聞き逃したくなかった。話を一通り聞き終えた私は、また思い出した事があれば、すぐに伝えて欲しいと彼女に告げ部屋を下がらせた。
一人になった部屋で再び思う。この運命を避けられないと分かってはいても、ひょっとしたら山代王と
この夜、浅い眠りのせいか何度も何度も寝返りを打っては目が覚めた。暗い天井を見つめては
数日後、
彼女が
「
「
「しかし姉上、
「ふんっ、大袈裟だな」
「いえ、
「ではどうしろというのだ?私が永遠に
「そうではありません…むしろこの機会に
「なに?そなた
「め、滅相もございません。次の
これを聞いた
「ふ~ん、そうかどうやらそなたの考えを誤解していたようだ。
「はい、
「同感だ。聞いたか
少し沈黙が続いたあと
「はい、承知いたしました。では私がもう一度山代王様の説得を試みましょう」
と静かに答えた。
「私共も山代王様のもとを訪れてみます」
「そうしてくれ」
話し合いを終えた
馬車がゆっくりと走り出すとすぐに
「山代王様が
「このままではたとえ山代王様が
「これでいいのだ…策がある」
「策ですか?」
顔を上げた
「誰かこの中で、蘇我一族に通じさらに山代王様の信頼を得ている者を知っているか?」
「一人、その条件を満たす者を知っております」
「その者の口は堅いのか?」
「はい、恐らく私の頼みとあらば拒む事はないかと…」
「そうか、ではその者を
「そんな、偽りの話を流しても良いのですか?」
「実際、偽りの話でもなかろう。蘇我一族は水面下で必ず
「しかし、そんな事をしてしまっては大騒動が起きてしまう可能性が…」
「むしろ騒ぎを起こすのだ。そうすれば腰の重い蘇我一族も何らかの手段を取るだろう。争いの火消しは奴らに任せ、時が来た時にその責任を追及すれば良い」
「えっ?いったいどういう事なのかさっぱりわかりません…」
「山代王様をわざと焚きつけて反乱を起こさせ、そのしりぬぐいを蘇我一族にしてもらうのです。そして時期を見て、彼らに全ての責任を追及、弾劾し我らの帝を擁立するのです。まぁ少し時間はかかりますが一番賢く手堅い方法かと…」
「わ、我らの帝?」
突如目の前に座っていた
都の外れにある
「では、どうされますか?私どものみならず、このままでは、皆様のご都合もさぞ悪くなるのではありませんか?」
興奮した甲高い声が部屋の中に響いた。皆がやれやれと頭を抱えている。
「全く…山代王様には、困ったものだ。あれほど
大臣の一人が言うと、
「きっと一歩も退かないという強い意志を表わしたいのでしょう…しかし随分と手荒に出てくるのですね」
隣にいた官吏が言った。
「もし山代王様が
若い官吏の男が言うと、
「百済との友好関係が破綻になることなど、ありえませんよね?」
また別の官吏の男も声を荒げた。
「待て待て、今は大唐や朝鮮諸国の話をしている場合ではない。なんとか山代王様には
年配の大臣らしき男がたしなめた。
「斑鳩の地に
集まった男達が好き勝手に様々な事を口にしていると、遅れて来た
「みな待たせたな。今から
ピンと張り詰めた空気の中、男達が
「
集まった誰もがこの差し迫る状況を認識し互いに顔を見合っている。この時、
チュンチュン、チュンチュン、
鳥のさえずりが聞こえ空が白んできた。ようやく一晩中続いた会合も解散となり、みなが渋い顔をしながら足早に屋敷を去った。
「後ほど私を訪ねるように…」
「えっ⁈」
驚いた
「
一方、
「父上、いっそのこと一度山代王様に
「
「はい…」
「
「いえ、一度自宅に戻ります。本日の朝議には参加しませんが午後から出席します」
「わかった。遅れるでないぞ」
「はい」
ガタガタ、ガタガタ
冷たい秋風が部屋の中に一気に吹き込んだ。
「
目の前でやつれた顔の
「すまぬ、起こしてしまったか?」
「いえ、私もなんだか良く寝られなくて…疲れたでしょう?何か食べる?」
「いや、そなたの顔が見たくて戻ってきたのだ。さぁ、もう少し眠ろう…」
彼はそういうと私を再び寝かせ自分も隣に横になった。
「一晩中話し合いを?」
「あぁ、でも何も心配いらない。顔をみせて」
「さぁ目をつぶって…昼になったら起こしておくれ…」
すぐにスース―と寝息が聞こえてきた。相当疲れているのだろう、私の呼び声になんの反応も見せない。連日のように公務についている彼の体調が心配だった。私は彼の横顔をじっと見つめた。
なんて綺麗な横顔なのだろう、彼の少しカールの入った長いまつげをこんな風に横から眺めるのが大好きだった。
山代王に会えるだろうか?彼に最後に会ったのは今年の冬、
朝廷の薬草庫にいくのは久しぶりだった。昔、人目を避け何度かあの場所で彼と密会した事を思い出し胸がツンと痛んだ。あの時の二人は婚姻関係にあったが今回は違う。けど彼との友情の絆は固いはず。聞き入れてもらえるかもしれない…そんな一縷の希望を胸に薬草庫に向け歩いた。
いつもは人で溢れごった返している都も静まり返っている。道の途中でも何人もの武装した兵とすれ違った。この事からも都の治安が良くない事がわかる。みな一瞬鋭い視線で私を見て通り過ぎる。
飛鳥川を越えると朝廷の敷地の周りを警護する兵の姿が飛び込んできた。普段朝廷の建物を警護する兵は数名しかいない。ものものしい空気の中、私は背を曲げ下を向きながら足を速めた。
なぜか
良かった…誰にも呼び止められなかった。薬草庫の周りでも医官も医女も見なかった。ホッと胸をなでおろし、数歩前方に歩いた所でドスンと何かとぶつかった。目の前で小男がゴローンと藁の床に転がった。
「イタタ…」
籠が床に転がり中から薬草と生薬が飛び出した。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
私は慌てて男の腕を持った。
「いやぁ…そそっかしい奴め…よく前を見なさい…」
「本当にごめんなさい、ん?」
壁の隙間から差し込んだ淡い太陽の光に
「く、
私が驚き声を上げると、彼も目を丸くし大声を上げた。
「ええっつ?!こ、これは
私は慌てて
「
「あっ、はい。私の頭は石頭でとても頑丈なのでなんともありません」
「それにしても、
「いいえ、そうではないのです。その、
私が胸の前で両手を合わせて言うと
「あぁ~さようでございますか…
「
「構いませんよ。きっと深いご事情がおありでしょうから…私も昔、中宮様に本当に助けらました。生前の中宮様より
「
「いえ、ここ最近の都の情勢が不安定なので今日は医官も医女にも休暇を取らせております。私は数日前に百済から届いた薬草の状態が気がかりだったのでこっそりやってきたのです」
「では、今日はもう誰もきませんね?」
「はい、そのはずです。気になるようなら張り紙を戸に貼っておきましょう」
「助かります」
「それと、丁度良かった。この生薬ですが滋養強壮に非常に優れているのです。ぜひ
「良いのですか?」
「はい、もちろんでございます。
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます」
生薬を受け取ると
どれくらい時間がたっただろうか、日が傾いてきたが山代王はまだ来ない。もしかしたら書簡を受け取っていない可能性もあるし、読んだとしても来ない?来られない可能性もある。来ないなんて考えたくなくて私は顔を横に振った。
すっかり山陰に入った小屋の中に壁の隙間から冷たい風が吹き込んできた。薄着で来てしまった事を後悔しながら体をさすっていると、
コンコン、コンコン、
誰かが戸を叩いた。ゆっくりと戸を開けると、目の前に
「
「
丁寧な口調だが、どこか素っ気ないような事務的な挨拶にズキッと胸が痛んだ。まぁ当然と言えば、当然なのだけど何かを得る為に何かを手放す代償とはきっとこういう事なのだろう…
私は気を取り直し笑顔を向けた。
「
「はい。
「…や、山代王様はいらっしゃった?」
「
戸の向こうから山代王が顔を出した。
「
「承知いたしました」
「
「はい、ご無沙汰しております」
いつもどおりの優しい眼差しの山代王だ。
「朝廷は今、混乱し物騒だというのに侍女も護衛も付けずに一人で来たのか?」
私は黙って頷いた。
「全く
山代王が顔を歪め唇を嚙んだ。
「いえ、
「まったく、そなた相変わらず向こう見ずだな…で、急に私を呼び出すとはどうしたのだ?」
突如緊張に襲われ山代王の問いかけに答えることも顔を上げる事も出来ない。
「どうしたのだ?何か困ったことでも?」
固く握った手が汗ばんでいる。でも今こそ勇気を持って彼に向き合うタイミングだ。飛鳥時代にタイムスリップしてきた最大の目的を果たす為にもこの状況から逃げる事は出来ない。彼が皇位争いから抜ければ全てがうまくいき二人とも助かる可能性がある。私は唾を飲むと覚悟を決め顔を上げた。
「山代王様、無礼を承知で単刀直入に申し上げてもよろしいですか?」
「そこが、そなたの一番の魅力であろう?」
山代王が口の端を上げて笑った。彼のはにかんだ笑顔を見て胸が痛んだ。針が刺さるような痛さだ。今から彼があれほどまでに望んだ皇位の座を諦めるようにお願いするのだから。でもこうしないと彼にも
「僭越ながら申し上げます。山代王様、どうか次期
山代王は唖然とした表情で立ちすくんでいる。彼の顔からは笑顔が消え、驚きと戸惑いが浮かぶ。
「な、何を申すのだ…」
「山代王様、どうかお願いでございます。
私は再び言い額を床につけた。
「
山代王は優しく私の手を取り立たせた。
「そなたが、私がこれほどまでに
彼はため息まじりに寂しそうに私を見た。彼の悲しみに満ちた深い瞳を見続ける事が出来なくて目をそらした。
そうだ…不可解な死を遂げた
「それでも、どうしても諦めて頂きたいのです」
私は彼を見据えて語気を強めて答えた。一歩も退けない…私は唇を噛みしめた。山代王はしばらく眉をひそめ沈黙していたが、私を見つめると諭すように言った。
「
「でも…」
「
山代王が私の言葉を制してきっぱりと言った。私は黙ってうつむいた。
「
山代王が戸を開けると馬のひずめの音と共に
薬草庫の裏戸口の横で隠れるように一人の医女が身を潜めていた。この日、偶然、薬草庫に用事のあった彼女は小屋の中の話し声に気が付き、壁の隙間から二人の様子を目撃していたのだ。山代王が去ったのを確認すると医女は固い表情をして静かにその場を去った。
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