第38話 ざわめく心
難波津の別邸から戻り
溜まっていた洗濯物を洗い終えぼんやりしながら立ち上がった。固く絞ったはずの衣からポタポタと雫が滴り落ちている。私はもう一度袖をまくり上げ力一杯絞った。
「
「えぇ、とても良かったわ。短い間だったけど本当に穏やかで幸せな時間だった。今でも目をつぶれば波の音が聞こえてきそう…」
私は
「またきっと行けますよ」
私は“そうね”とだけ答え、地面に落ちた白砂を再び見た。
また、あの海岸を訪れる事は出来るだろうか…二人で穏やかに暮らす、誰にも干渉されず…
私達は洗濯物をすべて干し終わると、縁側に座り一息ついた。
ぽつりと水滴が額に当たり空を見上げた。さっきまでの青空はなく薄い雲が広がっている。東の空はさらに低くどんよりとした雲で覆われ遠目ながら本降りの雨なのがわかった。久々の太陽の光に喜んでいたのも束の間で、私達は大慌てて庭の洗濯物を取り込んだ。
「せっかく今日は洗濯日和だと思っていたのに…」
「今年は梅雨が早く来ましたね…」
と、もう一度灰色の空を見上げてうなだれた。
連日の雨で肌寒い日が続いているせいなのか、どんよりとした薄暗い天気のせいなのか気持ちがすぐに落ち込んでしまう。
「
岡山とは今で言う岡寺のある山だ。
見事な紫陽花の群生は青色の絨毯のように一面に咲き誇り息をのむほど美しかった。私は何本か持ち帰ると壺に挿し青紫の美しい色合いを楽しんだ。あの美しい紫陽花の群生は急な山道に息を切らしても訪れる価値があるだろう。
「…今年の梅雨は長そうね…」
私は軽くため息をつき、まだ濡れている
「あれ、
「本当に?」
彼女が指さした方を見ると確かに雨の中、笠を被り馬をひく
「
「はい、承知いたしました」
いくら初夏とはいえ、一度雨に濡れると体の芯まで冷える。私は急いで草履をはくと、戸口の前で彼を待った。
「
深く被った笠のせいで私の存在に気が付かなかったのか突如私と目が合った彼は大いに驚いた。ドッキリを仕掛けた覚えはないが、いつもクールな彼がポカンと口を開け目を丸くしている様子はあどけない子供のようで私の心を一瞬で和ませた。
「丁度、林の中にあなたが見えたのよ。今、体を拭く布を持ってくるわ」
「かまわぬ、それよりもそなたに土産だ」
ずぶ濡れの
「綺麗な紫陽花…」
「岡山の紫陽花が見頃だと聞いたので、少しばかりそなたに摘んできた。ちょうど
「
温かいものが胸に込み上げる。
「どうしたのだ?」
「あまりにも素敵で…とても嬉しいわ」
「…そうか、良かった」
雨の中…あなたが花を摘みに行くなんて想像もしていなかった…その心が嬉しいのよ…
私は彼に気づかれないように、そっと袖で目尻を押さえた。
部屋に戻ると紫陽花の枝や茎が水を吸いやすいように丁寧に手を加えた。毎日こまめに水替えをし、茎の切り口を確認し紫陽花を愛でた。
私の一心不乱な愛を受けた紫陽花はその想いに答えるかのように長く美しく咲いた。
ミーンミーンミーン…ジジジジジィィ…
長かった梅雨が明けた途端、待っていたかのようにセミが激しく鳴き始めた。本格的な夏を前に都は市だけでなく、どこに行っても活気に溢れ大勢の人々でごった返している。多くの民や技術者が百済大寺の復旧の為に都に集められ、長い間その仕事に従事している。朝廷は相変わらず慌ただしいままで、百済とゆかりのある地方豪族や官人が朝廷内を頻繁に出入りする姿が目立った。
ある日の夜、私は
「
「本当に綺麗ね…」
去年の夏、後宮の敷地で見た蛍を思い出していた。たった一年前なのにだいぶ昔の事のように感じる。あの夜の
「
「えぇ、仕方ないわ。色々問題を抱えていらっしゃるようだし…頭を悩ませているのよ」
私は軽くため息をつき彼女に微笑んだ。
「
「どうしたの?話してみて」
私は川べりの草が生い茂る柔らかそうな場所を探し彼女を連れ腰を下ろした。
「はい…では、その今、大唐を含めた朝鮮諸国で争いのせいで百済が不利な状況になり、大唐と新羅の両国から攻め入られそうだと、あと百済出身の豪族やゆかりのある民が百済救済の為に結集し戦の準備をしているとも聞きました。まことでしょうか?私の祖先も百済からの渡来人なので…気になってしまって…」
「そうだったのね…確かに大唐と朝鮮諸国はずっと緊迫状態が続いているわ。朝廷内でもずっと議論がされているのよ。事実この国の多くの民や力のある豪族は百済からの渡来民よ。だから彼らがゆかりのある百済の地を想う気持ちはわかるわ…けれど…もうこの国の田畑を耕し、自然の恩恵を受け豊かに平和に暮らしているでしょ?百済だけではなくこの倭国の民でもあるのよ」
私が少しだけ語気を強めて言うと
「確かに…そうかもしれませんが…」
と、言い首を傾げ下を向くと土手の雑草を手で引き抜き始めた。少したつと今度は、
「では、
と顔を上げ、私の顔を覗き込んだ。
「詳しくはわからないけれど、きっと
「…
「そうね…あの人にとってはこの倭国が母国であり、この国の都と民を守るのが一番大切なのよ」
「しかし、百済が滅びてしまうなんて考えただけでもおぞましいです…こんなに長い間友好関係が保たれているのに…」
「そうね。あなたの気持ちもわかるわ…」
私は息をひとつ吐き悲しげな彼女の瞳を見つめた。
いずれ百済は唐と新羅の連合軍に滅ぼされてしまう…
下手に歴史を知っているだけに、彼女を慰める適当な言葉が見つからない。私は彼女の肩にそっと手を置いた。
「さあ、そろそろ宮に戻りましょう」
「はい」
私達は立ち上がると草の上に置いておいた灯籠を手に取った。中の灯りがいつのまにか消えている。どうしようかと一瞬慌てたものの、ちょうど雲の隙間から月が現れホッと胸をなでおろした。
まだまだ運が良いらしい…淡い月の光がぼんやりと帰り道を照らす中、私達はそれぞれの思いに馳せながらただ黙って歩いた。
盛夏を過ぎると一気に涼しくなり日を追うごとに秋の訪れを感じるようになった。まだ山々に紅葉は見られないが、山野に咲く萩は花の重みで枝が垂れ、風にそよぐ姿はとても風情があった。
「
昼の忙しい時間帯なのに、どこを探しても
「はい、今朝お屋敷を出てからまだお戻りになっておりません」
門番の男が頭をぽりぽりとかきながら言った。
「そう…」
いつもなら出かける時は行き先を告げるのに、いったいどこに行ったのだろう…
私はしばらく庭にたたずんだあと部屋に戻った。
しばらくして、庭門が開く音が聞こえたので顔を上げ外を見ると、庭を走ってくる
「
私は慌てて彼女の背に手をあてた。長いこと走っていたのか背中の衣は汗でびっしょりと湿っている。私は急いで厨房に行き、水を一杯汲んで戻って彼女に手渡した。
「いったいどこに行っていたの⁈」
私が尋ねると彼女は受け取った水を一気に飲み干し、
「と、
と言い、苦しそうに胸を手で押さえた。
「いったい誰に呼ばれたの?」
私が矢継ぎ早に問いかけると、彼女は少しためらったあと口を開いた。
「えっと…それが…実は、
「
「は、はい…」
彼女は気まずそうに答え小さく頷いた。彼女が何かを隠しているような気がした私は、回りくどいかもしれないが慎重に尋ねた。
「
「もちろんでございます!」
「では何でも話せるわね」
純朴で私を慕う彼女は隠し事など出来ない。私は彼女の瞳をじっと見つめた。
「はい…実は
「い、
思わず大きな声を上げ聞き返した。
「はい…その…
「先日、百済から数名の使節団が
突然
「そ、そう…もちろんいいわ」
私は彼女に心の内を悟られないように作り笑いを向けたが、声はかすれ言葉に温度はなかった。
「本当ですか?良かった。
幸運にも今日の彼女はぎこちない私に疑いを持つ事なく、安堵の表情を浮かべ嬉しそうに微笑んでいる。
大丈夫、大丈夫、落ち着いて…
私は自分に言い聞かせると、呼吸を整え話を続けた。
「それにしても、あなたがあのお二方とそんなに深い付き合いだとは知らなかったわ…とにかく気を付けていってらっしゃい。こっちの事は何も気にしなくて大丈夫だから」
「ありがとうございます!感謝いたします」
そうだ、肝心要のことを聞いていない、部屋に戻ろうとする彼女を慌てて呼び止めた。
「り、
「はい、恐らくご存知だとは思いますが、協議には出席されません。代わりに
この事を聞いた瞬間、体から魂が抜けるような脱力感に襲われた。
彼は
私は大きく息を吐き
「そう…他に誰が出席するか知っている?」
「近江の秦様と数名の高官と官吏、そして
「そう…わかったわ…」
私は頷くと彼女を解放し玄関の柱にもたれながらぎゅっと瞼を閉じた。
どうしよう…震えが止まらない…きっとこれから何かが大きく動きだす…
固く握りしめた手がしだいに冷たくなっていくのがわかった。
翌朝、私の不安をよそに
ガタガタ、ガタガタ…
背後で鈍い音がし戸の向こうでまだまだ眠そうな
「
「あぁ…そうだったな。もう行ったのか…」
彼はあくびをすると布を肩に羽織り立ち上がった。
「もう起きる?朝食の支度をするわ」
「かまわないよ、今日は午後から朝廷に行くから少しゆっくりしよう。
「さすがに冷えるな…そなたの体も冷えているぞ」
彼の長い腕と大きな手が私の体をすっぽりと包み込む。なんて温かいのだろう…
「あなたは、行かなくても良いの?」
私は小声で尋ねた。
「まぁな、此度は
次期
鼓動が一気に早くなる。ピタッと背中にくっついている
「や、山代王様が
「まあな…」
「しかし、
「あなたは百済派兵をどう思う?」
「高句麗と百済が一丸になり新羅と戦ったとしても背後には大唐がついている。両国はいずれ同盟を組むかもしれん、新羅の女王が懇願しているからな。今動くのは賢明ではない事くらいみな承知だ。百済出身の地方豪族達がいくら騒ぎたてても朝廷としては、百済派兵をするつもりはないさ…戦は起きないから大丈夫だよ」
「それよりも次期
「あなたは
「…知っていたのか?」
「いいえ。ただ
私は歴史の流れを日本書記により知っているが、果たしてそれが事実かどうかはわからない。むしろ全ての話が偽りであって欲しい。そんな願いを込めながら涼しい顔で答えた。
「…政ごとに関心のないそなたまで、朝廷の醜い皇位争いに感づいていたとは実に情けない…」
「ずっと忙しいあなたの様子をみていれば察しがつくわ…
「そうか…」
彼はフッと鼻で笑うと私の頬を親指でなでた。
「山代王様が
彼は固い表情を見せると口をつぐんだ。もちろんその口元に笑みはない。
「
「えっ?あっ、大丈夫よ。お腹が空いたなって思って。少し早いけど朝食にしましょう」
「あぁ…そうしよう」
私は彼の腕の中を逃げるように抜け出すと足早に厨房に向かい竈に火を起こした。少しずつ燃え上がる炎を見て目を閉じた。
運命の時が迫っている…
パチパチとはじける炎の音を聞くといつもなら気持ちが落ち着くのだが、この日どんなに薪をくべて炎の勢いを増してもざわめく心は静まらなかった。
数日が過ぎた
「山代王様、百済の使節団に対してあのような言い方はさすがに礼儀に欠けるかと…」
ピリピリとした空気の中、秦氏が沈黙を破り口を開いた。
「何をいうか、媚びを売る筋合いはないぞ」
山代王が声を荒げた。
「しかし、百済と倭国は古くからの強い友好関係にあります。なぜそんなに頑なに百済派兵を拒まれるのか?」
「秦よ、拒んでなどおらぬ、百済だけでなくどの国にも協力せぬという事だ。何度も朝廷で申したであろう。まずは我が国の国力強化が先決だ」
「しかし、百済の今後を考え万全の体制を整えておかないと、任那のように滅亡しかねません。百済は我が国にとって最大の友好国です」
秦氏もまた今日は味方を大勢従えているせいか大胆にも反論の姿勢を崩さない。山代王は怒りをあらわにすると鋭い視線を彼に向けた。
「任那とは、そなた随分と昔の話をもちだすのだな。私は大伴氏ではないぞ。しかも百済こそ任那割譲を受けたおかげで命拾いしたのだろう?任那を滅ぼしたのはどこの国だ?」
秦氏は黙ったまま口を結び目をそらした。
「百済派兵については、また時期が来たら考えよう。今はまず、私の
「しかし…」
一瞬すくんだ秦氏が言葉に詰まると、
「もう、この話は終わりだ!!」
山代王は目を見開きピシャリと言うと、苛立ちを見せ立ち上がった。
「
「は、はい…」
急に話を振られた
「
山代王は淡々と言うと、
山代王が去ると、緊張が解けたのかさっきまでびくびくとしながら立っていた官吏達から大きなため息がこぼれた。
「以前も山代王様は大唐の使節団をえらく怒らせたな…」
一人の高官らしき男が腕組みをしながらぽつりと呟くと、
「はい。その時も、後から使節団の機嫌を取るのに苦労したと聞きました…」
隣にいた若い官吏が同調するように相槌を打った。
「全く山代王様には困ったものだ…」
秦氏はやれやれと軽く息をつくと、
「秦様、ひと言申し上げてよろしいでしょうか。私が
「鎌足よ…すまぬな、…山代王様が次期帝になれば百済滅亡は免れられないであろうし…蘇我氏の息のかかった
秦氏はそう言って目を閉じた。しばらく沈黙が続き、今まで静かに事の成り行きを見ていた
「…私が
張り詰めた空気を破るように
夢を見ている
ここはどこだろう?真っ暗だしやけに寒い…あの灯は何だろう…
私は暗闇の中を小さな灯りに導かれるように、ゆっくりと歩き出した。近くまで来たところで引き込まれるように灯に手を伸ばすと、突如目の前の風景が変わった。燦燦と輝く太陽の下、青々とした段々畑があたり一面に広がっている。田畑から吹き寄せる風が指の間を通り抜けた。私はすぐに、ここがどこかわかった。
そう、ここは推古天皇の陵墓だ。
「
背後から懐かしい声がし振り返ると、目の前に中宮が優しい笑顔で立っていた。
「中宮様!!」
私は両手で口を押えると彼女に抱きついた。
「久しぶりだな。元気であったか?」
中宮がいつもと変わらない優しく温かな眼差しで私を抱きしめた。
「中宮様、本当にお久しぶりでございます。お会いしたかったです…ウワーン」
我慢していたものが込み上げ、私は堰を切ったように泣き始めた。
「おやおや、
中宮がそっと子供の頭をさするように、私の頭をよしよしと撫でた。
「中宮様、私怖いです。どうしたら良いかわかりません…」
「大丈夫、そなたはよくやってくれた。運命はやはりそう簡単には変えられぬものだ。これもあの二人には宿命なのだろう…そなたに重荷を背負わせてしまってすまなかった。時が来ればそなたも全てを忘れるだろう…」
「忘れる?ど、どういう意味ですか?中宮様?中宮様?」
もう目の前に中宮の姿はなくまた暗闇の中へと戻っていく…
ハァハァハァ、ウッウッ…
私は嗚咽しながら目を覚まし溢れた涙を袖で拭った。
これで分かった、中宮が何を望み私に託したかったのかを…
中宮様、やはり私の予感通りなのですね…歴史書どおり、
拭いても拭いても涙が滝のように溢れ布団にポタポタと流れ落ちた。
「
隣で寝ていた
「
「り、
「
夜空が白み始めどんどん明るくなる。外から差し込む光に尋ねた。
いったい私はどうするべきなの?これから先、どうすればいいの?
私は答えを見出せぬまま
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