第36話 二人の誓い

 あれから数日が過ぎた。つい先日まで後宮でなんの不自由もなく暮らしていた日々が嘘のように色褪せていく。


 林臣りんしんの屋敷はこじまんりと小さく周辺を警備する隼人はやとらはいない。数人の使用人達が門の見張りや馬屋で馬の世話をしているが家事などは任されてないらしく滅多に屋敷の中には入ってこない。当然女官も侍女もいないので、私がやるべき事は毎日尽きなかった。けれどこの所帯じみた生活の方が私には性に合っている。一日が終わると心地よい疲れと充実感で心が満たされた。


 毎日林臣りんしんの体の布を替えるのが私の日課となった。彼と目が合うたびに思う。いっそのことどこかで思い切り転び頭でも打って歴史の結末を全て忘れてしまいたい。もしくは、その時が来たら彼をこっそり誘い出しどこか遠くへ逃げようか…


 未来の不安を憂うより今を大切に楽しく生きようと呪文のように自分自身に言い聞かせるがなかなかマジックがかからない。一日中ポジティブとネガティブのぼやけた境界線を彷徨うように何度も行ったり来たりしている。


 私はこれからどんな選択をするのだろうか?終わりのない自問自答を繰り返している。


 秋が深まり、飛鳥の山々も赤や黄色へと染まった。木の葉がはらはらと落ち始め、その下に立ち葉が舞うのを見るのが私の習慣となった。時折吹く朝の冷たい風に身体が震えたが、それでもかまどに火を焚くのも粥をつくるのも幸せだった。この頃にはすっかり林臣りんしんの体も回復していた。



 晴れ渡った秋空の下、


 「林臣りんしん様、見て。庭の柿が食べごろよ」


 私は籠いっぱいに集めた柿を得意げに見せた。縁側に座っていた彼は口端を上げクスッと笑った。


 「何故笑うの?」


 「…今もまだ夢ではないかと、この穏やかな心が信じられない…」


 彼の優しい眼差しが慣れなくて恥ずかしくて目をそらした。幸せな気持ちになるとすぐに不安な気持ちが後を追うようにやってくる。悲しみのどん底に一日中何度も落ちたくない。こんな気持ちも覚悟の上で彼を選んだのだ。気持ちを強く持たないと…私は慌てて話題を変えた。


 「林臣りんしん様、それと昨日裏山に登ったら沢山栗が落ちていたの、丁度食べ頃だと思うから小彩こさと一緒に拾ってくるわ…」


 私が籠を縁側に置くと彼は静かに首を横に振り、私の手を引き隣へと座らせた。


 「栗よりもそなたと共に過ごしたい」


 温かな彼の手が私の頬をさする。


 「…ずっとそばにいるわ」


 温かいものが胸に込み上げる。私は彼の手の上に自分の手をそっと重ねた。彼は軽くため息をつき意を決したように口を開いた。


 「…実は数日後にもう一度、難波津に向かう。朝鮮三国の使節や留学僧をほったらかしたまま飛鳥に戻ってきて大分時間が経ってしまった…朝貢品の授受がまだ残っているらしい。外交関連は私の責任だからな…用が済み次第すぐに戻ってくるよ」


 「わかったわ。難波津にはどれくらい滞在するの?」


 「それが結構長くなりそうなんだ…二か月か三か月か…もっと長くか…大唐と朝鮮三国の関係はかつてないほど緊迫状態だ…倭国としても協議する事案が山のようにあり問題は尽きぬ…しばらくそなたを一人にしてしまうのが、とても辛い…一時も離れたくないのに…」


 彼は大きくため息をつくと目を伏せた。そして少し沈黙したあと真っすぐな瞳で再び私を見つめた。


 凛とした瞳なのにその奥に孤独が見え隠れしている…


 「林臣りんしん様、安心して。毎日あなたを想いながら戻る日を待っているわ。私の心はいつもあなたの側にある」


 今度は私が彼の腰に手を回しきつく体を抱きしめた。彼の鼓動が伝わる。


 「すまぬな。私が戻ったら婚礼をあげよう…二人だけで」


 「えっ?」


 「私の妻になって欲しいのだ」


 「で、でも…私、罪を犯してしまったし、しかも山代王様にも大変な不敬をした身よ…」


 私は考えもしていなかった彼の申し出に驚き、動揺しうつむいた。


 「かまわぬ…他の者の意見などどうでも良い。そなたを二度と離したくない。私の側に永遠にいて欲しい…そなたなしでは生きられぬ…」


 胸に熱いものが込み上げる。歯に衣を着せぬ実直な彼だからこそ、その発する言葉が私の心の奥深くまで響いた。


 「私もよ…」


 私は彼の胸にもたれその温かな腕の中で目を閉じた。


 どうか神様、この人と一生共に生きたい。

 お願い神様…どうか聞き入れて…お願い


 私はこの時、ただ強く強く願った。



 山々の紅葉も終わりをつげ、地面に落ちた金色のイチョウの葉が冷たい風に乗りひらひらと空を舞っている。こがらしが吹く中、林臣りんしん猪手いてと共に難波津の迎館に向け旅立った。


 私は結局、林臣りんしんの勧めもあり彼が都に戻るまでの間、小彩こさと共に橘宮たちばなのみやで過ごすことになった。橘宮たちばなのみやに戻るのは今回で二度目だが、六鯨むげ漢人あやひとだけでなく馴染みのある女官や使用人達が再び私達を温かく迎え入れてくれた。慣れ親しんだ場所に戻り心底安堵したのか最初の数日は廃人のように眠って過ごした。この宮によほど縁があるのだろう。葉が散ってしまったイチョウの木をぼんやりと眺めた。


 飛鳥での長い冬の幕開けだ。都は冬の寒さに凍ってしまったかのように、ひっそりと息をひそめ静止しているようだ。時々飛鳥川沿いに建築中の建物の周辺に人が集まっているのが見えたが、朝廷を行き交う大臣や官吏達はまばらだった。都に近い市も賑わいはなく薪の店だけに人々の長い列が出来きていた。雪の日も多くその度にひどく寒さが身にこたえ、いくら服を重ねても体が冷えた。


 「燈花とうか様、あと数日で新年ですね。皆さんとお祝いしましょう」


 小彩こさが酒の甕の蓋を開けながら嬉しそうにはしゃいだ。


 「そうね…」


 林臣りんしんが難波に旅立ってから随分経つ。元気で過ごしているだろうか?私は薪をくべる手を止めるとかまどの火をぼんやりと見つめた。私の心情を察したのか小彩こさが心配そうに顔を覗き込んできた。彼女はエスパーか何かだろうか?私の心は全てお見通しのようだ。


 「林臣りんしん様なら大丈夫ですよ。お父様の豊浦とゆら大臣様から大臣の位を引き継いだばかりですし、朝鮮三国や大唐との外交問題も激務であると朝廷の役人から聞きました。落ち着けばすぐに戻られますよ」


 小彩こさが私を元気づけようと優しく背中をさすった。


 「そうね…」


 私は無理やり笑顔を作り微笑んだが、彼女は切なそうに私を見るだけだった。



 正月も開けたある日、裏庭の蝋梅が花を咲かせたと聞き一人裏庭に向かった。数日前に二日連続で雪が降ったが、それ以降は風もなく暖かい日が続いている。裏山からの雪解け水がジャブジャブと水しぶきをあげ小川を流れている。太陽の光に照らされた水しぶきがキラキラと光り虹のようにも見えて綺麗だった。


 数日前に降った雪がまだ残る中、蝋梅の可愛らしい黄色の花が目に飛び込んだ。そっと近づき枝に手をのばす。花の良い香りが辺りに漂っている。ふと足元を見ると雪の下に福寿草の蕾が見えた。春を告げる花だ…



 「雪の中で何をぼんやりしている?」


 突然背後から声が聞こえた。


 「えっ?」


 振り返った先に立っていたのは、少しやつれた山代王だった。


 「や、山代王様!」


 いつのまにか彼が背後に立っていた。


 「実に久しぶりだな燈花とうか…なぜそんなにぼんやりしている?」


 以前と何も変わらない彼が私の隣に並んだ。


 「ぼんやりはしていません…蝋梅の花を見ているのです…」


 私はうつむいて答えた。


 「梅というのは下を向いて鑑賞するものなのか?」


 山代王が寂しそうに笑った。私は苦笑いをして彼を見た。


 「勝手にここまで入ってきてしまってすまない。そなたに会いたくて…」


 昔と何も変わらない優しい声と笑顔だ。私はハッと我に返ると慌ててその場にひざまついた。


 「私こそ、山代王様に顔向けなどできぬ不届き者です。どうか今までの無礼をお許し下さい」



 「そなたを責める気持など微塵もない。さぁ立っておくれ。そなたの幸せを一番に願っているのは私なのだからな」


 彼は優しく私の肩に手をかけ立ち上がらせた。穏やかな表情だが彼の悲しみに満ちた瞳を見続ける事が出来なくてすぐに下を向いた。


 「林太郎はずっと難波津の迎館に居ると聞いたが、まことか?」


 私は小さく頷いた。


 「林太郎のやつめ…燈花とうかを一人で残すなど…なれど、朝鮮三国は政権交代で実に混乱している。大唐も含めあの周辺一帯は一触即発の緊迫状態だ。やり手ななあいつでもこの難局にはさぞ頭をかかえているであろう…許してやってくれ」


 私はもう一度小さく頷いた。


 「燈花とうか、そなたは私の宮に居た時よりも顔色も良く幸せそうだ」


 「えっ?!」


 思わず両手で頬を押さえた。


 「まったく、情けない事にまだ妬けてしまう…」


 山代王が唇を噛み下を向いた。その姿にまた胸がツンと痛んだ。


 「ところで、何故ここへ?…」


 「建設途中の帝の宮を春までに仕上げねばならないのでな、視察にまいったのだ」


 「帝?宝皇女たからのひめみこ様ですか?」


 「さようだ」


 宝皇女たからのひめみこ様はちょうど一年前に帝に即位された茅渟王ちぬおう様のご子女で、皇極こうぎょく天皇だ。そう、皇極こうぎょく天皇といえば…


 「燈花とうか燈花とうか?」


 「えっ?」


 「急にどうしたのだ、上の空ではないか…」


 山代王が私の顔を心配そうに覗き込んだ。


 「何か心配事でもあるのか?」


 「…いえ…」


 私は慌てて両手を振り笑顔を向けた。


 「林太郎なら、もう間もなく都に戻ろう」


 私が静かに頷くと少し間を置き山代王が言った。


 「それと、燈花とうか。我々も斑鳩宮いかるがのみやに居を移したのだ」


 「い、斑鳩宮いかるがのみや?」


 「さようだ。斑鳩宮いかるがのみやには度々往来していたが、本格的にあの地に腰を据えることに決めた。可笑しな話だが、この年になって、何故か学問に目覚めてな、仏門をもう一度学び直そうと思う」


 突然めまいに襲われ後ろへよろけた。彼の清々しい表情とは真逆に私の頭は真っ白になり立っているのがやっとだった。


 「さ、…さようでございますか…王妃様や白蘭はくらん様もご一緒ですか?」


 私は、言葉を選ぶようにぎこちなく尋ねた。


 「もちろんだ」


 私は大きく息を吸い込むと呆然とその場に立ち尽くした。血の気がひき指先まで冷たくなっていくのがわかる。


 斑鳩宮いかるがのみや……まさか山代王様が山背大兄王?だとしたら歴史どおりに事が進んでいく。そんな訳ない…斑鳩いかるが周辺には沢山の豪族たちが居を構えているし…あぁ、、信じたくない


 私は山代王に感づかれないように必死で唇を噛みながら蝋梅の花を見るように顔を背けた。彼が不思議そうに私の横顔を見ている。私は大袈裟すぎる作り笑いを浮かべ彼を見た。彼は安心したのかもとの表情に戻り話を続けた。


 「それと、以前にも何度か会ったことがある近江皇子おうみのみこわかるだろ?」


 私がうなずくと、


 「先日久しぶりに私を訪ねてきたのだが、実に立派に成長されてな、南渕にある請安しょうあん先生や僧旻そうみん先生のもとで熱心に儒学や易経を学んでいるらしい。そなたの事も気にかけていたぞ?」


 「さようでございますか…」


 私は消え入るような声で答えた。


 「そのうちそなたもどこかで会うだろう」


 「は…はい」


 「燈花とうかどうしたのだ?顔色が優れぬようだ」



 ダメよ、しっかりしなきゃ…しっかりして…私は何度か深呼吸をし震える手を押え山代王をお茶に誘った。


 「まだまだ早春、底冷えいたしますね。山代王様、お茶を入れますので屋敷の中へまいりましょう…」


 私が茶室に足を向けると、


 「いや不要だ、少しだけそなたと話がしたくて寄ったのだ。冬韻とういんを門で待たせているゆえ、もう帰るよ」


 「そうですか…冬韻とういん様も…」


 私はバツが悪くてうつむいた。


 「フフ、もちろんだとも。気にするでない、済んだことだ」


 顔を上げることができない。


 「燈花とうか、もう済んだことだ。皆がそなたの幸せを心から願っているのだ…」


 彼は私の手を取ると念を押すように言った。


 「山代王様…」


 後宮で受けた恩を考えるとますます胸が痛んだ。


 「では、またな…」


 山代王はくるっと振りかえると立ち止まることなく門に向かい歩き出した。


 山代王様、本当にごめんなさい…

 どうか不敬な私をお許しください…


 祈る想いで彼の小さくなる後ろ姿を見送った。



 日を増すごとに陽ざしは強くなり、道端の草花は一気に育ち始め生気が溢れだした。鳥達のさえずりも賑やかになり金木犀の甘い香りと共に温かな風が吹き始めた。


 「燈花とうか様見てください!!桃の蕾がこんなに大きくなっているのです」


 小彩こさが門の横に植えてある桃の木を指差しながらキャッキャッとはしゃいだ。


 「えっ、もう?」


 「はい、今にも蕾が開きそうですよ」


 「…楽しみね…」


 膨らんだ蕾を眺めながら林臣を想った。日ごとに彼への想いがつのる。


 「と、燈花とうか様、涙が…」


 自分でも気が付かないうちに涙が頬を伝っていた。


 「えっ?なぜかしら…なんだか胸が苦しくて…」


 私は肩をすくめながら両手を胸に当てた。


 「燈花とうか様大丈夫ですか⁈」


 小彩こさが心配そうに私の背中をさすりながら言った。


 「燈花とうか様、嶋宮しまのみやの桃林を見に行ってみてはいかがですか?今日はお天気も良いですし、特にすることもありませんから」


 私がよほど暗い顔で落ち込んでいたのか、みかねた小彩こさが私に桃林の散歩を促した。


 「そうね、少し気晴らしに行ってみようかしら…」


 私は残りの仕事を彼女に任せ、支度を済ませると宮を出た。


 見渡す景色は澄み渡り、爽やかな水彩画のようだ。飛鳥川をさらさらと流れる水の音が心地良く私の心を癒していく。


 嶋宮しまのみやに向かうこの道も久しぶりに歩く。ちょうどニ年前の今頃、泥酔した私を林臣りんしんが背負って歩いた道だ。どんな会話を彼と交わしたか覚えてないが、暴言を吐いていたとしても今の彼なら私を極刑にすることはないだろう。こうして考えると私のメンタルも実は強いのかもしれない…

彼はいったい私のどこに惹かれたのだろう?


 ぼんやりと歩いていたらいつのまにか桃林の入口に辿り着いていた。どの桃の木もふっくらとした濃いピンク色の蕾でいっぱいだ。


 私は足を止め少し霞んだ春の空を見上げた。


 ずいぶん昔にこの場所で初めて彼の琴の音を聞いた。あの夜、土砂降りの雨が突然止み夜空に月が浮かんだ。淡い月の光の中で美しく儚い琴の音が響いてきたのよ…


 私は再び桃林の奥にある池に向かい歩き始めた。池のほとりに咲く桃の木の下にしゃがみ、岸に咲く花々の中で戯れる二匹の蝶を眺めながら林臣りんしんの事を思い出していた。


 一昨年の夏の早朝、この池の中洲で蓮の花が開くのを待ったわね。私が池に落ちそうになって…フフ…なんだかはるか遠い記憶に思えるわ…それと、去年後宮に入る私の為に宴を開いてくれたあの夜、あなたはとても酔いながら私に想いを告げてくれた…


 私は膝を抱えた。溢れた涙がどんどん衣に吸い込まれていく。突然背後から温かい腕に包まれた。


 「何故泣いている?」


 顔を上げると池の水面に林臣りんしんの姿が写っていた。


 「り、林臣りんしん様…」


 彼は更に強く私を後ろから抱きしめた。


 「だいぶ、帰りが遅くなってしまった。そなたに会える日をどれほど待ちわびたか…」


 「り、林臣りんしん様」


 私は勢いよく立ち上がると彼の体に抱きついた。


 「林臣りんしん様、無事戻って来て良かった…本当に良かった…でも、わかっていたけれど随分長く待ったわ!」


 言葉にならないほど嬉しかったが逆に恨めしくも思えて、私は涙を拭いながら拳で彼の胸を叩いた。


 「すまない、けどもう二度とそなたの側から離れぬ」


 彼は両手で私の頬の涙を拭うと、優しく私を抱きしめた。



 温かな春風と共に桃の花の甘い香りが私達を包み込んだ。頭上の枝に止まった鶯がピーピーピーと嬉しそうに鳴いている。その日私達は日が暮れるまで桃林で共に過ごした。

 

 数日後、猪手いて橘宮たちばなのみやに私を迎えに来た。桃の花が満開になったので花見でもしようと林臣りんしんの提案だ。


 「燈花とうか様、今日もとても美しいです。やはり林臣りんしん様から頂いた大唐の絹は立派ですね。なめらかで、光沢があって…素敵です」


 小彩こさがため息まじりに言った。


 「ありがとう小彩こさ、でもこの色私に合うかしら?あまり着ない色だから…」


 「燈花とうか様。こんな濃い桃色の衣が似合うのは燈花とうか様くらいしかいらっしゃいませんよ」


 小彩こさが目を細めながら口を尖らせた。


 「花見をするだけなのに、こんなに着飾る必要があるかしら…」


 私は金の縁飾りのついた華やかな桃色の上衣の袖を見つめながら彼女に尋ねると、


 「当たり前ですよ!今日の燈花とうか様の美しさはより一層際立ちましょう」


 小彩こさが鼻を膨らませながら興奮気味に答えた。朝早くから気合を入れて私をめかし込んだのだからさぞ満足だろう。その表情から重大な事を成し遂げた達成感と自信が伝わってくる。


 「ありがとう小彩こさ、あなたも一緒に来るでしょう?」


 「あっ…私、本日は所用があり、その…お供できないのです」


 小彩こさはポッと頬を赤らめはにかんだ。


 「そっ…そうなの?最近留守にする事が多いようだけれど、何かあるの?」


 「い、いえ何もありません。せっかく春を迎えたので、せわしなく動き回っているだけです。はい…」


 小彩こさはバツが悪そうにもごもごと答え言葉を濁した。


 「それよりも、燈花とうか様、猪手いて様が首を長くしてお待ちですよ」


 「あら、上手くごまかしたわね。まぁいいわ」


 深くは詮索しなかったが、最近小彩こさは一度出かけると長い事宮に戻って来ない。彼女も立派な大人だ、母親でさえもこんなに過保護に子供の行動を逐一監視しないだろう。彼女こそ自由に生きなければいけない。


 私はもう一度身なりを整えると急いで東門に向かった。門の横では門番の漢人あやひと猪手いてが何やら楽しそうに話していたが、私の姿に気が付くと二人は話をやめこちらをじっと見た。わざとらしく、しなりしなりと歩き彼らの目の前に立つと、猪手いてがため息まじりに言った。


 「燈花とうか様、なんと美しいのでしょう…」


 「猪手いてったら、お世辞でも嬉しいわ」


 私は拳で口元を押え笑った。


 「お、お世辞などではございません!私は率直な意見を…」


 猪手いては顔を真っ赤にして頭をかいた。


 「本当に猪手いて様の仰る通りです。今日の燈花とうか様は格別にお美しいです」


 横に並んでいた漢人あやひとも後押しするように言った。


 「二人ともありがとう」


 聞きなれない誉め言葉に顔から火が出るほど恥ずかしかったが、この幸せな瞬間を素直に受けとめたいと思いにっこりと微笑み返した。


 「林臣りんしん様がお待ちなのでは?」


 後ろでクスクスと笑っていた小彩こさが急かすように口を挟んだ。


 「そ、そうなのです!では燈花とうか様、馬車に乗って頂けますか?」


 猪手いてが慌てて馬車に手を向けた。


 「ええ」


 「燈花とうか様、行ってらっしゃいませ」


 小彩こさがいつも以上にニコニコしながら見送ってくれた。その大袈裟すぎる笑顔に少し違和感を覚えたが、それ以上に私の心は軽く弾んでいた。


 猪手いての合図で馬車がゆっくりと動き始めた。温かな春の陽ざしが降り注ぐ中、芽吹いたばかりの葉はキラキラと光り、道端の花は色鮮やかに咲いている。飛鳥川を流れる水の音とメジロの可愛いらしい鳴き声が美しいハーモニーを奏でているようで心が躍った。


 なんて美しい世界なのだろう。私は心から穏やかなやすらぎを感じていた。


 「着きましたよ」


 すぐに馬車は嶋宮しまのみやに到着し、猪手いては私の手を取りゆっくりと馬車から降ろした。


 「燈花とうか様、私は後からまいりますので、先に池でお待ちいただけますか?」


 猪手いてが馬の手綱を引きながら私を見て言った。


 「もちろんよ」


 私は彼と別れると、ゆっくりと歩き出した。


 満開の桃林は本当に美しい。しばらく歩くと林の奥にキラキラと光る池の水面が見え、その手前で林臣りんしんが真っ直ぐにこちらを向き立っている姿が見えた。彼もまた金縁のついた美しい濃い藍色の衣をまとい、髪は綺麗に一つに結い上げられ薄い緑色の翡翠ひすいで出来たかんざしでとめられていた。


 彼の端正な顔立ちと少し冷淡な眼差しが満開の桃林の中で凛とした美しさを放っている。彼の隣には小さな祭壇のようなものが置かれ、棚の上には果物と酒の瓶と器が並び、地面に置かれた花壺には桃の枝が飾られていた。


 私はこのドラマのワンシーンのような光景が現実ではない気がして一瞬足を止めたが、凛と立つ彼の姿があまりにも美しくて引き寄せられるように彼のもとへと向かった。


 「林臣りんしん様、これは…」


 私が祭壇に目を向けると、彼は優しく私の手を取った。


 「今から二人だけで婚礼をあげよう」


 「えっ?」


 「約束したであろう、忘れたか?」


 彼が優しく微笑んだ。


 「林臣りんしん様…」


 言葉が出ない。彼の真剣な眼差しから彼の本気が伝わる。突然訪れた美しい瞬間に胸が熱くなり彼の瞳をじっと見つめた。


 「さぁ燈花とうか、隣に座り私がやることを真似てくれ」


 胸がいっぱいで頷くのがやっとだった。彼が太陽の方を向き何度か拝礼をしたので私もその後に続いた。その後、彼は祝詞のような言葉を言い終えると袖の中から包み紙を取り出し広げた。中から瑪瑙めのうの髪飾りが現れた。


 「あっ…」


 私は驚いて声を上げた。百済大寺で刑を受けたあの晩に失くしてしまいとても落ち込んでいたのだ。もう見つからないとあきらめていたが再び私のもとに返ってきた。


 「私がまた拾った。今度も金具が壊れていたからもう壊れないように頑丈に直させた」


 彼はそう言うと髪飾りを私の耳の上でとめ、吸い込まれそうな深く澄んだ瞳で私をじっと見つめた。


 「私の妻となり生涯そばに居て欲しい」


 「はい」


 彼は私の体を抱き寄せると頬に手をあて口づけをした。温かな春風がビュウと林を吹き抜け、桃の花びらが一斉に空高く舞い上がった。ひらひらと落ちる花びらはまるでフラワーシャワーのように甘く優しく私達を包み込んだ。



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