第35話 選んだ手
夢を見ている。幾度となく見てきた夢だ。
「行かないで!行ってはダメよ!…
ハアッッ!!
涙が耳元を流れ髪を濡らしている。天井には明るい陽射しが差し込み何かを反射しているのかキラキラとした光りが小さく揺れている。外からチュンチュンと鳥のさえずりが聞こえた。
…ここは、どこだろう…
穏やかで温かな日差しを受け再び目を閉じた。
また同じ夢…やっぱり
「り、
叫び声と同時に目を見開いた。すぐに廊下からパタパタと走る音が聞こえ、カタカタと部屋の戸が開いた。キシッ、キシッっと足音が近づき、目の前に不安げな顔の
「と、
「痛っ…」
「いけません
「ここは?」
「若様のお屋敷です」
「
「さようでございます。刑が終わったあと若様が
「えっ?り、
気が動転していたがとにかく彼の無事を確かめたかった。
「別室で治療されているのですが…その出血が酷く状態が思わしくないのです…」
「そ、そんな…」
私は背中の痛みをこらえてながら起き上がるとフラフラ歩き始めた。あの人に会わなくちゃ…
「と、
「お願い、会わせて頂戴…お願いよ…」
私は力を振り絞り、
「と、
私があまりにも心痛な表情をしていたのか、
「足元に気を付けてください。ゆっくり歩いてくださいね」
部屋の戸を開けると明るい陽ざしが差し込む長い廊下に出た。私は猪手にもたれながらゆっくりと廊下の奥へと進んだ。突き当りまで来ると、
「こちらのお部屋です」
ガタガタガタ、
り、
彼を見た途端に次から次へと涙が溢れた。私は静かに横たわる彼の隣に座ると、青白い顔をそっと撫でた。血が通っていないかのように冷たい…
私の代わりに刑を受けこれだけの深い傷を負ったのだ。痛々しい姿に目をそらした。
「出血は止まったのですが、意識が戻らぬのです…」
戸の側でじっと様子を見守っていた
「
私は彼の手を両手で包み込むように握り涙声で叫んだ。
「愛しておられるのです。若様がこれほどに人を愛おしく思われるお姿を、今まで一度たりとも見たことがありません。命を懸けてでも
あぁ涙が止まらない…全身の水分が全て涙に変わっていくようだ…
溢れる涙がポタポタと床に落ちた。
静かな部屋の中で二人のすすり泣く声がいつまでも響いた。
翌日、背中の傷の痛みも大分ひき一人で歩けるようになった。朝一番で彼の部屋を覗いたが意識はまだ戻っていない。
「
私は幾度となく
「丈夫なお方です、きっと時期回復されます。毎日医官も診察をしては薬を煎じてくださっておりますので、もうしばらく様子を見ましょう」
「では、新しい布を用意するわ…」
私が力なく答えると、
「
「今まで幾度も
「お気持ちはわかりますが…」
ザッ、ザッ、ザッ
庭から足音が聞こえ、屋敷の玄関に門番の男が現れた。
「
男は大きく声を張り上げている。
「どうしたのだ?若様の意識がまだ戻っておらぬだから静かにせよ」
「はぃ、すみません。急ぎ来たものですから」
男はバツが悪そうに頭をポリポリかき顔を赤らめた。
「で、どうしたのだ?」
「実は、今屋敷の前に山代王様がおいでなのです」
「や、山代王様が⁈まことか⁈」
「へい…
「な、なんと…」
「山代王様がおいでなの?」
私がもう一度門番の男に尋ねると、
「へぇ…神妙なお顔をされていて…」
彼もどう対応すればいいのかわからないのだろう、腰を曲げもじもじと指をいじっている。
「…すぐに行くわ」
私はそう言うと
ザ、ザッザッ、ザッザッザッ
門の前をゆっくり歩く山代王の後ろ姿が見えた。少し離れた所で
「山代王様…」
「
山代王は私を見ると駆け寄り肩に手を置いた。
「体の具合はどうだ?大事ないか?」
「はい、だいぶ良くなってきました」
私が答えると、
「全て私の不徳のせいだ。本当にすまなかった」
山代王は悲しそうに微笑み私に詫びた。数日間で伸びた無精ひげがどれほど私を心配していたかを物語っている。
「いえ、王様のせではありません。全て私が起こした事、私の責任です」
心からの言葉だった。あなたのせいではないと心底伝えたかった。安心させたくて私は彼を見て無理やり微笑んだ。
「
王はひとまずほっとしたのか口元を少し緩めたが、すぐに寂し気にうつむいた。
「で、林太郎の意識は戻ったのか?」
「いえ…まだです」
「さようか…、此度は林太郎に大いに助けられた。大唐から実に希少な良薬を取り寄せたゆえ、医官に持たせる」
静かに近づいて来た
「
山代王は優しく言い私の手をとった。私は少し間をおいて答えた。
「…はい。ただ、今から医官が来て
「もちろんだ」
王が快く返事をすると
私が厨房に着くとすぐに玄関付近が騒がしくなり、パタパタと廊下を歩く音が響いた。きっと医官達が到着したのだろうと思い、急いで竈に火を焚きお湯が沸くのを待った。
沸いたお湯を桶にいれ部屋に運ぶと、医官らしき男が
私は治療の邪魔にならないように静かに彼の少し後ろに座った。医官の男は髭が生えた顎を手で触りながら何かを考えるように天井を見上げている。そして、
「おかしいな、なぜだろう?まぁ、ひとまず包帯を変えるか…」
と言いこちらを向いた。懐かしい顔と目が合い驚いた。
「
私が驚きながら言うと、彼もまた目をパチパチとさせ口をポカンと開けた。
「えっ?
彼は少し体をのけぞらせながら私を上から下まで見た。
「事情があって…」
私がためらいがちに言うと、
「さ、さようでございますか…」
とだけ言い、何かを察したのかそれ以上追及してこなかった。
私は、慌てて彼の状態を尋ねた。
「
「えぇ…それが…脈が非常に弱いのです。あらゆる手段で治療しているのですが、なんというか生きる気力がもはや残っていないような……なんとも…」
「そんな…どうかお助けください」
「さきほど、庭で山代王様にお会いし、大変希少な滋養強壮のある生薬と薬草をいただいたのです。それを煎じて飲めば症状が回復するかもしれません。すぐに取り掛かりますので…」
「私も手伝います」
「しかしこの生薬は絶大な効果がありますが、煎じ方が特殊で複雑なのです。何時間も火加減をみながら適切に煎じないと効果どころか毒にもなりかねません。大変根気を要する作業でございます、医女も幾人か連れてまいりましたのでおまかせください」
「いいえ、私もお手伝いいたします」
一歩もひかない頑なな私の態度に根負けしたのか
「山代王様、申し訳ありません。明日もう一度迎えをよこしていただいてもいいですか?」
「構わぬが、どうしたのだ?」
「王様が取り寄せてくださった薬を煎じるのに、人手が足りぬのです。
「そうか…わかった。では、また明日迎えにまいるゆえ」
「感謝いたします」
私がお辞儀をすると、山代王は立ち上がり
私は門で二人を見送ったあと急いで裏庭に行き、
「どうですか
私が急かすように尋ねると、
「はい、私の記憶が正しければこれで間違いないはずです。少し置いて煎じ薬が冷めるのをまち人肌になったら、
「はい…」
私は大きく息をはき、縁側にへたへたと座った。良かった。ひとまず、無事薬は調合できたらしい…私は昇る朝日を見つめ祈った。
どうか、この薬が効きますように…
そのまま昇る朝日を見ていた。煎じ薬が適温になったところで慎重に部屋に運び、
呼吸はしているのに…もし、このまま彼が死んでしまったらどうしよう…
震える手を必死で押えた。
「ひとまず、薬はお飲みになられたので、様子をみましょう。あと一刻ほどしたら、同じように飲ませてください」
「
私が深くお辞儀をすると
「
「いいの…」
私は横たわる
「
「
「わかったわ…」
彼はまだ深く眠っている。
「
「はい…
私は何も答えずに下を向いた。
「
私は力強く言い
「
「任せたわよ」
私はそう言い立ち上がると門へ向かった。門の前では
「
私は
ヒヒーンと馬の鳴き声と同時にガタガタと馬車が動き始めた。
「さぁ、若様、煎じ薬を飲みましょう」
寝ている
「わ、わ、若様⁈お気づきになられたのですか⁈猪手です!お分かりになられますか?」
驚いた
「良かった!!本当に良かった!!」
安心した
「
「えっ⁉︎…そ、それが…若様…」
「…もう少しだったのに…」
後宮に着いた時にはもう日が傾いていた。とても疲れていたので、馬車の中では死んだように眠った。こんなに深い眠りについたのはいつぶりだろう…
「
「え、ええ…」
何日振りに帰ってきた後宮だろうか、随分と離れていたような、遠い昔の記憶のように思えた。門の横に
「と、
私の姿を見ると彼女は勢いよく走って来て抱きついた。
「ご無事で良かった、本当に良かった…」
「すまなかったわ
二人で抱き合いながら泣いた。その様子をみていた
「
私は大きく頷き
「王妃様、
「通しなさい」
戸がスーっと開き部屋の正面から王妃が歩いてきて私の手を取り涙ぐんだ。
「無事で本当に良かった」
私は彼女の顔を見てすぐに体を床に伏せた。
「此度は多大な迷惑を王室にもたらしてしまい、申し訳ありません」
とにかく、今回の事を謝りたかった。私の為に何人の人が尽力してくれたかと思うと、申し訳なさでいっぱいだった。
「な、何を言うのだ」
王妃は慌てて私の手を取り立ち上がらせた。
「何もしてやれずにすまなかったのはこちらの方だ」
王妃の言葉を聞き、私は首を横に振った。
「王様は来られますか?」
「どうであろう…ここ数日朝廷に呼ばれていてな、今日も都にいるのだ。明日またゆっくり話せばよいだろう」
王妃が優しく言った。
「…さようでございますか」
私は首にかけていた
「この指輪は王妃様こそ持つに相応しいお方です。どうかお納めください」
「こ、これは、王様から贈られたものだろう?」
王妃が目を丸くして言った。
「はい、王様のお母様の形見だそうです」
「そうなのか⁈…知らなかった…」
王妃は更に驚いた様子でしげしげと眺めた。
「でも、なぜ私が受け取るのだ?昔、そなたが友の証にと受け取ったものだろう?」
王妃が不思議そうに眉を寄せた。
「そうなのですが…持つ資格がないのです」
私は静かに答えた。
「…贈られる資格がないので、王様にお返ししたいのです」
胸が痛かった。この言葉を言わずに済めばどんなに楽だっただろう…
「ど、ど、どういうことなのだ?いったい何が起こったのだ?」
王妃が慌てて立ち上がると、同時に後ろの戸がピシャっと開き山代王が部屋の中へと入ってきた。王は私の顔を見るなり言った。
「
山代王は涙ぐむ私を見て、顔をこわばらせている。私は少し沈黙したあと、彼を真っすぐに見つめ拳をぎゅっと握り直した。
「王様、今まで私を受け入れてくださり心から感謝しております。言葉にならないほど感謝しております…しかし、私の心が…私の心がここにないのです…」
私はズキズキと痛む胸を押えた。
でも…言わなきゃ…
「心がない…?」
山代王は困惑した表情で私を見つめている。私は覚悟を決め重い口を開いた。
「此度の件で、自身の本当の気持ちに気が付きました。心からお側でお仕えしたい方がいます。全てを投げ打ってでも愛してみたい人がいるのです…何もかも私が悪いです。全て愚かな私の責任です…本当に申し訳ありません…」
「ど、どういう…他に慕っている男が…まさか…林太郎か⁈」
私は静かに頷いた。
「自分でも愚かなことに、自身の気持ちに気づいていなかったのです。しかし此度の件で、はっきりとわかりました…
「な、なんと…」
山代王は力が抜けたようにへたへたとその場にしゃがみ込んだ。王妃が慌てて王を支え顔を歪めながら言った。
「ヤツのもとに行っても王様との縁談を断ったのだから結婚はできぬぞ。しかも、かような贅沢な暮らしはできぬし、安全も保障されぬ。それでも、あの者の側にいたいというのか?」
「申し訳ありません」
私は床に額をつけ謝った。正直この数日間で何度も迷った。山代王のそばで暮らせば穏やかで平和で満ち足りた生活を送れるのはわかってる…でも、どうしても彼を愛してみたかった…たとえ彼が
部屋の中が静まり返っている。
「…これで、失礼いたします」
私は立ち上がると深くお辞儀をし王妃の部屋を出た。後ろから慌てて
「待ちなさい!」
門まで来たところで、後ろから山代王に呼び止められた。
「
「山代王様…」
「そうですよ
「これは、そなたへの友情の証に贈ったものだ」
「…山代王様…」
私は深くお辞儀をすると、自分の部屋へと戻った。久しぶりに帰った部屋は綺麗に片付けられ美しい花が飾られ、良い香りが漂い以前と変わらぬ優雅さだ。
「あぁ、
「いえ…そうではないのです」
彼女が真っすぐな瞳で私を見つめて言った。
「気がついておりました。牢屋で
「…
「私は
「
二人で泣きながら抱き合った。きっといつか、必ずこの恩を彼女に返す日が来るだろう。
チュンチュン、チュンチュン
朝になった。
「
部屋の外から侍女が呼ぶが応答はない。しびれを切らした王が部屋の戸を開けた。部屋の中は朝の光が差し込みシンと静まり返っている。王は寝台の上に置かれた巾着を手に取った。
「こ、これは…」
中の
〝山代王様、やはり指輪はお返しいたします。指輪がなくともあなたへの尊敬と友情と感謝の気持ちは生涯変わりません。どうかお元気で、
「
王ががっかりと肩を落とし寝台に腰掛けた時、ちょうど王妃が部屋に現れた。王妃もまたガランとした部屋を見て声を落とし言った。
「王様…やはり、
「いや。不要だ…」
「何故ですか⁈」
「昨日、朝廷に呼ばれた時に帝から告げられたのだ。やはり
「えっ⁈なれど、罪を償えば許されるとおっしゃっていたではありませんか⁈」
「…重鎮達が意見を変えたのだ。罪を償ったところで、結局は罪人なのだろう。側室になれなければ後宮では暮らせない。采女として側に置いておくのではあまりにも残酷すぎる…
王は手のひらの指輪を見つめた。
「…王様…」
王妃が落胆する王の肩に優しく手を置いた。
部屋の中には婚姻の儀に向けて用意された美しい衣や髪飾りや宝飾品がそのまま残されていた。
「あの子、何も持たずに行ってしまいました…」
王妃が寂しそうに呟いた。
秋風の吹く山道を歩いている。木漏れ日の中、今まで叶わなかったハイキングをしているような気分になり両腕を大きく振って歩いた。
「
「きっと昼過ぎには着くわよ。頑張って歩きましょう」
「はぁはぁ…少し休憩をとりませんか?疲れました…」
「じゃあ、あなたは少しここで休んでから来るといいわ、私は
「と、と、
二人で、黙々と歩いているが途中
ようやく遠くに大官大寺の九重塔が見えてきた。
「
「本当ですね!頑張りましょう。はぁはぁ…」
荷物が少なくて喜んでいた彼女も今は息を上げている。それもそのはず途中で摘んだ野草がパンパンになり袋の中から飛び出している。この量ならば一週間くらいは野草料理だけでしのげそうだ。
「
「甘樫丘です」
「甘樫丘?甘樫丘は
「はい。甘樫丘の裏側に面したところにあるお屋敷が
息をのんだ。でも、覚悟していたこと
…やはり林臣様が…
飛鳥川を越え甘樫丘にようやくたどり着いた。ぐるっと回りこむように裏側から坂を登り屋敷を目指した。
「…着いた…」
門番の男は居ない。
「誰かいるのか?」
「と、
「勝手に上がってしまってごめんなさい。でもどうしても
私が矢継ぎ早に尋ねたので
「そ、それが…」
彼の動揺している様子を見て一気に私の鼓動は早くなり彼の部屋へと走った。
「
後ろで
「そ、そんな、そんな…」
私はヨロヨロと歩き彼の体に覆いかぶさった。
「ど、どうして…どうしてこんな事に…私の気持ちも聞かずに逝くなんてひどすぎる…ウッウッウッワーン」
子どものように大声で泣き崩れた。その瞬間、顔の布が外れ
「えっ⁈」
驚いて見ると、彼がこちらを見つめている。
「り、
私は震える両手で彼の頬をさすった。すぐに私の手の上に彼の温かな手が重なった。
「良かった…本当に良かった…でも騙すなんて酷い!」
私がクシャクシャの顔で怒ると、
「すまぬ、悪ふざけが過ぎたようだ…そなたの声が聞こえたから…」
彼はそう言うと私の体を抱き寄せた。心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。彼が低い声でささやいた。
「自ら戻ってきたという事は、私を選ぶのだな」
私は黙って頷いた。
「今までに味わったことのない実に良い気持ちだ…これが真の幸福というものか…そうだ、そなたの気持ちをまだ聞いてなかったぞ?」
「それは…戻ってきたのが、私の答えよ。わかっているくせに…」
「ふん、相変わらず可愛くない……」
いつもと変わらぬ冷たい視線に、
「ププッツ…
何も変わらない彼に思わず笑ってしまった。
「この通り良くなってきている…心配無用だ。あの程度の事で死ぬわけなかろう?」
そう、この上から目線さえも懐かしい。この横柄な態度のどこに惚れたのだろうと自分でも理解できない。でも、私の心は彼だと言っている。
「あら、
私も容赦なく心の内をぶつける。なんて気楽で心地が良いのだろう…
「いや、そなたには此度の件の償いをしてもらう…」
「そう来ると思ったわ。何をすれば良いの?」
「…生涯、片時も私の側を離れるな…そなたを愛している」
彼が真っすぐな眼差しでこちらを見た。深く澄んだ瞳があの桃林で過ごした夜を思い出させた。
「
彼の大きな手が私の頬を引き寄せ、唇が触れ目を閉じた。なんて幸せなんだろう…
秋の夕陽が優しく私達を包み込んだ。
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