第27話 新たな土地へ
「
「う~ん、今起きるわ…」
「
蝉の鳴き声と共にいつもと変わらぬ朝が始まった。あと数日でこの宮を去るなんて本当なのだろうか?戸口の横にひっそりと咲く紫陽花の花を見つめた。
部屋をくまなく見てもまとめる荷物がたいしてない。いつものように軽く掃除を済ませ、中庭へと向かった。今日も朱色の都は太陽に照らされ輝いている。この景色もあと数日で見納めだなんて到底信じられない。
「
振り返ると
「今日は天気が良いので、ここで昼食をとりませんか?」
「えぇ、もちろんよ」
私は喜んで応じた。包みの中は玄米のおにぎりがいくつもにぎられ、茶器からは金木犀の甘い香りが漂った。
「美味しそう、ありがとう。あなたの作ってくれる、おにぎりと粥が一番美味しいわ…」
私の顔が暗く沈んだのだろうか?
「そんな、王宮ではもっと豪華で美味しいお食事が出てきますよ。海とやらで採れる食材はこの上なく美味だそうです。確かアワビとかなんとか…」
「いえ、あなたの作る粥が一番よ。必ず恋しくなるわ…」
私がおにぎりを一口かじると
私は気持ちを切り替え出来る限りの笑顔を作り再び彼女を見た。そして、彼女の少し安堵した表情を確認したあと、今まで聞いていなかった彼女の今後について尋ねた。
「ねぇ、
「はい、しばらくは
「
「はい、さようでございます。今は数年前に新羅より帰国されました
「そう…」
「確か、皇子様の側近の男性の名は、
彼らの歴史を知っている事を疑われるはずはないが、念のため少しだけとぼけたような口調で尋ねた。
「は、はい。さようでございます…、なぜ
「あっ、あの皇子様が彼をそう呼んだのを聞いたのよ」
「あぁ、そうでございましたか…」
それにしても
二人がこの飛鳥にいるという事は…今は西暦何年なのだろう?ふと疑問がよぎった。確かなのは
このまま運命の流れに身を任せるつもりではいるが、もし本当に日本書紀が偽りのない正確な史書だとすると643年に
でもなぜだろう…心臓を誰かに鷲掴みさているような気分だ。考えただけで胸が苦しくなる。本当にそのような悲惨な出来事が起こるのだろうか?万が一事実ならばそれを見届けなければいけないのだろうか?
だとしたら、運命はなんて残酷な仕打ちを私にするのだろう…
「
ガシャーン!!
「た、大変!!と、
「だ、大丈夫よ、考え事をしていて…本当に大丈夫だから…」
あの夜、確かに彼女は私に何かの願いを託した。それが未だに何についてなのかわからないが、それを解決したらもとの現代に戻るのだろうか?そうなったら長い夢を見ていたと、いつしか全ての事を忘れてしまうのだろうか?
「
「大丈夫よ、考え事をしていてあなたの声に全然気が付かなかった私が悪いのよ」
「と、
「と、
「大丈夫よ、
「そうですが…不安なのです」
私はもう一度大丈夫よ、と言い彼女の震える体を抱きしめた。丁度その時、背後から
「
「
私は
「
「
「ありがとう。あらためて言われるとなんだか照れるわ」
「実は此度の
「
「当然でございます、
「な、何も変わらないわよ!」
私が驚きながら言うと隣にいた
「
「そ、そんな…」
「では、明日の夕刻にお迎えに参ります」
と言い再び深く頭を下げ去っていった。私が
こんな事想像もしていなかった。私は複雑な気分に胸がつかえそうになりながら
翌日は朝から新しい生活への緊張と不安が一気に押し寄せ、夕刻になるまで屋敷の中を落ち着きなくただウロウロとしていた。
新しい土地や生活にすぐに慣れるだろうか… 王妃様は快く受け入れて下さるだろうか…
夕刻になり
「
「はい、お気をつけて。明日は衣を合わせますので、なるべく早めにお戻りください」
「えぇ」
部屋に入ると既に沢山の人が着席し宴を始めていた。コの字を描くように机が並べられその上には沢山の川魚や旬の野菜、果実、蘇などの豪華な食事が用意され床には酒の甕がいくつも置かれていた。
「
侍女に案内され席につくと、すぐに見知らぬ大臣や官吏の男達が作ったような笑顔を振りまきこぞって祝いの言葉を上げに来た。これには私も驚き動揺したが、山代王の朝廷での地位の高さと権力の強さが彼らをそうさせたのだろう。なんとなく居心地が悪かった。
祝いの挨拶の人々が引きしばらくすると、
懐かしい香りだ…前にも一度この梅の香りをかいだ事がある。その時の事を思い出していた。二回目のタイムスリップの前になるから、年月でいったら十四年前だ。
突然の土砂降りの雨で身動きが取れず、
確かあの時まだ
「
「ありがとう、でも今晩だけはいつものあなたでいてちょうだい」
「えっ?で、ですが…」
「では、
「それにしても、
「そうね、誰にも話していなかったし知っていたのは
「さようでございましたか…確か昔も一度、山代王様との婚約の話があったと伺いましたが…」
「ええ…でもあの時は私に事情があり叶わなかったのよ…山代王様からまた機会をいただけて光栄だわ」
「
「ありがとう」
「しかし、
「私もきっと寂しくなるわ…。でもまたどこかで会えるわよ」
私が言うと、
「所で
「あれっ、さっきまでいらしたのに…どこに行かれたのかな…厠かな…」
「そう…明日は早くから準備があるからそろそろお暇しようと思って、最後に
「さ、さようでございますか…では宮までお送りしますので…またお、お声かけ…くさい…」
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
と
ボロン、ボロン…
微かに風に乗って琴の音が聞こえる。耳を澄ませると再び琴の音が桃林の奥から聞こえて来た。
この琴の音、昔も聞いた…きっと同じ人が弾いているのだろう…そんな事を想いながら、ゆっくりと音のする方へ近づいた。木の陰に小さな灯がゆらゆらと見え隣に人影が見えた。はやる好奇心を抑えながら静かに足音をたてずに近づいた。
あぁ…やっぱりそうか…
「
私が小さな声で呼ぶと
「そなたか…良い所に来た…一曲講じよう…」
ただ酒に酔い上機嫌なのか口調はいつもよりも明るい。そしてボロン、ボロンと再び琴を弾き始めた。彼の上機嫌さとは裏腹になぜか琴の音が寂し気に桃林に響いた。
「あっ、
私は急いでそばに駆け寄った。よく見ると近くには空になった酒のとっくりが数本転がっている。こんなに酒に酔っている
「
「ふん、そなたには関係のないこと…ぷはぁ~良い気持ちだ…」
「
そう言って立ち上がろうとした時、グイっと袖を強く引っ張られそのまま地面に倒れ込んだ。
気付くと寝転がる
「り、
さすがの私も驚いて大声を上げ
「そなたも見てみよ、実に美しい月だ…」
えっ?不意をつかれた私は夜空を見上げた。確かに大きな月がぽっかりと浮かんでいる。月は明るく輝き桃林一面を青白い光で照らしていた。一瞬その幻想的で美しい光景に気を取られたが、すぐに我に返り
「り、
必死で起き上がろうとしたが、
「り、
私はもう一度、大声を上げた。ひっそりとした桃林に私の声が響き渡った。
「好いている…」
「えっ?…」
私が
「そなたを好いている。出会った時から、今もなお…」
時が止まったのだろうか…音が何一つ聞こえない。彼は今、何と言ったのだろう…。
…嘘…突然の予想もしなかった告白に頭はクラクラと回り目の前はチカチカとし思考回路は完全に止まってしまった。手足もピクリとも動かない。目の前に見えるのは
ハッ…我に振りドンと
ドンドン、ドンドン、ドンドン。
「開けてちょうだい!!」
「と、
私は何も言わずに走って自分の部屋に戻った。部屋に入ったとたん体中の力が抜けドスンと床にしゃがみ込んだ。
最低だ…どうして…なぜ、今あんなことを彼は言ったのだろう…しかもキスまで…。私は衣の袖をぎゅっと握りしめ唇を拭いた。こんな風に
ドタバタとした音に気が付いたのかすぐに
気持ちが落ち着いてきた所で
私はこの晩、一向に寝つけず何度も寝返りをうっては天井を見つめた。
チュンチュン、チュンチュン。
鳥の鳴き声と共に朝の光が差し込んできた。
トントン、トントン
「
昨晩の事もあり
「…えぇ」
あぁ、頭の中ではまだモヤモヤと深い霧が立ち込めている。昨夜の事を思い出し再び唇を触った。冷たくも温かくもない温度のない唇…。でも、夢じゃない…両手で顔を覆った。
「お気持ちは落ち着きましたか?」
私が首を横に振ると
「こう言ってはなんですが、
確かに言われてみればそうだ。先日
「そうかもしれない…きっとそうだわ」
私は自分に言い聞かせるように
「明日は王家からの迎えが来る待ちに待った日です。ついに
そうよ、新しいステージが始まるのだから余計な事に惑わされている場合ではない。私は気持ちを切り替えると、戸口の横に置かれた桶の水を勢いよく顔にかけた。
真新しい緑の
「
「さようでございます。本日の
私は涙を浮かべた
「ここを離れても、私に会いにきてくれるでしょう?」
「もちろんでございます。お許しがいただければ、いつだって
私は頷き部屋を出た。戸口の外では宮の皆が別れの挨拶をしようとずらっと並んでいた。東門の横に
「
「
私は心からの感謝の言葉を告げた。彼もまた私を二度も救った命の恩人だ。
「とんでもないことでございます。亡き中宮様もきっとお喜びになられているはずです」
「そうね…。そう願うわ」
隣にいる
「
「はっ、承知しました!」
「
「はい」
私はうなずくともう一度後ろを振り返り、宮の皆に別れの挨拶をした。
さぁ、行こう…このまま運命に身をゆだねるしかない、新たな道を歩きださないと…
私は覚悟を決め最後に
「出発!!」
「
「
私は大きく手を振った。門の前にたたずむ皆の姿が徐々に小さくなっていく。
さよなら、宮のみんな…どうかお元気で…
我慢していた涙がぽろぽろと頬を伝った。飛鳥に来て以来ほぼ
都を出ると百済大寺の巨大な塔が前方に見えた。それを横目に山の奥深くへと馬車は進んだ。最初のうちは水田も見えたが山間を抜けると一気に道幅は狭くなり青々とした山が目前まで迫った。馬車はそのまま緩く長い上り坂をゆっくりと進み途中で歩みを止めた。
「
ゆっくりと馬車を降りるとさっきまでの山道からは想像できないほど平たい大地が目の前に広がっていた。山の中腹を切り開いた土地なのか、宮の裏手に山がまじかに見えた。
宮の正面には大きな門が構えられ高い土壁が敷地を囲むように裏山へと続いている。門番だけでなく壁の前にも甲冑をつけた
敷地の中にはいくつもの平屋の建物が裏山の方へと連なるように建っている。宮の南側に面した一番大きな屋敷の前に山代王と王妃、側室の
「
山代王は私のもとへと駆け寄ると、私の手を取り握りしめた。数日前に会ったばかりなのにどこか懐かしい。後宮の中で見る彼は一国の王に相応しく力強く威厳があり逞しく見えた。
「勿体ないお言葉でございます」
私が言うと山代王は優しく微笑み、私の手を引き王妃の前に連れていった。
「王妃よ、このものが
「はい、王妃様。
私が震える声で挨拶をすると、王妃が優しく答えた。
「よく来てくれた、そなたのことは王様からよく聞いている。かしこまることはない、顔を上げなさい」
「は、はい」
握った手のひらが汗でびっしょりだ。
「王様から容姿端麗の美しい女人だと聞いていたが全くもって誠であるな。さぁ、長旅で疲れたであろう、中に入って休みなさい」
王妃が微笑みながら優しく言った。
「感謝いたします」
私が軽く会釈をすると、隣にいた山代王が笑い始めた。
「ハハハハ、もはや私が居なくとも良さそうだ。もう互いに打ち解けているように見えるぞ」
「これも全て王様の人徳のなせる業でしょう」
王妃が少しからかい気味に返すとその場は一気に和み
「さあ、そなたの屋敷に案内しよう」
山代王は嬉しそうに言うと、再び私の手を握り歩き始めた。彼の温かな手にひかれ堂々と歩くなんてまだ夢を見ているようだ。
外から見るよりも後宮の敷地は広く簡単に迷いそうだ。敷地のいたるところに撫子のピンクの花が咲き、紫陽花も一番の見頃を迎えていた。
通り過ぎる若い
「ここが今日からそなたが住む屋敷だ」
他の屋敷に比べると簡素な作りだが入口の側に植えられた芍薬の白く大きな蕾がシンプルな建物によく調和し美しかった。
山代王はそのまま私の手を引き屋敷の中へと入った。中に入ると小さな広間がありそれに面して左右と正面に部屋があった。正面の部屋へと進み戸を開けたとたん、太陽の光が顔面を照らし眩しくて目を閉じた。
日差しをよけながら目を開けると部屋の広さに驚いた。
「気に入ったか?」
呆然とする私の顔を覗き込むと、山代王が得意気な顔で言った。
「はい、とても素敵すぎて、まだ夢を見ているようです…ですが、私のような身分の人間がこのような待遇を受けて、なんというか、気が引けます…」
戸惑う私を山代王は優しく抱きしめた。
「何を言うのだ、正式な婚儀こそ済ませてはおらぬが、そなたはもう王族の一員だ。そなたの為に用意した私の心だ。受け取って欲しい」
「山代王様…」
山代王の私を見つめる熱い眼差しが恥ずかしくて目をそらした。
「あ~っ、そなたをすぐにでも、私の所に召したいが正式な婚姻の儀が終わるまでは、見守る事しかできぬ。なんと歯がゆいのだ。これほどまでにそなたを切望しているのに…」
山代王はそう言うと強く私を抱きしめ直した。
「
「存じております。でもおそばに居られてとても嬉しいです。私も早くここでの暮らしに慣れるよう努めます」
「そなたのそのような健気な心に惚れているのだ」
山代王は私を見つめ顔を近づけた。ゆっくり目を閉じると彼の唇の感触が伝わってきた。なんて優しく温かな唇なのだろう…いつまでもこの幸せで穏やかな時間が続きますように…
「そなたもさぞ疲れたであろう、ゆっくり休みなさい。また明日ゆっくり話そう。私の家族も紹介せねばならぬしな。後ほど食事を運ばせるゆえ食べなさい」
「ありがとうございます」
そう言うと、山代王は名残惜しそうにため息をつき部屋から出ていった。一人になった部屋はガランとし静まり返っている。寝台に座り部屋に差し込む光をボーッと眺めた。
ふっと涙がこみ上げた。袖から中宮からもらった手巾を取り出し見つめた。手巾の上にポタポタと涙がこぼれ落ちた。
中宮様、とうとう運命が動き出しました…
あなたの想いを果たす事が私に出来るでしょうか?もし何も見出せぬままこの地に埋もれてしまっても私を許してくれますか?
寝台に寝ころびなおし天井に反射する夕方の陽ざしを見ていた。いつのまに深い眠りに落ちたのだろう…部屋の外から侍女の呼ぶ声がかすかに聞こえたが、目を開けることができなかった。
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